商品コード: ISBN978-4-7603-0257-4 C3321 \50000E

第8巻 日本科学技術古典籍資料/地誌篇[1-2]

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第VIII巻 日本科学技術古典籍資料/地誌篇[1-2]
松前藩の奉行職にあった羽太正養の「休明光記」の解読文と原文を併載。

(一)『休明光記』の内容と、著者の羽太庄左衛門正養の略歴
 この資料は、現在の千島列島南部(エトロフ島、ウルップ島、クナシリ島、シコタン島など)、カラフト島、北海道を含む蝦夷地の経済的価値があらためて評価された時代にあって、これらの地域で生産されてきた漁業・林業・鉱物資源の獲得と、貿易により産み出される商業的利益の確保に並々ならぬ野心を抱き続けてきたロシアを始めとする列強諸国と日本国との角遂の歴史を綴った記録集として、偉大なる価値を有している。
 著者の羽太庄左衛門正養は、宝暦二(一七五二)年、幕臣羽太正香の子として生まれ、文化十一(一八一四)年三月十三日にその生涯を終えている。幼名は弥太郎、通称として左近又は主膳と名乗った。安永五(一七七六)年、家督を相続し、寛政五(一七九三)年、田安家の用人となり、布衣を着するのを許された。寛政八(一七九六)年五月、目付に任じられた。東蝦夷地が幕府の直轄地として召し上げられた時、石川忠房や松平忠明とともに、蝦夷地取締御用掛に任じられた。また、享和 二(一八○二)年、戸川安論とともに、新設の箱館奉行に任命され、松前奉行と改称されてからも、蝦夷地経営の職責を全うし、安芸守の称号を拝領し、足高五百石を賜った。文化文化三(一八○六)年から文化四(一八○七)年にかけての、ロシアとの紛争解決に際しての責任を問われ、文化四(一八○七)年十一月罷免され、謹慎を命じられるも、翌文化五(一八○八)年四月、罪を免責された。
 著者はこの資料に於いて、寛政十一(一七九九)年から文化四(一八○七)年までの「蝦夷地処置」の顛末に関して、詳細に記述してある。これは、箱館奉行の職務として、蝦夷地経営の大綱を後生に伝え、書き継がれることを念じて、この資料の執筆にあたった。今回の刊行にあたっては、天理大学附属天理図書館所蔵本を使用した。全二十二巻で、「本篇」(一巻から九巻)、「邊策私辨」(一巻)、「附録」(一巻から拾一巻)、「惣目録」(一巻)の内容構成となっている。「邊策私辨」は単独で執筆された資料で、蝦夷地の国防に関する著者の意見を披瀝した論文で、『休明光記』の内容とはいささか異質の資料である。衆人に解りやすく説明するために、簡易に書かれた本篇を補うために、奉行の手限物、幕府からの公達文書、訴状、箱舘御用所・江戸会所からの差出文書など、「集大成された蝦夷関係公文書」として編纂されたのが附録である。この資料の各巻の表紙には、「羽太文庫」の朱印が押されていて、全巻を収納する桐函の表には、「田安家舊藏」の墨書きが見られる。詳細については、本書の「カラー口絵」を参照していただきたい。

(二)蛯子吉藏(淡斎如水)『休明光記遺稿』に関して
 嘉永七(一八五四)年、蛯子吉藏(号は淡斎如水)が記した『休明光記遺稿』は、『休明光記』に倣って、その遺漏した部分を記述している。著者の生没年は不明で、他に、松前地方の方言や事物などを考証した『松前方言考』(科学書院・発行、江戸後期諸国産物帳集成』[諸国産物帳集成 第II期]第I巻 蝦夷[1]〈1995/平成7年12月刊行〉に所収)、箱舘の地理・風俗・俗談などを綴った『箱舘夜話草』などを記している。函館市立図書館及び北海道庁所蔵の資料を散見する限りにおいては、文化五(一八○八)年以降の記述も見られるが、『休明光記』の内容と重複する箇所も少なくない。この資料は、他の図書館も所蔵しているので、総体的な研究がまたれるところである。

