商品コード: ISBN978-4-7603-0411-0 C3321 \50000E

第9巻 江戸幕府編纂物篇 【4】 豊後国繪圖御改覚書・解読篇 解説篇 索引篇

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第9巻 江戸幕府編纂物篇 【4】 豊後国繪圖御改覚書・解読篇 解説篇 索引篇
第一分冊 解読篇1
第二分冊 解読篇2 解説篇 索引篇(綜合索引)

 為政者にとって、国土を支配し、經済的な繁栄を図るためには税の正確な徴収は必須のことであった。十七世紀初頭に成立した江戸幕府にとっても、国土の地理情報の正確な把握と財政的な基盤の確立は急務の仕事であった。そのために、国土の耕作地面積の正確な把握と、それら耕作地の測量・調査結果を基礎とした、農産物の税としての取得は遺漏なく実施される必要があった。そのために、國繪圖及び各村落ごとの米の収穫量の正確な徴収方式を構築するための郷帳つまり石高帳の作成が急務とされた。「正保國繪圖」と「正保郷帳」の不備を補うために実施されたのが、この「元禄國繪圖」と「元禄郷帳」の作成であることは言を俟たないであろう。言い換えるならば、「元禄國繪圖」と「元禄郷帳」の作成は、「正保國繪圖」と「正保郷帳」の改訂及びさらなる充実化を目指した事業であると考えてさしつかえないであろう。まず、「正保國繪圖」と「正保郷帳」から、いかにして、「元禄國繪圖」と「元禄郷帳」が改訂されていったかを考察してみよう。「元禄國繪圖」作成は、さまざまな過程を経て、以下の方針の下に実行された。
 まず、「正保國繪圖」を改訂する第五代将軍徳川綱吉の意向が、老中土屋相模守政直によって、幕閣に伝えられたのが元禄九(一六九六)年十一月のことである。翌元禄十(一六九七)年閏二月四日に、主要大名の江戸留守居が評定所に召集され、國繪圖作成の担当部分が割りあてられた。江戸幕府の高官である、井上大和守正岑(寺社奉行)、能勢出雲守頼相(町奉行)、松平美濃守重長(勘定奉行)、安藤筑後守(大目付)の四人が、この事業の担当者に任命された。そして、同年四月二十四日と二十五日の両日に渉って、関係諸藩の江戸留守居が評定所へ呼び出され、正式な繪圖発行元が任命された。
 この資料は、江戸幕府によって繪圖発行元に任命された豊後國と幕府の、それぞれの國繪圖担当者同志の交渉記録である。國繪圖作成が具体的に開始されてから、元禄十四(一七○一)年七月四日に幕府に上納されるまでの経過が詳細に記録されている貴重な資料と言えよう。この改訂作業においては、豊後國岡藩主の中川因幡守久通と豊後國臼杵藩主の稲葉能登守知通の両人が、相持で繪圖発行元に就任した。豊後國は八郡で構成され,日田、玖珠、直人、大野の四郡を岡藩が、残りの國東、速見、大分、海部の四郡を臼杵藩が、それぞれ受け持つことになった。
 豊後國は大友氏の支配以降、豊臣家の大名たちによる支配が始まり、徳川幕府が政権獲得以降、元禄時代においては、七つの藩(岡藩、臼杵藩、杵築藩、日出藩、府内藩、佐伯藩、森藩)、寺社領、幕府直轄領(御料)、分知領、公家料、他藩領に細分化された複雑な領地構成であった。また、豊前、筑前、筑後、肥後、日向の五ヶ國と接しているために、領地の確定においてはさまざまな困難を伴うことになった。資料の各箇所に散見される、旧地名と新地名の混同、郷帳の石高の相違、各國同志の境界線の相違など、さまざまな懸案事項が摘出された。これらの中で、公訴にまで発展し、江戸幕府評定所の裁決を仰がざるを得ない事態にまで発展する案件も見られた。隣國との境界の画定にあたっては、各藩の端繪圖を持ち出して、双方で付け合わせを行い、最後に証文を交わして、最終的な解決をはかる手法が用いられた。これらの交渉の内容に関しては、総合索引を活用して、本文及び解読篇を参照されたい。
 また、この資料は最初は全六分冊の構成であったが、現存しているのは五分冊で、第一分冊を欠いている。編者は、欠本の表題を、おそらく、「元禄十 丑五月ヨリ同十一寅五月?」であろうと推定している。その根拠としては、元禄十(一六九七)年四月二十四日と二十五日に、正式な繪圖発行元が任命されていて、同時に、被任命者の江戸留守居に「元禄國繪圖」作成の、詳細な基本方針が、「覚」(七ケ条)として伝達されたからである。この他に、「國繪圖仕立様之覚」(十ケ条)、「國境繪圖仕様之覚」(二ケ条)の二通が、同年の五月から六月にかけて、諸國の繪圖発行元に渡された。以下、この最初の目次構成、及び、これら三種類の条例の内容について、要約して提示する。

*「豊後國繪圖御改覚書」の最初の表題(全六分冊)
①「元禄十 丑五月ヨリ同十一寅五月?」(紛失)
②元禄十一寅五月ヨリ同十二夘八月?
③元禄十二夘八月ヨリ同十三辰七月?
④元禄十三辰七月ヨリ同年十二月?
⑤元禄十四巳正月ヨリ同年七月?
⑥元禄十四巳 同十五午 同十六未

