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ISBN4-7603-0159-3 C3325 \250000E
近世絵図地図資料集成 第10巻(加賀・能登・越中[2])
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250,000円 (税込:275,000円)
近世絵図地図資料集成 第10巻(加賀・能登・越中[2])
(2006/平成18年7月刊行)
[第11回配本]
〈第1期・全12巻・全巻完結〉
The Collected Maps and Pictures Produced in Yedo Era--First Series
近世繪圖地圖資料研究会 編
A2版及びA1版・袋入・全12巻・限定100部・分売可
各巻本体価格 250,000円
揃本体価格 3,000,000円
都市図と村絵図~近世絵図地図制作の背景~
1、はじめに
「近世絵図地図資料集成」の「加賀・能登・越中(2)」をお届けする。前回は加賀国の金沢城下を中心とした絵図地図を収録したが、この度は、加賀の残りの地域と、能登半島が中心となっている。大聖寺や小松、白山周辺、口能登から能登半島をめぐる絵図地図を網羅してある。また近世と近代以降の絵図地図制作の変化、地域の変貌を確かめるために、近代に入ってから制作された地形図も、わずかだが収録している。これは、地域社会の産業経済の変化を知るために、あえて収録したものであり、絵図地図が足りなかったからとかの理由ではない。近代以降の地形図は、白山とその周辺に鉱山が開発され、鉄道が敷設された頃のものを何点か収録したものである。 明治政府は、富国強兵という政策を押し進めるために、全国各地の金山や銀山、銅山、ニッケルや鉄、石炭などの鉱物資源の分布状況や埋蔵量を示した地形図も制作している。これらの地形図は、時たま古書市などにも出品されることがある。本絵図地図集に収録したものは、それらの資源調査ないしは鉱物資源の所在を示す地形図と考えられる。明治という時代は鉄道を中心に動いていたが、ここに収録した地形図にも、かっての国鉄や大手私鉄とは違う北陸鉄道の路線が書き込まれている。
2、絵図地図の制作技術とその背景
近世に制作された絵図地図というと、「技術的に未熟で、稚拙な物が多い」と思われがちである。たしかに江戸切絵図をみても、縮尺はほぼ5千分の1だが、歩いてみると実際の距離感覚は絵図地図とはかなりの違いがある。それに省略してある建物や道路なども珍しくない。 加賀藩の絵図地図制作では、郡絵図に見るべきものがたくさんある。これは、加賀藩が小規模な村々を作る方針を採っていたために、他藩のように大規模な村が生れなかった事と関係がある。これは、近世以前に加賀藩が「百姓の持ちたる国」として、100年間も一向宗の国だったからである。守護の富樫を追い出し、一向一揆を闘った一向宗(浄土真宗)の勢力が国の各地に残存していたから、村々の団結力を剃ぐために採られた政策の結果、近世には小規模な村々が大量に生れることとなった。 前田家とすれば、敵地の一向宗の真ん中へ、単身赴任するようなものだったのだから、藩政初期には民衆対策に莫大な努力を要したであろう。大規模な村を作れば、その内の半数でも組織されればかなりの勢力となる。そのために、民衆の団結を妨げるため小規模村落を大量に作らせたのである。 この小規模村落を大量に作った点については、別の見方もある。加賀藩や隣の富山藩は、大小の河川が白山や立山連峰から日本海に向かって流れ出しているために、たえず洪水の危険にさらされていた。小規模な村々を作ったのは、万一の洪水の時に、農村の被害をより少なくしようとしたため、という説である。
たしかに加賀平野や砺波平野を流れる河川は、いまでもかなりの急流である。ただ、急流を避けるためであるならば、尾張平野の輪中(わじゅう)のような施設を作れば問題はないはずである。尾張国の様子を知らない藩主ならば、洪水から村を守るため、という説も頷けないわけではないが、やはり加賀藩は一向一揆の再来が怖かったのであろう。「そのために小規模な村々を大量に作ったのであろう」と考えられる。