(三)『休明光記』(函館市立図書館・北海道立文書舘所蔵)に関して
 「本篇」(一巻から九巻)、「附録」(一巻から拾一巻)、「附録別巻 一件物」(一巻から三巻)、「附録別巻」(一巻から四巻)の内容構成となっている。散見する限りでは、「附録別巻 一件物」及び「附録別巻」は、前出の「附録」(一巻から拾一巻)の内容と重複している箇所も、少なからず見られる。なぜ、このような章立てを行ったのか、編者の力量不足もあり、証拠となる記述を発見することはできなかった。以下、その内容の梗概を列挙してみることにする。いずれも『新選北海道史』第五巻(全七巻、原本は一九三六~一九三七年に刊行)からの抜粋である。
*「附録別巻 一件物」(一巻)①蝦夷地新規寺院の一件 ②箱舘竝村々制札一件
*「附録別巻 一件物」(二巻)
*「附録別巻 一件物」(三巻)
*「附録別巻」(一巻)カラフト島へ異国船渡来の件[1]
*「附録別巻」(二巻)カラフト島へ異国船渡来の件[2]
*「附録別巻」(三巻)異国船渡来の件[1]
*「附録別巻」(四巻)異国船渡来の件[2]

(三)『休明光記』の書かれた時代背景に関して
 水産・林業・鉱物資源の宝庫としての北方地域、いわゆる蝦夷地は、松前藩のみならず、外国列強にとっても垂涎の的であった。蠣崎氏の渡島半島への入植以来、米作が不可能なこの地にあって、アイヌ人から安価に購入した海産物の売上金と、商人から徴収した海上運行手数料としての運上金、この二つが松前藩の重要な二大財源であった。幕府への税金もこれらの収入金から支払われていた。この松前藩の苛酷な搾取政策に反対して蜂起したのが、シャクシャインの乱である。「天保郷帳」においても、蝦夷と対馬のみは石高が記載されていないことは、これらの地域において、米作がほとんど普及していなかったことを実証している。
 原住民を搾取するシステムが崩壊したのは、反乱などではなく、ロシア、イギリス、アメリカなど、列強諸国からの、自由貿易を展開するための、「門戸開放要求政策」であった。特に、ロシアは、昆布、ラッコの毛皮、織物、干魚などの通商要求を掲げて、千島諸島、カラフト島、蝦夷本島などに、十八世紀の末期頃から、頻繁に来航し、住民に対する掠奪・暴行・殺傷などの他に、アイヌ人との、幕府・松前藩を仲介しない、直接的通商取引、短期的な植民地建設なども実行した。幕府はその度に、「通商拒否」と「退去」のみを通告し、あまつさえ、「外国船打払令」に基づいて、使節員を捕縛したり、船舶などを損壊を実行するに至るという、この繰り返しであった。日本国が、鎖国体制の中にあっても、オランダや清国を通じての貿易などにより、金銀などの貨幣や産物が世界に流通していて、国際的経済体制に自動的に組み込まれている認識が希薄であった幕府の無為無策が、このような事件を引き起こしてきたと言えなくもないであろう。
 『休明光記』は文化四(一八○七)年で筆を擱いている。そして、この時以降、約五十年が経過した安政五(一八五八)年に、幕府は「攘夷」の方針を変更して、外国諸列強のさまざまな圧力に屈して、日本の主要港を開き、関税自主権までも喪失させられた、日米修好通商条約・日蘭修好通商条約・日露修好通商条約・日英修好通商条約、及びそれに附随した貿易章程を締結している。このような不平等条約の強制的締結、また、かくなる劇的な政策転換発生の原因を、歴史的もしくは総体的に考察する資料として、重要なヒントを含んでいるのが、この『休明光記』であろう。この資料は、生産物の宝庫として、あるいは北方の軍事拠点もしくは入植可能な膨大な未開拓農耕地の存在する土地としての蝦夷地を、経済的かつ政治的に獲得するための長期的な争闘の歴史を綴った貴重な報告書である。戦略なき頑迷な幕府の高級官僚との確執により失脚した羽太庄左衛門正養の畢生のライフ・ワークとして、資源の宝庫である蝦夷地のさまざまな価値を実証したこの資料は、その輝きを失っていない。
 なお、この解説の末尾に、蝦夷地の開発と外国との交渉に関する簡単な年表を附したので、参考にされたい。
 この訳稿の全部が成るにあたっては、仲村恵子氏の努力によることが多大で、校閲に際しては、浅見恵先生の手を煩わした。両氏の作業に関して、深い感謝の念を禁じ得ない。さらに、これらの資料の撮影・掲載、解説の執筆などに関して、さまざまな御配慮と御助言ををいただいた、高倉嗣昌先生、高木崇世芝先生、天理大学附属天理図書館に御礼の言葉を申しあげる次第である。
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