商品コード: ISBN4-7603-0239-5 C3321 \50000E

第10巻 救荒(1)

販売価格:
50,000円    (税込:55,000円)

第X巻 救荒【1】
Volume Ⅹ Japanese Famine Relief Plants and Animals(1)

○江戸時代、国内資源の枯渇からくる飢饉を克服するために、有用動物・植物の研究が行なわれた。本巻はその成果で、動物・植物の生態学的・形態学的研究から、採集・食用方までも叙述してある。この中の、凶荒時に食用とする山野の植物についての考察は、日本の縄文時代の野生植物を研究するためのたいせつな資料ともなるであろう。動物・植物・鉱物・食物・生薬名索引を載せる。

             解 説

(一)救荒に関して
 「救荒生物」とは、読んで字の如く、飢饉に際して、非常食料として、人々の生活の糧となる動物や植物の総称のことである。そのために、日常の生活においては、あまり頻繁に食されない場合が多い。世界の各地において、古来より現代まで、人々の食生活の需要を満たす基本的な物質は植物と動物である。植物資源の獲得は、採集、栽培によって得られ、また、動物の資源を獲得するもっとも有効な方法は、狩猟、漁労、そして飼育であることは言をまたない。ただ、農耕による栽培植物の生産は、雨、風、日照時間、湿度など、天候の変動に左右されることが多く、翻って考えるならば、不安定で不確定な要素が多いと言える。海外からの食料資源の輸出入が途絶えた江戸時代にあっては、当然の事ながら、国内の食料生産の不安定なシステムを補完することなどは、とうてい不可能であった。徳川吉宗が主導した「享保の改革」の政策実現の一環としての「全国産物調査」「採薬使の巡検活動」なども、農業生産物の安定的な供給システムの確立が主眼であったことを、今一度、検討する必要があろう。
 江戸時代における大飢饉が、救荒生物を研究し、さらに、栽培や飼育へと向かう導入の役割を果たしてきたことは否めない事実である。本来、飢餓を救済する目的で記された、「救荒図書」が植物学や博物学の基礎資料とするためには、通俗的で非科学的であるとする意見には、ある真実を含んでいると言える。中国の明代に刊行され、江戸時代初期に日本に移入された「本草綱目」が、それを模倣あるいは換骨奪胎したさまざまな通俗書が、「救急方」などの表題で、巷にあふれて、さまざまな影響を及ぼし、本質の目的を見失った経験的な学として流布されていったことと、類似できよう。しかし、その反面、これら大衆的な医学書の頒布により、日本古来の伝統的あるいは経験的な病気治療方法が紹介されていったことを見逃すわけにもいかない。これと同じ思考方法を採用するならば、救荒の資料の刊行に際しても、植物採集や漁労・狩猟などを軸に展開されていた、縄文時代の生活様式を考察するうえでの手がかりになったことは評価する必要があろう。野生の動物・植物の調理や栽培の方法なども、この研究の過程で明らかになることが多いはずである。後に隆盛を極めることになる、料理・園芸技術などにも、何らかの影響を及ぼしていったことが推測される。
 江戸時代の米は、食糧であるとともに、擬似的な貨幣としての役割を担わされていたとするのが、編者の見解である。貨幣のように絶対的な交換価値をもつものではないが、資本主義の未発達な閉鎖的な社会における相対的な交換価値の役割を担わされていたことは、想像に難くない。江戸時代の税金の一部は米で代用され、集積された米を貨幣に交換することが普遍的であった。ただ、この経済システムは、商業や工業が未発達であることが大前提になる。江戸時代の十八世紀中期から十九世紀にかけての経済的大変動とは、海外からの輸入品の増大による国内産の銀の流出、そして、世界経済システムに組み込まれる中での商業や工業の生産システムの確立によるところが大きいと、編者は考察する次第である。この擬似的な貨幣としての価値を有する米の生産に関して、為政者が品種改良を含む技術的な研究、米の流通機構の整備及び合理化を実行するのは当然のことである。飢饉が、この擬似的な貨幣を一つの軸とした経済システムを破壊し、崩壊に導くことになったのも、また事実である。国民に食糧をあまねく供給し、国内の社会経済システムを維持し発展させる最大の目標は、飢餓を克服し、米の安定的な生産能力を確保することにあった。そして、大部分の米が税金の代用品として国家に徴発されるならば、食糧として他の動物・植物を獲得することが非常に重要な生活の大事となってくる。この、日常生活からの要請と、周期的に発生する飢饉を克服する過程で、「救荒生物」の研究や開発は、大きく育まれていったのであろう。飢饉の時のみならず、必要な栄養素を確保して活動しなければならない国民にとって、「米の代用品」の生産や開発は、必要に迫られていたのである。
 ここで、江戸時代の大規模な飢饉とそれを引き起こした災害を列挙してみることにする。

*寛永十九(一六四二)年 冷害と凶作のために大飢饉
*享保十七(一七三二)年 秋に、西国が、蝗の害により大飢饉。餓死者多数
*宝暦五 (一七五七)年 秋に、奥羽地方を中心に大飢饉
*宝暦七 (一七五七)年 夏に、関東・北国・東海道筋で水害が発生。東北地方で飢饉
*天明三 (一七八三)年 冷害のために諸国で大飢饉。七月六日に、浅間山も大噴火し、降灰の被害甚大
*天明四 (一七八四)年 諸国で大飢饉。奥州の被害が甚大
*天明六 (一七八六)年 諸国で大凶作。二月九日、日光山で大火。七月、関東で大洪水
*天保五 (一八三四)年 諸国大飢饉

 いずれも天候の不順による変化が引き起こした災厄である。古代や中世においては、水利の便が不十分なために、旱魃の時には水不足で播種や植え付けが不可能になったが、近世以降にあっては、灌漑・貯水設備の整備などにより、旱害は次第に克服されてきた。近世にあっては、特に、イネの結実期における夏の日照時間の不足により、生育が疎外され、不作や凶作になることが多かった。この他に、天変地異の変動も数多く記録されている。一例として、宝永四(一七○七)年十月四日には、諸国で大地震が発生し(宝永大地震)、同年十一月二十三日には富士山が噴火して、宝永山を生じ、降灰や火災による被害は関東地方の広範囲に及んだと言われている。河川の氾濫による耕作地や住居地の破壊現象は、全国で起こっている。これらの災害の原因は多々挙げることができよう。ただ、言えることは、必ずしも、不定期的かつ暴発的な自然的災害だけでは説明できないことである。水害や火事などは、人間の叡智を用いて、土木工事などによる河川道の修復や間伐・森林の合理的な管理などにより、ある程度は防御できる。飢饉を引き起こす冷害などの対策に関しても、米に代用する栄養価値の高い植物の育成、食料の長期的な貯蔵方法の開発、品種改良などにより、飢餓を幾分かは軽減できるものである。これらの様々な必要に迫られて、「救荒生物」の研究が開始され、発達を遂げてきたと推測される。確かに、「救荒図書」の刊行が、「天明の大飢饉」後に少し増加し、「天保の大飢饉時」に急増したことと考えあわせると、この推定を裏付けることになる。
 本資料集成においては、「救荒植物」に関する基本的な文献七種類をとりあげた。以下に書誌解題を記載したので参照されたい。なお、「救荒」は、「救荒生物」の他に、政治的かつ経済的な概念をも含む用語であるが、ここではあえて「飢饉時に食用とする生物の研究」の意味で使用してある。「救荒」の総体的な研究に関しては、稿を改めることにする。また、「救荒」の研究書は、「救荒植物」の資料が殆どであるが、飢餓に際しては、昆虫の成体、昆虫の幼虫、は虫類、両生類、哺乳類。魚類なども食用とすることが多く、誤解を与えないためにも、表題を「救荒生物」とした次第である。また、これらの文献の一部は、原文でも解読可能であると判断し、あえて解読を施さなかったことをお断りしておきたい。