その小規模な村々に、藩はほぼ一戸ずつ、藤内を配置しているのである。近世の藤内が何をやっていたのかといえば、主な役割は村々の情報収集である。『異部落一巻』という史料を読むと、この辺の実情がよくわかる。『異部落一巻』は、石川県図書館協会から刊行されている史料集である。 そうした藩の政策が採られたため、他の藩のように村絵図には見るべき物が少ない。そのために加賀藩においては郡絵図の制作が発達したのである。
村絵図は、藩の財政の基礎となる土地を測定し、その結果を地図として記録したものである。このような村絵図は、藩の公図であった。ただし、公図であるからといって、正確に描かれているかどうかは別の問題である。これまで編者が閲覧した全国各地の村絵図は、かなり正確に描かれている物が多かった。
一般的に、村絵図が盛んに制作されるようになったのは、江戸時代の後期になってからである。幕府も全国の諸藩の政権基盤も確立し、土地制度も整備されるのが近世後期だからである。一般的には、『日本史』教科書でも徳川の政権は関ケ原の合戦の後、家康が征夷大将軍に任じられ、幕府を開くとすぐに士農工商の身分制度を敷いて、参勤交代などの政策を取り入れ、すぐに安定したかのように記述されている。しかし、実際には徳川の政権が安定するのは、幕府が開かれてから100年くらい経ってからなのである。
幕府や藩の支配関係が確立すると、田んぼや畑、山林や河川などの現況の変化は、支配者にとっては重大関心事となる。そこで村絵図・郡絵図制作の必要性が生れてくるのである。台風や大洪水や地震によって河川の流路が変わったり、耕地が失われたりした場合、村役人は藩や幕府の要請によって、村絵図を制作しなければならなかった。
また、近世には村と村の境界がはっきりとしていなかった。各地で村切りが行われ、はっきりしていたように考えられているが、山林資源などをめぐって境界争論がよく起こされた。また領地替えによって飛び地などの人為的な変動が起こる場合もあった。境界争論が起きると、村の神社や寺が移動して、村人が主張する自分達の境界線に添って建てられたりもした。神社や寺も移動したのである。
村絵図は、一般的には村役人や当地の学者などによって制作された。また、共有山林などの境界争論の場合には、それ以後、再び同じような争論が起こらないように、絵図制作専門の絵師によって描かれる場合もあった。
村絵図は、一般的には村絵図とか絵図と呼ばれているが、各地で名称は様々であって、村惣絵図、麁(あら)絵図、地絵図、地引絵図、墨引絵図、境目絵図、見取絵図などとも呼ばれた。ただし、名称が違うからと言って、ほとんど内容に変化はなかった。しかし、地引絵図や地絵図は、検地の時に制作された場合が多かったようである。墨引絵図、境目絵図は、名称が示す通り、境界争論の後に設定された境界設定図に多く付されている。村絵図とか村惣絵図と呼ばれているのは、村の景観を描いた図に多く見られる名称である。時として、村絵図に巨大な松の木が描かれていたり、山並みが描かれているのは、このためである。それは、村において名所となっていた場合であり、絵図地図を制作する時の目印になったりしていた。本絵図地図集にも、このような絵図が何点も収録されているので、御覧願いたい。 村絵図の制作目的も、様々な理由からであった。単に領主の側の意向だけには限らなかった。江戸時代から明治初期までに制作された村絵図について、主な種類の物だけを分類すると、次のようになる。 まず江戸時代では検地に関する絵図が挙げられる。検地は、高校の『日本史』教科書に触れられているように、細かく検地が行われたわけではなく、実際には「巡見」といって、代官や役人が馬に乗ったままで村役人の説明を聞いただけ、という場合もよくあった。だから「巡見」なのである。 しかし検地関係の村絵図は、一般検地・新田検地・新田開発・給地改・寺社領改・朱印地改・除け地改・潰地立返・田畑譲渡・地租改正などの時に制作された。近世には、新田開発は度々行われたから、その度に村絵図が制作されたりしたのである。
