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ISBN978-4-7603-0410-3 C3321 \50000E
第1巻 日本科学技術古典籍資料/天文學篇[10]
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50,000円 (税込:55,000円)
第1巻 日本科学技術古典籍資料/天文學篇[10]
貞享解(二暦全書 貞享解)
目次
巻之一 序 目録 凡例
巻之二 雲朔交會推歩(貞享暦推歩)
巻之三 貞享暦立成(太陽太陰昼夜刻)
巻之四 七曜暦推歩(貞享暦推歩)
巻之五 貞享暦立成[五星](貞享暦)
巻之六 暦議 上(貞享暦引)
巻之七 暦議 中(貞享暦巻二)
巻之八 暦議 下(貞享暦巻三)
巻之九 雲朔交會推歩湿(貞享暦解巻之九)
巻之十 七曜推歩湿(貞享暦議巻之十)
巻之十一 暦議湿 上 中 下(貞享暦議解之十一)
巻之十二 推歩雜記(貞享暦推歩雜記)
巻之十三 暦造次抄
巻之十四 頒暦畧注
巻之十五 日本長暦 上(貞享解巻之十五)
巻之十六 日本長暦 下(貞享解巻之十六)
巻之十七 日本長暦交蝕考(日本古今交蝕考)
この資料は西村遠里の編纂になる資料である。表題は「貞享解」で、「二暦全書貞享解」の別名が附されている。表題のごとく、これは、当時採用された新しい暦である貞享暦を丁寧に解説した資料としての価値を有している。「貞享暦」は、江戸時代に活用されていた太陰太陽暦の暦であり、日本人の渋川春海(姓は、安井、保井、渋川と改められた)の手によって初めて編纂された。貞享元年十月二十九日(一六八四年十二月五日)に採用が決定し、貞享二年一月一日(一六八五年二月四日)に宣明暦から改暦され、宝暦四年十二月三十日(一七五五年二月十日)までの七十年間の長きにわたって使用された。この暦は、宝暦五年一月一日(一七五五年二月十一日)をもって、宝暦暦に改暦された。「貞享暦」が採用されるまでは、中國から渡来した暦が使用されていた。元嘉暦(不明年~六九六年)、儀鳳暦(六九七年~七六三年)、大衍暦(七六四年~八六二年)、五紀暦(八五八年~八六一年)、宣明暦(八六二年~一六八五年)の順に使用されていた。そして、貞享暦(一六八五年~一七五五年)、宝暦暦(一七五五年~一七九八年) の次に、 寛政暦(一七九八年~一八四四年)、天保暦(一八四四年~一八七二年)、グレゴリオ暦(一八七三年~)と続くことになる。
渋川春海は、中国の「授時暦」を基本にして、自ら観測して求めた数値と日本と中国との里差(経度差)を加味して、日本独自の暦法を完成させ、大和暦と命名した。当時使われていた宣明暦は、八百年以上もの長きにわたって使われていたために、誤差が蓄積し、実際の天行よりも二日間先行していた。また、各地で独自に宣明暦に基づいた民間暦が発行されていて、それらの中には日付にずれが生じているものもあり、日常生活、農耕作業、商取引行為などにも大きな支障を生じていて、暦の全国的な統一を実行する必要に迫られていた。当時の朝廷は、明國で使われていた「大統暦」に改暦することを予定し、貞享元年三月三日(一六八四年四月十七日)に、「大統暦改暦の詔」まで発布していたが、渋川春海が採用を願い出た大和暦を採用することとし、当時の元号から「貞享暦」と命名した。渋川春海はこの功績により、幕府から新設の天文方に任命された。
前述した「太陰太陽暦」とは、「太陰暦」を基にしながらも、閏月を挿入して実際の季節とのずれを補正した暦法である。「太陽太陰暦」と呼ぶ場合もある。また「太陰太陽暦」を「太陰暦」と呼ぶ場合もある。これは「太陰太陽暦」が「太陰暦」から派生し、いずれの暦法も、日は月の運行によって決められるという共通点を持っていることによる。純粋な「太陰暦」では、一回帰年の近似値である十二ヶ月を一年とした場合、一年が三五四日となり、「太陽暦」の一年に比べて十一日ほど短くなる。このずれが三年で約一か月となるので、約三年に一回、余分な一ヶ月(閏月)を挿入して、ずれを解消した。閏月を十九年(メトン周期)に七回挿入すると、誤差なく暦を運用できることが古くから知られていた。しかし閏月が入ることにより、一年の日数に大きな差が出てくるなどの欠点もあることから、現在、この方式は正式に用いられていない。