(二)書誌解題
(イ)「救荒本草」和刻本(朱? 著、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-七六、十五冊)
 原著の初版の成立は永楽四(一四○六)年で、周定王の朱?の著作である。松岡玄達が、漢文に訓点を施し、自説を加えて、享保一(一七一六)年十月に、京都の柳枝軒、白松堂、含翠亭において刊行。松岡玄達による「合刻救荒本草野譜序」の年記は正徳五(一七一五)年で、刊行は享保一(一七一六)年とされている。四百十四種類の植物(草部・二四五種類、木部・八○種類、米穀部・二○種類、果部・二十三種類、菜部・四十六種類)を、十四巻で、見開きにて図入りで解説してある。右側に植物図を配置し、左側の解説で、中国の本草書での名称、生産地、形態、飢饉に際しての食用方法(救飢)などを懇切丁寧に記載してある。末尾の所々で松岡玄達が解説を加えている。また、植物の日本での呼称についても、松岡玄達が記述していて、非常にわかりやすい構成となっている。さらに、「既存の本草書に記述されている植物」が百三十八種類、「新しく増加した植物」が二百七十六種類と明記されている。木部は数えてみると七十九種類あり、目録に記載されている八十種類より、山寨樹(さんえいじゅ)の一種類が不足している。この原因については、探求していない。また、巻之十四に所属すべき冬葵菜、?菜など十四種類の菜部の植物が巻之十三に含まれているのは、単なる製本に際しての誤りであろうと推定される。ただ、目録においては、これら十四種類の植物は、「菜部」に含まれていることを報告しておきたい。参考までに、全体の目録構成と、救荒植物の内訳の表を掲載する。

*序目(序文、叙文、條例、目録)
*巻之一 ・草部 (三十四種類)
*巻之二 ・草部 (三十三種類)
*巻之三 ・草部 (三十三種類)
*巻之四 ・草部 (三十七種類)
*巻之五 ・草部 (二十六種類)
*巻之六 ・草部 (二十四種類)
*巻之七 ・草部 (三十二種類)
*巻之八 ・草部 (二十六種類)
*巻之九 ・木部 (四十一種類)
*巻之十 ・木部 (二十種類)
*巻之十一・木部 (十八種類)
*巻之十二・米穀部(二十種類)
*巻之十三・果部 (二十三種類)
*巻之十四・菜部 (四十六種類)