大名の領地替えなどの場合には、国絵図が制作された。また領主の交代、廃藩置県などの場合にも国絵図とともに村絵図が制作されている。明治2年や3年に制作された村絵図は、実に精密な絵図が制作されている場合が多い。また近世と近代を繋ぐ史料として、大変に重要なものである。だが、市町村史の編纂において、村絵図が利用されるようになつたのは、まだ最近になってからである。村絵図も歴史史料である、という意義が理解されていない現実がまだまだ見られる。
また、量的に多く見つけられているのは、境界争論に関しての絵図である。これらに関しては境界改・用水争論・山川境争論裁許・川魚漁業権に関しての絵図が制作されている。近世には、用水路が発達していなかった場合が多く、かなり大きな河川から直接田んぼに水を引いていた場合もよく見られた。しかし、それらの用水も、ちょっとした洪水や長雨で流路がよく変わった。そのたびに用水争論や境界争論が、関係する村々の間で起こされたのである。これらの絵図は、単独でみつかる場合はほとんどなく、たいていは幕府や藩の裁許状とともに保管されているものである。
村々の調査で、よく見つかる絵図は、その他に請願に関する絵図である。それらは川除場普請・川堰普請・川辺普請・水車小屋・屋敷番付・墓所設置・道路普請および改修・開墾畑などの絵図である。現在と違って、近世には河川はよくその流路を変えた。大河川に限らず、現在でも、地形図をみていると、小さな河川の流域でさえも、河川に沿っていくつもの「飛び地」がある。これは、その河川が荒れていた時代があったことを示す、歴史的な史料といえる地名なのである。「土地に刻まれた歴史」である。 このような村絵図は、単独で制作されたわけではなく、たいていは別の文書とともに藩や幕府に提出された。しかし、それほど重要な場合ではない時、あるいは小規模の河川の土手の決壊などの場合には、提出文書の隅にその部分だけを書き込んだ場合もあった。
村絵図を記載した用紙は、ほとんどの場合、和紙が利用された。そのために現在まで残っていても、保存状態の良い物が大変に多い。4色ほどで彩色されたものなど、見ていてもきれいな絵図がよく見られる。村絵図は、支配する側にとっても、村側にとっても重要な史料であったから、大切に保管したのである。村側にとっては「権利証文」であったのである。本絵図地図集に収録した絵図地図も、原図は彩色図が多い。
明治になり、このような絵図は村役人ではなく、市町村の役場に保管義務が移ったからかえって史料の残り方に、市町村の政策の濃淡がはっきりと表われるようになった。用水関係の絵図は用水組合が管理するなど、史料保管の統一性も崩れた。
近世に制作された村絵図では、縦横が6尺くらいある大きな物も見られるが、一般的には縦横3尺くらいの物が多く制作された。これらは、和紙を何枚か貼り合わせて絵図を制作した。制作された村絵図は、名主や庄屋も、村保存用を持っていた。だから、近世の名主や庄屋をやったことがわかっている家があったら、訪ねてみると良い。ただし、家には栄枯盛衰が付き物だから、近世の名主や庄屋が、そのまま現在でも地域の有力者であるとは限らないので、よく調査しておく必要がある。蛇足だが、名主という名称は主に三河国から東の地域で使用された。これに対して庄屋というのは、主に西日本で使用された。名称にも東西の違いがあつたのである。加賀藩では肝煎が名主・庄屋にあたる役職である。
村絵図は、現代の地形図と違って、厳密な意味での縮尺はあてにはならない。しかし、村絵図はほとんどの場合、600分の1程度のものから2万5千分の1程度の縮尺である。そして、一般的には、絵図の上が北を指している。
約束事はまだあって、たいていの場合には絵図地図の余白に凡例が記してある。それは山地は緑色、河川は青色、道路は茶色(ないしは朱色)、田畑は黄色、家は黒、海も青色である。家は黒色で示され、たいていは子供が表現するような屋根を付けた家で現された。寺はやや大きな屋根で、神社は鳥居が描かれている。