*「覚」(七ケ条)[國繪圖改訂の基本方針と改訂要綱]
①この年以前に作成された古繪圖は、必要ならば、各繪圖元に貸し出すこと。
②新繪圖の分割などは、古繪圖の通りに実行すること。ただ、河川筋の変化、新川、新道、新村、新池、新沼などは、新繪圖に記載すること。
③正保二年酉年以降、御領、私領、寺社領において地形に変化があれば、代官、領主、寺社方へ、直接に問い合わせることを許可する。そのうえで、変化があれば、修正して、新國繪圖に記載すること。変化がなければ、古繪圖の通りとすること。
④國境及び郡境の出入(境目争い)があるならば、代官、領主、寺社方へ、直接に問い合わせ、協議を経て、新繪圖において改訂作業を施すこと。ただし、國境及び郡境以外の出入(境目争い)は対象とされない。
⑤國境及び郡境において、論所が存在し、解決の見込みが立たない場合は、公儀(江戸幕府)へ訴え裁許を得ること。裁許が終了したうえで、國繪圖を作成すること。
⑥國境及び郡境以外の出入(境目争い)は、裁許に関係なく國繪圖を作成してもよい。
⑦貸し出された古繪圖を用いて、隣國の諸藩の繪圖製作担当者と、打ち合わせ、かつ、國境をつけ合わせても解決に至らない場合は、公儀(江戸幕府)にお窺いをたてること。

*「國繪圖仕立様之覚」(十ケ条)[國繪圖作成の具体的な指針]
①國繪圖の用紙は、越前生漉く間似合上々紙、裏打は厚手美濃紙一篇を使用する。
②繪圖の分割は古繪圖の方法に則り、道筋は一里六寸(縮尺二万一千六百分の一)で計算し、一里ごとに星を墨色で書き込むこと。
③郡の墨筋の内側に郡の名称を記載する。
④郡の色分けは、紛らわしきことのなきように、鮮やかに表現するように努めること。ことに、郡境は鮮やかに描くこと。
⑤村形の中に、村の石高を表示すること。石高は石までを記載し、その他は何石余と書き付けること。
⑥?紙(繪圖の余白部)には、各郡の色分け目録、各郡の石高、國の石高を書き記すこと。
⑦また、?紙(繪圖の余白部)に、各郡の村数、國の村数を記載すること。
⑧新繪圖に書き記した各郡の石高、國の石高を、別の帳面に仕立てて提出すること。
⑨?紙(繪圖の余白部)に、繪圖の製作者、年号、月を掲載すること。
⑩御領、私領、寺社領の石高、また、代官や地頭の氏名も記載する必要がないこと。ただし古繪圖に書き記されている寺社、宮地などは、そのまま掲載すること。

*「國境繪圖仕様之覚」(二ケ条) [國境附近での國繪圖作成の具体的な指針]
①古繪圖に記載されていて、國境近傍において見られる、寺院、堂社、川筋、道筋、池沼などは、両國で作成する新國繪圖に二重に表記しないように配慮すること。
②漁村(浦方)、小島が存在する地域も、同様に二重表記を回避すること。ただ、國境に該当する箇所は、両國の繪圖に記載してもかまわない。この件は、両國の國繪圖担当者同士で繪圖を付け合わせ、吟味を遂げ、一方から仕上げるように努めること。古繪圖に何の証拠もない場合は、前々の形状にすること。

 以上のような方針の下に、「元禄國繪圖」と「石高帳(郷帳)」が作成され、江戸幕府の知行制度は一層充実化することになった。次の「天保國繪圖」「天保郷帳」の作成までの百三十年間、日本國は、内部に大きな矛盾を孕みながらも、相対的安定期とも言える時代を迎えることになった。

 この資料の訳稿が成るにあたっては、仲村恵子氏の尽力によるところが非常に大きかった。氏の丁寧でかつ精確な解読なくしては、この事業は陽の目を見ることはなかったであろう。また、長谷康夫氏(近世日本史研究家)には、資料全体の構成、解読文の名称の統一、難読文字の解読などに関して、さまざまな御教示と御尽力をいただいた。深く感謝の意を表する次第である。さらに、この資料のマイクロフィルムを貸与し、出版の実現に御協力をいただいた、岡村一幸氏(大分県臼杵市文化財課)にも感謝の念を捧げる次第である。

 最後に、この書籍を刊行するきっかけを与えていただいた川村博忠先生(山口大学名誉教授)に対する感謝の念は、言葉では言い尽くせぬものがある。川村博忠先生の御教示なくしては、この出版活動はありえなかったであろう。江戸幕府の行政・司法・立法制度の根源の解明を意図した、川村博忠先生の、長年にわたる、一貫した國繪圖研究において、編者は大きな示唆を得た次第である。また、歴史全体を俯瞰する研究方法の重要さを学んだ次第でもある。先生の著作である「国絵図」(平成八年、吉川弘文館刊行)及び国絵図研究会編「国絵図の世界」(平成十七年、柏書房刊行)を参考にさせていただいた。記して感謝の意を表する次第である。
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