 この資料は明の徐光啓編『農政全書』(一六三九年刊行)に記載してあったものを刻しているとする説がある。しかし、松岡玄達自身の執筆による序文を解析してみると、参考書として活用したことは明記しているが、編者において、『農政全書』の原書を参照する機会に恵まれず、それ以外の件に関しては、断定することはできなかった。この徐光啓編『農政全書』(一六三九年刊行)は、初版の発行から二百年を経過して発行されていて、徐光啓の知見が書き加えられているとの説があるが、検証はしていない。これらの版の他に、第二版(嘉靖四[一五二五]年、太原・山西)、第三版(嘉靖三十四[一五五五]年、開封)、第四版(萬暦十四[一五八六]年)、節録本(萬暦二十一[一五九三]年、胡文煥編『格致叢書』に収載)が、中国において刊行されている。いずれも原版に接することは不可能に近く、各版において、内容の改訂・増補が少なからず行われていることを考えあわせると、最初に書かれた記事を推定することは非常に困難な業と言えよう。この資料においても、六種類の序文(叙文)と一種類の「條例」が記載されていて、中国や日本において、改訂と増補が少なからず実行されてきたことを窺わせるに十分である。これらの未解決の問題に関しては、読者諸氏の慧眼に委ねる次第である。また、他に、次のような資料が発見された。
*「救荒本草」和刻本(朱? 著、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-七七、七冊)
 「享保元(一七一六年)歳孟冬穀旦」の表記があり、京都の柳枝軒(藤野九郎兵衞)、白松堂(茨城多左衞門)、含翠亭(川勝七郎兵衞)において刊行。冊数が異なるだけで、内容も発行者も(イ)と同一である。
*「救荒本草」和刻本(朱? 著、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-七四、十五冊)
 「享保元歳孟冬穀旦」の表記があり、京都の柳枝軒(藤野九郎兵衞)、白松堂(茨城多左衞門)、含翠亭(川勝七郎兵衞)において刊行。冊数、内容、発行者も(イ)と同一である。
*「救荒本草」和刻本(朱? 著、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○‐七六、十五冊)
 「享保元歳孟冬穀旦」の表記があり、京都の柳枝軒(藤野九郎兵衞)、白松堂(茨城多左衞門)、含翠亭(川勝七郎兵衞)において刊行。冊数、内容、発行者も(イ)と同一である。
*「救荒本草」和刻本(朱? 著、松岡 玄達 校訂、国立国会図書館白井光太郎文庫所蔵、特一-三七一、四冊)
 松岡玄達による「合刻救荒本草野譜序」がなく、奥付には、京都の柳枝軒(藤野九郎兵衞)、白松堂(茨城多左衞門)、含翠亭(中西右兵衞)、享保一(一七一六)年刊行と表記されている。目次は手書きで、「既存の本草書に記述されている植物」を「既出」、「新しく増加した植物」を「新増」の項目をたて、それぞれに分類して記述している。(イ)で脱落していた、木部に所属する山寨樹(さんえいじゅ)が手書きで掲載されている。処々に、「治病」の項目がたてられていて、手書きの記事が散見される。また、「果部」においては、「形態」「治病」の項目の記事が手書きで記されている。これらのいくつかの事実を総合して解析してみると、(イ)の刊行された書籍に、誰かが、改訂・増補を行う目的で、新しいデータを挿入したと考えられる。手書きの部分を含めて考察すると、その全体像は、「[校正]救荒本草」(周定王 著、松岡 玄達 校訂、小野 蘭山 校正)に酷似している。書き込みを行った当事者を特定することはできなかったが、小野蘭山もしくは彼の門下生である可能性は十分にあると言えよう。
 因みに、全体の目次構成は、第一冊(序目、巻之一~巻之三)、第二冊(巻之四~巻之八)、第三冊(巻之九~巻之十一)、第四冊(巻之十二~巻之十四)である。
*「救荒本草」和刻本(朱? 著、松岡 玄達 校訂、国立国会図書館白井光太郎文庫所蔵、特一-六六七、一冊)
 (イ)の巻之一。題箋と内題の「農政全書 救荒本草」の表記は誤りである。
*[校正]救荒本草(朱? 著、松岡 玄達 校訂、小野 蘭山 校正、国立公文書館所蔵、三○○-七五、二冊)
 洋綴本。「[校正]救荒本草」の表題は、日本でつけられた名称であろう。「寛政十一(一七九九)年己未三月再刻」の表記があり、京都の長松堂(大路次郎右衞門)において刊行。上巻が「救荒野譜」「救荒本草(序目、巻之一~巻之五)」、下巻が「救荒本草(巻之六~巻之十四、附録)」をそれぞれ収録している。ここでは、菜部に所属すべき冬葵菜、?菜など十四種類の植物が、目録に「菜部」として表記され巻之十三に含まれている。このことが「[校正]救荒本草」と表示した理由であろうか。「序目」「巻之一~巻之十四」は(イ)と全く同一で、「救荒本草跋」の後に、附録として、菜部三種類(蕓薹菜、?菜、苦苣菜)、果部二十六種類、合計二十九種類の「救荒植物」についての記事が書き込まれている。松岡玄達が校訂した旧版において省略されていた植物の形態や生態、病気に際しての活用方法を「治病」の項目をたてて、書き加えているのが大きな特色と言えよう。また、最後に「再鐫救荒本草跋」と題した小野蘭山による記事が、二丁に渡って掲載されている。柱題は「救荒補遺 巻之九」と表記されていて、「巻之九」は別に存在している。その委細は不明である。この資料においては、二十九種類の「救荒植物」については、各二種類の記事があることになる。
*[校正]救荒本草・再刻(朱? 著、松岡 玄達 校訂、小野 蘭山 校正、国立公文書館所蔵、三○○-六八、八冊)
 和綴本。題箋には「[校正]救荒本草・再刻」と表記されている。内容は、右記の「[校正]救荒本草」と全く同一である。前述の「救荒補遺 巻之九」が、「巻之九」として、独立した書籍となっている。おそらく、書籍の冊数としての「巻」と、文章の分類の単位としての「巻」を混同したために、このような表示になったのであろう。言い換えるならば、「救荒補遺 巻之九」は、「九冊目の書籍」の中の「十五番目の章」に相当することになる。因みに、この配架番号(三○○-六八)の一冊目は「救荒野譜」である。
*[校正]救荒本草・再刻(朱? 著、松岡 玄達 校訂、小野 蘭山 校正、国立国会図書館白井光太郎文庫所蔵、特一-三七二、一冊)
 和綴本。題箋には「[校正]救荒本草・再刻 巻之五」と表記されている。内容は、正本の「[校正]救荒本草」の「巻之六」と「巻之七」で、「巻之六」の沙参のみを欠いている。
*[校正]救荒本草・補遺 巻九(朱? 著、松岡 玄達 校訂、小野 蘭山 校正、国立国会図書館白井光太郎文庫所蔵、特一-八四九、一冊)
 「寛政十一(一七九九)年己未三月再刻」の表記があり、京都の長松堂(大路次郎右衞門)において刊行。菜部三種類(蕓薹菜、?菜、苦苣菜)、果部二十六種類、合計二十九種類の「救荒植物」についての記事が書き込まれた「救荒本草補遺篇」が独立した一冊の書籍となっている。この資料については、巻を改めて刊行の予定である。
(ロ)救荒本草(小野 職博[蘭山]口授、国立公文書館所蔵、一九六-一一九、二冊)
 口授者の小野職博[蘭山]は、寛政十一(一七九九)年三月に、『[校正]救荒本草、救荒野譜補遺』の和刻に、編者として携わっている。天明八(一七八八)年の京都の大火で版木が消失したために、門下生の小野職博[蘭山]が、師匠の松岡玄達の衣鉢を受け継いで再刊したのである。小野職博[蘭山]の講義を門下生が書き取って、整理・編纂した内容である。編纂者の姓名などの記載はなく、手書きである。この資料は、日本に生育する約五百二十種類の救荒植物についての簡単な概説書である。「救荒本草上」「救荒本草下」「救荒野譜」の三部構成。記載も簡単で、中国の漢名と和名の校合、日本種の形態や生態の記述に重点がおかれている。中国産植物との、形態や食用方法の比較などについては、注目に値する記事が多い。「救荒本草上」では草類約二百四十種類を、「救荒本草下」では木類百六十種類を、「救荒野譜」では、その他の植物百二十種類を対象として記載している。
(ハ)救荒本草啓蒙・救荒野譜啓蒙(小野 職孝[蕙畝(初代)]口授、小野 職實 録、国立公文書館所蔵、一九六-一一八、五冊)