このように、村絵図には、村の現況を写真か絵に残すような工夫がこらされていたのである。文書では表現しきれない景観を、彩色や立体感をだす工夫をして制作したのであった。今日の地形図とは違って、縮尺はいいかげんではあるが、だからといって信頼できないというわけではなく、制作された当時の村には、何があったのか、絵図を見る側は正確に読み取る努力をしなければならないと、考える。 ところで、このような村絵図の制作には、どのような技術が利用されたのであろうか。その点を考えて見たい。
加賀藩の場合、越中国射水郡高木村(現在の富山県新湊市)に住んでいた石黒信由の存在を無視するわけにはいかない。石黒は、多くの村絵図や郡絵図などを制作した測量家であり絵図制作者であった。石黒は1760(宝暦10)年に生れ、1836(天保7)年に亡くなっている。地元の高木村では肝煎役を務めていた。石黒は、『測遠要術』や『測量法実用』といった絵図制作技術に関する著作を残している。近世社会では、全国各地で夥しい数の村絵図が制作されたが、その制作方法や制作にあたっての記録は実際にはほとんど残されていない。石黒の著作は、その点で実に珍しい物といわなければならない。 加賀藩では、石黒の他にも、越中国礪波郡内嶋村の十村役だった五十嵐孫作も忘れてはならない。五十嵐は『領絵図仕様』を1802(享和2)年に書き残した。石黒は、やはり同様の『御検地領絵図仕立様』という村絵図の制作方法を書き残した。これらの村絵図制作法が残されている金沢藩は、近世においては絵図制作の巧者であった、と言って良い。 近世には、全国的には一間は6尺で換算する例が多かったが、全国的に統一されていたわけではなかった。一間を6尺5寸で換算しているところもあれば、6尺2寸のところもあつたというように、全国でマチマチであった。この点に関して、石黒信由は、「道路の間法、書ごとに替りあり。或は六尺、或は六尺五寸などあり。然れども享和三年、公儀より測量御用に伊能勘解由、海辺道程を曲尺六尺を用いるなり。依って、今これに従うなり。また田地は一間曲尺六尺三寸を用いることは文禄年中より天下一統の御定なり」(『測量法実用』)と、書いている。つまり、金沢藩では、検地は一間=六尺三寸の換算で行っていたと、みられるのである。幕府の認定基準よりも、少しだけ広い。 ところで、石黒信由はどのように絵図地図制作を行っていたのであろうか。『測量法実用 二』には、「測量法は絵図の大小によりて、その業をなすには無益の費ひあるべし。絵図面にあらわれざる数を巨細に視ることは、実に労して功なし。始末を思量し、ただ要用をとるを基本」とすると、書いている。「絵図地図を制作するときは、測量法のあれこれにこだわるのは無駄である、どのような絵図地図を制作するのか、その目的を明確にして要点を押さえることが重要である」と、書いている。実務家としての考え方がよく現われている一文である。
さらに、石黒はいくつかの村絵図制作法について書いている。それは、『縄張町見領形絵図仕立之法』『領絵図仕様』『磁石術領形絵図仕立之法』『御検地領絵図仕立様』などで、このうち前記の二種類は、今日で言うところの「平板測量法」のうちの「放射法」といわれる方法、後記の二種類は「廻り分間法」といわれる測量法で、「平板測量法」の「前進法」にあたると、言われる(『近世絵図と測量術』、川村博忠 古今書院 1992)。 「石黒のいう〈縄張町見〉というのは、測量しようとする地域の真中あたりに測量の基準点を置き、そこから四方の測量点を定めて、方角と距離を測り、それぞれの長さを定めて測量点の位置を図面に落とす方法である」と、言う(川村博忠、前掲書)。 石黒は、『測遠要術』を書いていて、その中で、村絵図制作の方法について、かなり詳しく述べている。煩を厭わずに、その方法を以下に述べる(なお、解読文については、川村博忠の前掲書を利用させていただいた)。