さて、この資料(十七巻、十七冊)の各巻の内容を紹介すると、以下のようになる。
*貞享解(二暦全書貞享解)
巻之一 序 目録 対例:貞享解自序(西村遠里、寳暦十四年)、貞享暦解序(明和二年)
巻之二 雲朔交會推歩(貞享暦推歩):保井算哲 編著、安倍泰福 校正
巻之三 貞享暦立成(太陽太陰昼夜刻):保井算哲 編著、安倍泰福 校正
巻之四 七曜暦推歩(貞享暦推歩)
巻之五 貞享暦立成[五星](貞享暦):保井算哲 編著、安倍泰福 校正
巻之六 暦議 上(貞享暦引)
巻之七 暦議 中(貞享暦巻二):保井算哲 編著、安倍泰福 校正
巻之八 暦議 下(貞享暦巻三):保井算哲 編著、安倍泰福 校正
巻之九 雲朔交會推歩湿(貞享暦湿巻之九):西村遠里 著
巻之十 七曜推歩解(貞享暦議巻之十):西村遠里 著
巻之十一 暦議湿 上 中 下(貞享暦議解之十一) :西村遠里 著
巻之十二 推歩雜記(貞享暦推歩雜記):西村遠里 著
巻之十三 暦造次抄
巻之十四 頒暦畧注
巻之十五 日本長暦 上(貞享解巻之十五)
巻之十六 日本長暦 下(貞享解巻之十六):儀鳳暦、保井算哲 纂
巻之十七 日本長暦交蝕考(日本古今交蝕考):西村遠里 著
西村遠里の著作した巻は、巻之一、巻之九~巻之十二、巻之十七の六箇所を数える。純然たる彼の著作物というよりは、編纂物という趣である。渋川春海の手により、日本で初めて製作された暦に対しての、西村遠里の評価が伺える資料である。また、「巻之十四 頒暦畧注」においては、冒頭部分に目次が記載されていないことが発見された。おそらく一丁分の「落丁」と推定されるが、「國書総目録」においても、「完全版」の所在は不透明であるので、検証することが不可能である。読者諸氏の御指摘に委ねる次第である。なお、西村 遠里(にしむら とおさと)の生涯を辿ると以下のような内容となる。享保三(一七一八)年に大和で生を享け、天明七(一七八七)年に没している。享年七十歳。江戸中期に活躍した暦算家。一時、近藤氏と称し、名は得一、通称は左衛門、千助。遠里、得一堂、居行と号した。京都で薬屋を営み、池部清真に算學を、幸徳井氏に暦學を學んだ。天文家の土御門家に仕え、寳暦二(一七五二)年、陰陽頭土御門泰邦の推挙で、宝暦の改暦に与った。この宝暦改暦にあたっては、将軍徳川吉宗の意図に従って、西洋天文學の成果を取り入れて改暦を企画していた江戸の天文方に対して、伝統的暦法に依拠しようとした保守派の土御門一派を代表する立場に立ち、天文方の日食予測があたらない点を指摘した。また、著作物を多数執筆し、大部の「授時解」「授時暦解」「天経惑問註解」「天學指要」などの暦學・天文學の書籍の他に、「万国夢物語」「居行子」「天文俗談」「数學夜話」「遠里随筆」などの一般大衆に向けた随筆や論攷なども残している。
この資料を所蔵している、各地の圖書館や研究機関は以下の通りである。「國書総目録」に記載されている書籍の名称は、「貞享解」の他に、「貞享暦解」と「貞享暦議解」があげられている。いずれの資料も寳暦十四年成立で、十七巻で十七冊が正式な巻数・冊数であると明記されている。①國立國會圖書館(十七巻で十七冊)、②九州大學(巻之一~巻之七)、③東北大學附属圖書館林集書(十七巻で十一冊)、④井本文庫、⑤尊経閣文庫(巻之一~巻之十四、十五冊)の五箇所である。
この巻を刊行するにあたって、國立國會圖書館の資料を使用した。配架番号はVF7-N180である。刊行にあたってご協力をいただいた諸氏に感謝の意を表する次第である。また、このような「天文學」「数學」「薬學」「医學」「地質學」「博物學」「本草學」「化學」などの分野では、先學の方々の研究も道半ばで悪戦苦闘しているような状況下で、浅學の身でしかない編者にとっては、能力の不十分さを痛感した次第である。今後も、これらの分野に関連する資料の書誌學的な整理と、書かれている内容の全面的な総点検を行い、読者諸氏の期待に応えるべく努力する所存である。