 口授者の小野職孝[蕙畝(初代)]は、小野職博[蘭山]の孫にあたり、嘉永五(一八五二)年に没している。小野職孝[蕙畝(初代)]の講義を書き取ったのが、彼の長男の小野職實[蕙畝(二代目)]である。天保十四(一八四三)年刊行。見返しには、「天保十三(一八四二)年/壬寅十月刻」「板貯衆芳/軒之書藏」とあるが、田中恵操の跋文の年記が、天保十四(一八四三)年三月に書かれていることから、発行年を推測した次第である。なお、序文を前田利保が天保十二(一八四一)年十月に、漢文で記している。小野職實[蕙畝(二代目)]の書き記した「例言」によれば、祖父の小野職博[蘭山]は、「本草綱目啓蒙」に引き続いて、「救荒本草」の啓蒙書の刊行を意図したが、果たさずに死亡し、彼の遺命を奉じた子息の小野職孝[蕙畝(初代)]がその業を引き継ぎ、三年の歳月をかけて小野職實[蕙畝(二代目)]にその原稿を書き取らせたとしている。中国と日本の植物を比定することにより、日本でも利用可能な植物種を確定し、「日本産の救荒植物」の存在とその効用を普く、一般の人々に普及させることが、ひとつの目的であったのであろうと推定される。「救荒本草」所収の植物四百十四種類、「救荒本草野譜」所収の植物百二十種類、重複を除いて、合計四百八十八種類の「救荒植物」の形態、生態、薬用方法、異名、方言名、類似品、引用文献名について簡略に記述している。図はなく、可食部位、調理方法についての記載がなく、植物の配列も原著と全く同一である。また、「救荒本草」和刻本に欠落している木部の山寨樹(さんえいじゅ)が、本文に掲載されている。ただ、目次頁では脱落している。最後に、「救荒本草啓蒙」と「救荒野譜啓蒙」が合冊されていることを考慮して、この表題を採用した次第であることを付け加えておきたい。
(ニ)救荒本草通解(岩崎 常正[灌園]著、国立国会図書館伊藤圭介文庫所蔵、特七-一一、五冊)
 成立は、文化十三(一八一六)年。全八巻。「救荒本草」の註釈書である。「救荒本草」和刻本に欠落している山寨樹(さんえいじゅ)が目次、本文の中で、ともに掲載されている。「救荒本草」に掲載された四百十四種類の植物について、和名、地方名、梵語名、文献名、形態、生態、園芸品種名、近縁種名、薬用方法、工芸的活用方法などを詳細に述べているが、肝心の食用方法については触れていない。図は掲載されていない。救荒書籍と言うよりは、むしろ植物誌的な色彩の濃い資料である。
(ホ)「救荒野譜」和刻本(王西樓 輯、姚可成[蒿?山人] 補遺、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-七六、二冊)
 松岡玄達が、漢文に訓点を施し、さらに、植物の漢字名に和名を与えて、享保一(一七一六)年十月に、「救荒本草」とともに、京都の白松堂において刊行。上巻が、明の王西樓の輯で、下巻は、姚可成[蒿?山人]による補遺篇で、両巻とも、各六十種類、合計百二十種類の植物を図とともに掲載する。いずれも、一種類の植物について、ひとつの図と可食部、形態、生態などを簡略に叙述した解説を載せている。図も簡単で、解説文も、要点を解りやすく記述しているので、多くの人々に少なからぬ影響を与えたと言われている。他に、次の資料が知られている。伊藤長胤と香川修徳が、正徳五(一七一五)年に、序文をしたためている。
*「救荒野譜」和刻本(王西樓 輯、姚可成[蒿?山人] 補遺、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-七四、二冊)
 内容は、(ホ)と同一。
*「救荒野譜」和刻本(王西樓 輯、姚可成[蒿?山人] 補遺、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-八三、一冊)
 松岡玄達による「合刻救荒本草野譜序」が掲載されている。内容は、(ホ)と同一。しかし、上巻は、白鼓釘と剪刀股の二種類以外
は落丁のために脱落し、下巻は、跋文を欠く。手書きで「享保元年版行本」と明記されている。
*「救荒野譜」和刻本(王西樓 輯、姚可成[蒿?山人] 補遺、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-七五)
 洋綴本の「[校正]救荒本草」の上巻の前半部を占めている。(ホ)と異なるのは、「野菜譜序」が跋文の前に移動していることと、巻之下の目録において、(ホ)の「合歡」「欅」「槿」「槐」が、それぞれ「合歡葉」「欅樹葉」「槿樹葉」「槐樹葉」に変更しているこである。ただし、(ホ)の本文中においては、「合歡葉」「欅樹葉」「槿樹葉」「槐樹葉」となっている。「巻之上」が(ホ)の上巻に、「巻之下」が(ホ)の下巻に、それぞれ相当する。
*「救荒野譜」和刻本(王西樓 輯、姚可成[蒿?山人] 補遺、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-六八、一冊)
 和綴本の「[校正]救荒本草」の第一冊目に掲載されている。上巻と下巻が合冊されていて、「日本平安書肆長松堂梓」と記載されていて、内容は、洋綴本の「[校正]救荒本草」(国立公文書館所蔵、三○○-七五)に類似している。国立国会図書館所蔵の本書(特一-八四八、一冊)も同書店からの発行と明記されているので、おそらく同一の書籍であると推測される。
*「救荒野譜」和刻本(王西樓 輯、姚可成[蒿?山人] 補遺、松岡 玄達 校訂、国立国会図書館所蔵、特一-三七七、一冊)
 「皇都書舗 華文軒 壽梓」「享保元年 京都の柳枝軒(藤野九郎兵衞)、白松堂(茨城多左衞門)、含翠亭(中西右兵衞)刊行」と明記されていて、内容は(ホ)と同一である。
(へ)民間備荒録(建部 清庵 著、国立公文書館所蔵、一八二-二六五、一冊)
 最初に原稿として完成したのは、宝暦五(一七五五)年十二月。宝暦五(一七五七)年秋に、奥羽地方を中心に起こった大飢饉に啓発され、その惨状を憂いて、この書を記し、翌、宝暦六(一七五六)年、一関藩に献上した。同藩は写本を数多く作成し、領民に配布した。本書は、日本で最初の本格的な「救荒書」であり、飢饉時に食用とする植物種の選定と栽培の方法、救荒植物の調理方法と解毒の方法、飢饉の時に活用する食物の所蔵方法、飢餓で倒れた人々の救助方法、飢饉時に発生する病気に対しての処置方法、祈祷方法など、飢饉に際しての心得を懇切丁寧に説いた書で、後の時代に作成されたさまざまな「救荒資料」の手本ともなった。特に、下巻においては、八十五種類の救荒植物について、味、解毒方法、調理方法などを具体的にかつ平易に叙述している。この資料が書籍の形式で最初に刊行されたのは、それから十六年後の明和八(一七七一)年七月のことであった。この資料も明和八(一七七一)年七月に須原屋から二巻で刊行された。この資料においては合冊されている。以後、何回も印行されていて、需要の多さを窺わせる。図は描かれていない。著者の建部清庵は一関藩の藩医の要職にあり、さまざまな本草書、医学書などに接触する機会が多かった。彼は、正徳二(一七一二)年に生まれ、天明二(一七八二)年に没している。
(ト)備荒草木図(建部 清庵 著、国立公文書館所蔵、一九七-八、二冊)
 建部清庵は、明和八(一七七一)年に、「民間備荒録」と対をなす目的でこの「備荒草木図」の草稿を作成したが、果たさずにこの世をさることになった。「民間備荒録」が「理論篇」もしくは「救荒の原理論篇」であるとするならば、この「備荒草木図」は「飢饉に際しての実践的な指針となる応用篇」となるはずであった。それから時代は下って、文化二(一八○五)年、建部清庵の子息にして、杉田玄白の養嗣子となった杉田伯玄も、再度の校訂・印行を試みるが水泡に帰し、ようやく陽の目を見たのは天保四(一八三三)年十二月のことであった。杉田伯玄の弟にあたる杉田立卿がようやく成し遂げたのである。掲載された植物は百四種類で、漢名、和名、可食部、調理方法を要約して記載している。これら百四種類の原図は建部清庵の友人の北郷元喬が作成していたが、そのうちの不完全な作品七十一種類は、専門の絵師などにより修正を施して刊行された。「民間備荒録」の後印本も、この年の三月に刊行された。
この資料は天保四(一八三三)年刊行の「天真樓藏版」を使用した。なお、「民間備荒録」「備荒草木図」の解読文は、紙幅の都合で掲載できなかったので、巻を改めて掲載の予定である。
 二○○六年十月