「縄張町見領形絵図仕立之法
一、 一村の領形よくよく見分致し、領境の曲直出入りの角々に標を立て置く事
一、領形により、角縄何か所も用ゆべし。すなわち見盤術によりて、あるいは度量法、あるいは分間割の法を用いるときは図模の失あらん事を恐れて、今算術を用いる事。量地指南前編に曰く、盤を不動にしめ、向遠間を知るを規秬大元法、又神速大盤方と名ずく、町見弁疑に不動知間又大真秬と名ずく術、皆この術と符号するなり
一、地面の大体真中に角縄を張り、また角違いに十字の縄を入れ、隅々曲尺を当て、至って正直に糺すべし。この角縄の張場所に思慮あるべし
一、磁石をもって角縄の当支を見置き、図大成のときは東西南北を験すべき事
一、角の四隅の甲乙丙丁の験より標まで見よう、仮験の差間数、また標迄の間数を求む るの算法、野帳の書様など後に委しく記しこれある事
一、領の真中に角縄を張るときは、その領の縦横間数何程と空眼にて分量なし、その三十分の一以上の間数をもって角縄の方間数と致すべし。もし地面に応ざる小角縄を もって標の間数を求むるときは、その求むる所の間数違い多かるべし。角の方、間 数の大なるに随いて、標までの間数も又大に合うべし。務めて知るべき事
一、人家並びに林などこれあり、角より見通しなり難き所は、曲尺目当て、或は勾配目当ての配符を所々に立て、間竿をもって知るべし。又標の一か所や二か所は別に角縄を張り、向こうの標迄の間数を求むるより間竿をもってしらひ知る事、業早き事有るべし。これらの旨を会得して、何れ成るとも功早くなる事を推察して業を勤むべき事
一、山中谷並びに狭長く他村へ入込む屈曲の地面は、必ず曲尺目当、勾配目当の配符を所々に立て、間竿・間縄をもって標より標までの間数を打立て知るべき事
一、領形標図大成の上、標より標までの曲直はその大概を見取り、図すべき事
一、江川・道、或は堤、或は人家・宮・三昧など野帳に左右の訳合、又相隔たる間数など 一々験しおき有所違わさるように大体を図すべき事
一、領境あるいは江川・道などの曲直、巨細に画く寸は曲々に標を立て、その間々の間 数を打立て、勾配目当の術に依りて絵図調書すべき事
一、領絵図分間はその村の多少に依りて百間五寸、或は百間三寸など究り有るべからず その時の工夫による事なるべし。しかしながら、先に大図を調べ、後に小図に縮める も宜しかるべき哉、その時に随ふべき事
一、絵図大小は、一村或は二村、或は一郡、或は一国にても大体五六尺より以下に縮む べきものなり。それより大きいものは持ち扱い悪く、見るにも自由ならず。もし巨細 を画くときは分図にすべし。何れにもその大要あるべし。委しくは面授にあらざれば 弁じ難し。もっとも一概に思うべからず。その人の機変に応ずべき事」
(川村博忠、前掲書112~113ペ-ジ)
石黒信由の著書には、様々な測量法が図解入りで説明されている。三角測量法などは、よく見られる測量法である。ただし、江戸時代には測量法の名称は、測量した流派によってかなりの異同がみられたから、ここに紹介した用語が、当時どこでも使用されていた用語であるとは限らない。 このように制作された絵図には、田畑・山林・河川・道路・人家といった、いわば決まり物の他に、村の石高や家数、馬何頭といった数字が書き込まれた村明細帳のような性格の絵図もある。このような絵図が継続して残っていれば、それを分析することにより、村の盛衰も明らかになるから、絵図一枚と言えども、貴重な歴史史料であるのは、間違いない。
3、加賀藩の絵図地図を読む
本絵図地図集に収録した絵図地図は、先に書いたように郡絵図に見るべきものがたくさんある。その特徴的な絵図を読み解いていきたい。
小松の城から離れると、絵図に旧北国街道に沿って、「串茶屋」と書き込まれた所が出てくる。ここは元は遊廓があったところである。この串茶屋は加賀藩と大聖寺藩との藩境にあたる。およそ、近世の遊廓や賤民の居住地は、たいていの場合が村境や国境に置かれる場合が一般的であった。この串茶屋が絵図に描かれているものは、本絵図地図集にも何点か収録した。有名な遊廓だったから、郡絵図や小松城下絵図には、必ず書き込まれていると考えていたが、実際には違っていた。書き込みのない絵図地図も多い。