                                         編者識

◎「救荒本草」和刻本(朱? 著、松岡 玄達 校訂)
◎救荒本草(小野 職博[蘭山]口授)
◎救荒本草啓蒙・救荒野譜啓蒙(小野 職孝[蕙畝(初代)]口授、小野 職實 録)
◎救荒本草通解(岩崎 常正[灌園]著)
◎「救荒野譜」和刻本(王西樓 輯、姚可成 補遺、松岡 玄達 校訂)
◎民間備荒録(建部 清庵 著)
◎備荒草木図(建部 清庵 著)

  • 数量:

救荒に関して

 「救荒生物」とは、読んで字の如く、飢饉に際して、非常食料として、人々の生活の糧となる動物や植物の総称のことである。そのために、日常の生活においては、あまり頻繁に食されない場合が多い。世界の各地において、古来より現代まで、人々の食生活の需要を満たす基本的な物質は植物と動物である。植物資源の獲得は、採集、栽培によって得られ、また、動物の資源を獲得するもっとも有効な方法は、狩猟、漁労、そして飼育であることは言をまたない。ただ、農耕による栽培植物の生産は、雨、風、日照時間、湿度など、天候の変動に左右されることが多く、翻って考えるならば、不安定で不確定な要素が多いと言える。海外からの食料資源の輸出入が途絶えた江戸時代にあっては、当然の事ながら、国内の食料生産の不安定なシステムを補完することなどは、とうてい不可能であった。徳川吉宗が主導した「享保の改革」の政策実現の一環としての「全国産物調査」「採薬使の巡検活動」なども、農業生産物の安定的な供給システムの確立が主眼であったことを、今一度、検討する必要があろう。

 江戸時代における大飢饉が、救荒生物を研究し、さらに、栽培や飼育へと向かう導入の役割を果たしてきたことは否めない事実である。本来、飢餓を救済する目的で記された、「救荒図書」が植物学や博物学の基礎資料とするためには、通俗的で非科学的であるとする意見には、ある真実を含んでいると言える。中国の明代に刊行され、江戸時代初期に日本に移入された「本草綱目」が、それを模倣あるいは換骨奪胎したさまざまな通俗書が、「救急方」などの表題で、巷にあふれて、さまざまな影響を及ぼし、本質の目的を見失った経験的な学として流布されていったことと、類似できよう。しかし、その反面、これら大衆的な医学書の頒布により、日本古来の伝統的あるいは経験的な病気治療方法が紹介されていったことを見逃すわけにもいかない。これと同じ思考方法を採用するならば、救荒の資料の刊行に際しても、植物採集や漁労・狩猟などを軸に展開されていた、縄文時代の生活様式を考察するうえでの手がかりになったことは評価する必要があろう。野生の動物・植物の調理や栽培の方法なども、この研究の過程で明らかになることが多いはずである。後に隆盛を極めることになる、料理・園芸技術などにも、何らかの影響を及ぼしていったことが推測される。

 江戸時代の米は、食糧であるとともに、擬似的な貨幣としての役割を担わされていたとするのが、編者の見解である。貨幣のように絶対的な交換価値をもつものではないが、資本主義の未発達な閉鎖的な社会における相対的な交換価値の役割を担わされていたことは、想像に難くない。江戸時代の税金の一部は米で代用され、集積された米を貨幣に交換することが普遍的であった。ただ、この経済システムは、商業や工業が未発達であることが大前提になる。江戸時代の十八世紀中期から十九世紀にかけての経済的大変動とは、海外からの輸入品の増大による国内産の銀の流出、そして、世界経済システムに組み込まれる中での商業や工業の生産システムの確立によるところが大きいと、編者は考察する次第である。この擬似的な貨幣としての価値を有する米の生産に関して、為政者が品種改良を含む技術的な研究、米の流通機構の整備及び合理化を実行するのは当然のことである。飢饉が、この擬似的な貨幣を一つの軸とした経済システムを破壊し、崩壊に導くことになったのも、また事実である。国民に食糧をあまねく供給し、国内の社会経済システムを維持し発展させる最大の目標は、飢餓を克服し、米の安定的な生産能力を確保することにあった。そして、大部分の米が税金の代用品として国家に徴発されるならば、食糧として他の動物・植物を獲得することが非常に重要な生活の大事となってくる。この、日常生活からの要請と、周期的に発生する飢饉を克服する過程で、「救荒生物」の研究や開発は、大きく育まれていったのであろう。飢饉の時のみならず、必要な栄養素を確保して活動しなければならない国民にとって、「米の代用品」の生産や開発は、必要に迫られていたのである。

 ここで、江戸時代の大規模な飢饉とそれを引き起こした災害を列挙してみることにする。

*寛永十九(一六四二)年 冷害と凶作のために大飢饉
*享保十七(一七三二)年 秋に、西国が、蝗の害により大飢饉。餓死者多数
*宝暦五 (一七五七)年 秋に、奥羽地方を中心に大飢饉
*宝暦七 (一七五七)年 夏に、関東・北国・東海道筋で水害が発生。東北地方で飢饉
*天明三 (一七八三)年 冷害のために諸国で大飢饉。七月六日に、浅間山も大噴火し、降灰の被害甚大
*天明四 (一七八四)年 諸国で大飢饉。奥州の被害が甚大
*天明六 (一七八六)年 諸国で大凶作。二月九日、日光山で大火。七月、関東で大洪水
*天保五 (一八三四)年 諸国大飢饉

 いずれも天候の不順による変化が引き起こした災厄である。古代や中世においては、水利の便が不十分なために、旱魃の時には水不足で播種や植え付けが不可能になったが、近世以降にあっては、灌漑・貯水設備の整備などにより、旱害は次第に克服されてきた。近世にあっては、特に、イネの結実期における夏の日照時間の不足により、生育が疎外され、不作や凶作になることが多かった。この他に、天変地異の変動も数多く記録されている。一例として、宝永四(一七○七)年十月四日には、諸国で大地震が発生し(宝永大地震)、同年十一月二十三日には富士山が噴火して、宝永山を生じ、降灰や火災による被害は関東地方の広範囲に及んだと言われている。河川の氾濫による耕作地や住居地の破壊現象は、全国で起こっている。これらの災害の原因は多々挙げることができよう。ただ、言えることは、必ずしも、不定期的かつ暴発的な自然的災害だけでは説明できないことである。水害や火事などは、人間の叡智を用いて、土木工事などによる河川道の修復や間伐・森林の合理的な管理などにより、ある程度は防御できる。飢饉を引き起こす冷害などの対策に関しても、米に代用する栄養価値の高い植物の育成、食料の長期的な貯蔵方法の開発、品種改良などにより、飢餓を幾分かは軽減できるものである。これらの様々な必要に迫られて、「救荒生物」の研究が開始され、発達を遂げてきたと推測される。確かに、「救荒図書」の刊行が、「天明の大飢饉」後に少し増加し、「天保の大飢饉時」に急増したことと考えあわせると、この推定を裏付けることになる。

 本資料集成においては、「救荒植物」に関する基本的な文献七種類をとりあげた。以下に書誌解題を記載したので参照されたい。なお、「救荒」は、「救荒生物」の他に、政治的かつ経済的な概念をも含む用語であるが、ここではあえて「飢饉時に食用とする生物の研究」の意味で使用してある。「救荒」の総体的な研究に関しては、稿を改めることにする。また、「救荒」の研究書は、「救荒植物」の資料が殆どであるが、飢餓に際しては、昆虫の成体、昆虫の幼虫、は虫類、両生類、哺乳類。魚類なども食用とすることが多く、誤解を与えないためにも、表題を「救荒生物」とした次第である。また、これらの文献の一部は、原文でも解読可能であると判断し、あえて解読を施さなかったことをお断りしておきたい。

書誌解題

(イ)「救荒本草」和刻本(朱? 著、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-七六、十五冊)
 原著の初版の成立は永楽四(一四○六)年で、周定王の朱?の著作である。松岡玄達が、漢文に訓点を施し、自説を加えて、享保一(一七一六)年十月に、京都の柳枝軒、白松堂、含翠亭において刊行。松岡玄達による「合刻救荒本草野譜序」の年記は正徳五(一七一五)年で、刊行は享保一(一七一六)年とされている。四百十四種類の植物(草部・二四五種類、木部・八○種類、米穀部・二○種類、果部・二十三種類、菜部・四十六種類)を、十四巻で、見開きにて図入りで解説してある。右側に植物図を配置し、左側の解説で、中国の本草書での名称、生産地、形態、飢饉に際しての食用方法(救飢)などを懇切丁寧に記載してある。末尾の所々で松岡玄達が解説を加えている。また、植物の日本での呼称についても、松岡玄達が記述していて、非常にわかりやすい構成となっている。さらに、「既存の本草書に記述されている植物」が百三十八種類、「新しく増加した植物」が二百七十六種類と明記されている。木部は数えてみると七十九種類あり、目録に記載されている八十種類より、山寨樹(さんえいじゅ)の一種類が不足している。この原因については、探求していない。また、巻之十四に所属すべき冬葵菜、?菜など十四種類の菜部の植物が巻之十三に含まれているのは、単なる製本に際しての誤りであろうと推定される。ただ、目録においては、これら十四種類の植物は、「菜部」に含まれていることを報告しておきたい。参考までに、全体の目録構成と、救荒植物の内訳の表を掲載する。

*序目(序文、叙文、條例、目録)
*巻之一 ・草部 (三十四種類)
*巻之二 ・草部 (三十三種類)
*巻之三 ・草部 (三十三種類)
*巻之四 ・草部 (三十七種類)
*巻之五 ・草部 (二十六種類)
*巻之六 ・草部 (二十四種類)
*巻之七 ・草部 (三十二種類)
*巻之八 ・草部 (二十六種類)
*巻之九 ・木部 (四十一種類)
*巻之十 ・木部 (二十種類)
*巻之十一・木部 (十八種類)
*巻之十二・米穀部(二十種類)
*巻之十三・果部 (二十三種類)
*巻之十四・菜部 (四十六種類)

 この資料は明の徐光啓編『農政全書』(一六三九年刊行)に記載してあったものを刻しているとする説がある。しかし、松岡玄達自身の執筆による序文を解析してみると、参考書として活用したことは明記しているが、編者において、『農政全書』の原書を参照する機会に恵まれず、それ以外の件に関しては、断定することはできなかった。この徐光啓編『農政全書』(一六三九年刊行)は、初版の発行から二百年を経過して発行されていて、徐光啓の知見が書き加えられているとの説があるが、検証はしていない。これらの版の他に、第二版(嘉靖四[一五二五]年、太原・山西)、第三版(嘉靖三十四[一五五五]年、開封)、第四版(萬暦十四[一五八六]年)、節録本(萬暦二十一[一五九三]年、胡文煥編『格致叢書』に収載)が、中国において刊行されている。いずれも原版に接することは不可能に近く、各版において、内容の改訂・増補が少なからず行われていることを考えあわせると、最初に書かれた記事を推定することは非常に困難な業と言えよう。この資料においても、六種類の序文(叙文)と一種類の「條例」が記載されていて、中国や日本において、改訂と増補が少なからず実行されてきたことを窺わせるに十分である。これらの未解決の問題に関しては、読者諸氏の慧眼に委ねる次第である。また、他に、次のような資料が発見された。
*「救荒本草」和刻本(朱? 著、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-七七、七冊)
 「享保元(一七一六年)歳孟冬穀旦」の表記があり、京都の柳枝軒(藤野九郎兵衞)、白松堂(茨城多左衞門)、含翠亭(川勝七郎兵衞)において刊行。冊数が異なるだけで、内容も発行者も(イ)と同一である。
*「救荒本草」和刻本(朱? 著、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-七四、十五冊)
 「享保元歳孟冬穀旦」の表記があり、京都の柳枝軒(藤野九郎兵衞)、白松堂(茨城多左衞門)、含翠亭(川勝七郎兵衞)において刊行。冊数、内容、発行者も(イ)と同一である。
*「救荒本草」和刻本(朱? 著、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○‐七六、十五冊)
 「享保元歳孟冬穀旦」の表記があり、京都の柳枝軒(藤野九郎兵衞)、白松堂(茨城多左衞門)、含翠亭(川勝七郎兵衞)において刊行。冊数、内容、発行者も(イ)と同一である。
*「救荒本草」和刻本(朱? 著、松岡 玄達 校訂、国立国会図書館白井光太郎文庫所蔵、特一-三七一、四冊)
 松岡玄達による「合刻救荒本草野譜序」がなく、奥付には、京都の柳枝軒(藤野九郎兵衞)、白松堂(茨城多左衞門)、含翠亭(中西右兵衞)、享保一(一七一六)年刊行と表記されている。目次は手書きで、「既存の本草書に記述されている植物」を「既出」、「新しく増加した植物」を「新増」の項目をたて、それぞれに分類して記述している。(イ)で脱落していた、木部に所属する山寨樹(さんえいじゅ)が手書きで掲載されている。処々に、「治病」の項目がたてられていて、手書きの記事が散見される。また、「果部」においては、「形態」「治病」の項目の記事が手書きで記されている。これらのいくつかの事実を総合して解析してみると、(イ)の刊行された書籍に、誰かが、改訂・増補を行う目的で、新しいデータを挿入したと考えられる。手書きの部分を含めて考察すると、その全体像は、「[校正]救荒本草」(周定王 著、松岡 玄達 校訂、小野 蘭山 校正)に酷似している。書き込みを行った当事者を特定することはできなかったが、小野蘭山もしくは彼の門下生である可能性は十分にあると言えよう。
 因みに、全体の目次構成は、第一冊(序目、巻之一~巻之三)、第二冊(巻之四~巻之八)、第三冊(巻之九~巻之十一)、第四冊(巻之十二~巻之十四)である。
*「救荒本草」和刻本(朱? 著、松岡 玄達 校訂、国立国会図書館白井光太郎文庫所蔵、特一-六六七、一冊)
 (イ)の巻之一。題箋と内題の「農政全書 救荒本草」の表記は誤りである。
*[校正]救荒本草(朱? 著、松岡 玄達 校訂、小野 蘭山 校正、国立公文書館所蔵、三○○-七五、二冊)
 洋綴本。「[校正]救荒本草」の表題は、日本でつけられた名称であろう。「寛政十一(一七九九)年己未三月再刻」の表記があり、京都の長松堂(大路次郎右衞門)において刊行。上巻が「救荒野譜」「救荒本草(序目、巻之一~巻之五)」、下巻が「救荒本草(巻之六~巻之十四、附録)」をそれぞれ収録している。ここでは、菜部に所属すべき冬葵菜、?菜など十四種類の植物が、目録に「菜部」として表記され巻之十三に含まれている。このことが「[校正]救荒本草」と表示した理由であろうか。「序目」「巻之一~巻之十四」は(イ)と全く同一で、「救荒本草跋」の後に、附録として、菜部三種類(蕓薹菜、?菜、苦苣菜)、果部二十六種類、合計二十九種類の「救荒植物」についての記事が書き込まれている。松岡玄達が校訂した旧版において省略されていた植物の形態や生態、病気に際しての活用方法を「治病」の項目をたてて、書き加えているのが大きな特色と言えよう。また、最後に「再鐫救荒本草跋」と題した小野蘭山による記事が、二丁に渡って掲載されている。柱題は「救荒補遺 巻之九」と表記されていて、「巻之九」は別に存在している。その委細は不明である。この資料においては、二十九種類の「救荒植物」については、各二種類の記事があることになる。
*[校正]救荒本草・再刻(朱? 著、松岡 玄達 校訂、小野 蘭山 校正、国立公文書館所蔵、三○○-六八、八冊)
 和綴本。題箋には「[校正]救荒本草・再刻」と表記されている。内容は、右記の「[校正]救荒本草」と全く同一である。前述の「救荒補遺 巻之九」が、「巻之九」として、独立した書籍となっている。おそらく、書籍の冊数としての「巻」と、文章の分類の単位としての「巻」を混同したために、このような表示になったのであろう。言い換えるならば、「救荒補遺 巻之九」は、「九冊目の書籍」の中の「十五番目の章」に相当することになる。因みに、この配架番号(三○○-六八)の一冊目は「救荒野譜」である。
*[校正]救荒本草・再刻(朱? 著、松岡 玄達 校訂、小野 蘭山 校正、国立国会図書館白井光太郎文庫所蔵、特一-三七二、一冊)
 和綴本。題箋には「[校正]救荒本草・再刻 巻之五」と表記されている。内容は、正本の「[校正]救荒本草」の「巻之六」と「巻之七」で、「巻之六」の沙参のみを欠いている。
*[校正]救荒本草・補遺 巻九(朱? 著、松岡 玄達 校訂、小野 蘭山 校正、国立国会図書館白井光太郎文庫所蔵、特一-八四九、一冊)
 「寛政十一(一七九九)年己未三月再刻」の表記があり、京都の長松堂(大路次郎右衞門)において刊行。菜部三種類(蕓薹菜、?菜、苦苣菜)、果部二十六種類、合計二十九種類の「救荒植物」についての記事が書き込まれた「救荒本草補遺篇」が独立した一冊の書籍となっている。この資料については、巻を改めて刊行の予定である。

(ロ)救荒本草(小野 職博[蘭山]口授、国立公文書館所蔵、一九六-一一九、二冊)
 口授者の小野職博[蘭山]は、寛政十一(一七九九)年三月に、『[校正]救荒本草、救荒野譜補遺』の和刻に、編者として携わっている。天明八(一七八八)年の京都の大火で版木が消失したために、門下生の小野職博[蘭山]が、師匠の松岡玄達の衣鉢を受け継いで再刊したのである。小野職博[蘭山]の講義を門下生が書き取って、整理・編纂した内容である。編纂者の姓名などの記載はなく、手書きである。この資料は、日本に生育する約五百二十種類の救荒植物についての簡単な概説書である。「救荒本草上」「救荒本草下」「救荒野譜」の三部構成。記載も簡単で、中国の漢名と和名の校合、日本種の形態や生態の記述に重点がおかれている。中国産植物との、形態や食用方法の比較などについては、注目に値する記事が多い。「救荒本草上」では草類約二百四十種類を、「救荒本草下」では木類百六十種類を、「救荒野譜」では、その他の植物百二十種類を対象として記載している。

(ハ)救荒本草啓蒙・救荒野譜啓蒙(小野 職孝[蕙畝(初代)]口授、小野 職實 録、国立公文書館所蔵、一九六-一一八、五冊)
 口授者の小野職孝[蕙畝(初代)]は、小野職博[蘭山]の孫にあたり、嘉永五(一八五二)年に没している。小野職孝[蕙畝(初代)]の講義を書き取ったのが、彼の長男の小野職實[蕙畝(二代目)]である。天保十四(一八四三)年刊行。見返しには、「天保十三(一八四二)年/壬寅十月刻」「板貯衆芳/軒之書藏」とあるが、田中恵操の跋文の年記が、天保十四(一八四三)年三月に書かれていることから、発行年を推測した次第である。なお、序文を前田利保が天保十二(一八四一)年十月に、漢文で記している。小野職實[蕙畝(二代目)]の書き記した「例言」によれば、祖父の小野職博[蘭山]は、「本草綱目啓蒙」に引き続いて、「救荒本草」の啓蒙書の刊行を意図したが、果たさずに死亡し、彼の遺命を奉じた子息の小野職孝[蕙畝(初代)]がその業を引き継ぎ、三年の歳月をかけて小野職實[蕙畝(二代目)]にその原稿を書き取らせたとしている。中国と日本の植物を比定することにより、日本でも利用可能な植物種を確定し、「日本産の救荒植物」の存在とその効用を普く、一般の人々に普及させることが、ひとつの目的であったのであろうと推定される。「救荒本草」所収の植物四百十四種類、「救荒本草野譜」所収の植物百二十種類、重複を除いて、合計四百八十八種類の「救荒植物」の形態、生態、薬用方法、異名、方言名、類似品、引用文献名について簡略に記述している。図はなく、可食部位、調理方法についての記載がなく、植物の配列も原著と全く同一である。また、「救荒本草」和刻本に欠落している木部の山寨樹(さんえいじゅ)が、本文に掲載されている。ただ、目次頁では脱落している。最後に、「救荒本草啓蒙」と「救荒野譜啓蒙」が合冊されていることを考慮して、この表題を採用した次第であることを付け加えておきたい。

(ニ)救荒本草通解(岩崎 常正[灌園]著、国立国会図書館伊藤圭介文庫所蔵、特七-一一、五冊)
 成立は、文化十三(一八一六)年。全八巻。「救荒本草」の註釈書である。「救荒本草」和刻本に欠落している山寨樹(さんえいじゅ)が目次、本文の中で、ともに掲載されている。「救荒本草」に掲載された四百十四種類の植物について、和名、地方名、梵語名、文献名、形態、生態、園芸品種名、近縁種名、薬用方法、工芸的活用方法などを詳細に述べているが、肝心の食用方法については触れていない。図は掲載されていない。救荒書籍と言うよりは、むしろ植物誌的な色彩の濃い資料である。

(ホ)「救荒野譜」和刻本(王西樓 輯、姚可成[蒿?山人] 補遺、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-七六、二冊)
 松岡玄達が、漢文に訓点を施し、さらに、植物の漢字名に和名を与えて、享保一(一七一六)年十月に、「救荒本草」とともに、京都の白松堂において刊行。上巻が、明の王西樓の輯で、下巻は、姚可成[蒿?山人]による補遺篇で、両巻とも、各六十種類、合計百二十種類の植物を図とともに掲載する。いずれも、一種類の植物について、ひとつの図と可食部、形態、生態などを簡略に叙述した解説を載せている。図も簡単で、解説文も、要点を解りやすく記述しているので、多くの人々に少なからぬ影響を与えたと言われている。他に、次の資料が知られている。伊藤長胤と香川修徳が、正徳五(一七一五)年に、序文をしたためている。
*「救荒野譜」和刻本(王西樓 輯、姚可成[蒿?山人] 補遺、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-七四、二冊)
 内容は、(ホ)と同一。
*「救荒野譜」和刻本(王西樓 輯、姚可成[蒿?山人] 補遺、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-八三、一冊)
 松岡玄達による「合刻救荒本草野譜序」が掲載されている。内容は、(ホ)と同一。しかし、上巻は、白鼓釘と剪刀股の二種類以外
は落丁のために脱落し、下巻は、跋文を欠く。手書きで「享保元年版行本」と明記されている。
*「救荒野譜」和刻本(王西樓 輯、姚可成[蒿?山人] 補遺、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-七五)
 洋綴本の「[校正]救荒本草」の上巻の前半部を占めている。(ホ)と異なるのは、「野菜譜序」が跋文の前に移動していることと、巻之下の目録において、(ホ)の「合歡」「欅」「槿」「槐」が、それぞれ「合歡葉」「欅樹葉」「槿樹葉」「槐樹葉」に変更しているこである。ただし、(ホ)の本文中においては、「合歡葉」「欅樹葉」「槿樹葉」「槐樹葉」となっている。「巻之上」が(ホ)の上巻に、「巻之下」が(ホ)の下巻に、それぞれ相当する。
*「救荒野譜」和刻本(王西樓 輯、姚可成[蒿?山人] 補遺、松岡 玄達 校訂、国立公文書館所蔵、三○○-六八、一冊)
 和綴本の「[校正]救荒本草」の第一冊目に掲載されている。上巻と下巻が合冊されていて、「日本平安書肆長松堂梓」と記載されていて、内容は、洋綴本の「[校正]救荒本草」(国立公文書館所蔵、三○○-七五)に類似している。国立国会図書館所蔵の本書(特一-八四八、一冊)も同書店からの発行と明記されているので、おそらく同一の書籍であると推測される。
*「救荒野譜」和刻本(王西樓 輯、姚可成[蒿?山人] 補遺、松岡 玄達 校訂、国立国会図書館所蔵、特一-三七七、一冊)
 「皇都書舗 華文軒 壽梓」「享保元年 京都の柳枝軒(藤野九郎兵衞)、白松堂(茨城多左衞門)、含翠亭(中西右兵衞)刊行」と明記されていて、内容は(ホ)と同一である。

(へ)民間備荒録(建部 清庵 著、国立公文書館所蔵、一八二-二六五、一冊)
 最初に原稿として完成したのは、宝暦五(一七五五)年十二月。宝暦五(一七五七)年秋に、奥羽地方を中心に起こった大飢饉に啓発され、その惨状を憂いて、この書を記し、翌、宝暦六(一七五六)年、一関藩に献上した。同藩は写本を数多く作成し、領民に配布した。本書は、日本で最初の本格的な「救荒書」であり、飢饉時に食用とする植物種の選定と栽培の方法、救荒植物の調理方法と解毒の方法、飢饉の時に活用する食物の所蔵方法、飢餓で倒れた人々の救助方法、飢饉時に発生する病気に対しての処置方法、祈祷方法など、飢饉に際しての心得を懇切丁寧に説いた書で、後の時代に作成されたさまざまな「救荒資料」の手本ともなった。特に、下巻においては、八十五種類の救荒植物について、味、解毒方法、調理方法などを具体的にかつ平易に叙述している。この資料が書籍の形式で最初に刊行されたのは、それから十六年後の明和八(一七七一)年七月のことであった。この資料も明和八(一七七一)年七月に須原屋から二巻で刊行された。この資料においては合冊されている。以後、何回も印行されていて、需要の多さを窺わせる。図は描かれていない。著者の建部清庵は一関藩の藩医の要職にあり、さまざまな本草書、医学書などに接触する機会が多かった。彼は、正徳二(一七一二)年に生まれ、天明二(一七八二)年に没している。

(ト)備荒草木図(建部 清庵 著、国立公文書館所蔵、一九七-八、二冊)
 建部清庵は、明和八(一七七一)年に、「民間備荒録」と対をなす目的でこの「備荒草木図」の草稿を作成したが、果たさずにこの世をさることになった。「民間備荒録」が「理論篇」もしくは「救荒の原理論篇」であるとするならば、この「備荒草木図」は「飢饉に際しての実践的な指針となる応用篇」となるはずであった。それから時代は下って、文化二(一八○五)年、建部清庵の子息にして、杉田玄白の養嗣子となった杉田伯玄も、再度の校訂・印行を試みるが水泡に帰し、ようやく陽の目を見たのは天保四(一八三三)年十二月のことであった。杉田伯玄の弟にあたる杉田立卿がようやく成し遂げたのである。掲載された植物は百四種類で、漢名、和名、可食部、調理方法を要約して記載している。これら百四種類の原図は建部清庵の友人の北郷元喬が作成していたが、そのうちの不完全な作品七十一種類は、専門の絵師などにより修正を施して刊行された。「民間備荒録」の後印本も、この年の三月に刊行された。

この資料は天保四(一八三三)年刊行の「天真樓藏版」を使用した。なお、「民間備荒録」「備荒草木図」の解読文は、紙幅の都合で掲載できなかったので、巻を改めて掲載の予定である。

この商品に対するお客様の声

この商品に対するご感想をぜひお寄せください。