串茶屋で忘れてならないのは、今でも盆踊り唄に残っている「品川くどき」である。この盆踊り唄は、1818(文政元)年に起きた金沢城下の野町の茶屋・徳兵衛と心中した串茶屋遊廓の遊女「品川」の出来事を唄ったものである。遊廓の遊女と客との心中話は、たいていどこの遊廓にも残っていて、最近では、遊女の墓があることそのものを否定する寺もある。それだけではなく、近代になってからの「女工哀史」である製糸工場における女工の無縁墓も、次第に隠される傾向にある。「負」の歴史は消したいわけか。
北陸地方は、古代から京都と関係が深かった地域である。先に触れた加賀藩の賤民の名称である「藤内」も、「藤原氏の荘園の管理を司っていたところから、〈藤内〉という名称になった」と言う説もある。 小松城下から現在の国道360号線に沿って、白山方向へ向かうと、原町という所がある。ここには『平家物語』や『源平盛衰記』に名前を残した「仏御前」の関係史跡が残っている。原町は、町ができるきっかけとなったのは、古代の百済から渡ってきた白キツネが、坊さんに姿を変えて阿弥陀経を詠じていた霊地であり、そのために弥陀ケ原と呼ばれるようになった。
花山天皇(984~986年まで在位)が那谷寺に参詣した時に、地名の由来に感動して、この弥陀ケ原の地に五重塔を建てた。そのために「塔ケ原」と呼ばれていた時期もあった。那谷寺は、紀伊の那智寺の那と、美濃国谷汲寺の谷を併せて名付けられたと言われている。現在も残っている本堂は、1642(寛永19)年に建てられたものである。境内が6万坪あると言われるほど、広い寺域を誇っている。前田家の三代目、前田利常が寺を再興した。那谷寺は、真言宗の寺である。
仏御前は、1160(永暦元)年、弥陀ケ原にあった五重塔の塔守をしていた白河兵太夫の娘として生れた。幼児期より深く仏法を信じ、「仏」と呼ばれていた。14歳の時に京都へ上り、叔父の白河兵内のもとで白拍子になったと、言われている。
弥陀ケ原には五重塔以外の建物はなかったと、言われている。ただ単に、五重塔だけが建っていたらしい。仏御前の父親は、その塔を守るのが役割だった。その塔の跡と言われている場所からは、板碑が掘り出されている。板碑といっても、主に埼玉県下や都内の多摩地方から見つかる板碑とは違って、形は板碑だが、碑の厚さが30センチほどもある。板碑というよりも墓石と言った方が良い。摩滅しているが、中世の年号が刻まれている。 そのような板碑が出てきているから、「その場所に五重塔ないしは塔のような建物があった」と言うのは、無い話ではなかろう。ただ地元で言われているように、五重塔であったかどうかはわからない。それというのも、五重塔だけあって、他の堂塔伽藍が何もなかったと言うのは、信じ難いのである。それに塔守をしていたという点から考えると、仏御前の父親は、近世の江戸で言うところの「長吏役」を果たしていたと、言うことになる。 京都に入った仏御前は、持ち前の美貌と舞いの美しさ、歌の巧さで、京の都の大評判となった。「君を初めて見るおりは 千代も経ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れて遊ぶめれ」といった、今様を歌っていたらしい。延命・長寿を祝った歌である。
このような仏御前の存在が、時の権力者の眼にとまらぬはずがない。仏御前は平清盛の寵愛を受けるようになった。当時、清盛は祇王という白拍子を寵愛していたが、清盛は祇王を屋敷から追い出したのである。「栄枯盛衰は世のならい 萌え出ずるも枯るるも同じ野辺の草 いずれか秋にあはで果つべき」という歌を清盛に残して、祇王は嵯峨野に隠棲するのである。ここが現在の祇王寺と言われている。 『平家物語』巻第一「祇王」には、「かくて三年と申すに、又都に聞こえたる白拍子の上手、一人出で来たり。加賀国の者なり。名をば仏とぞ申しける。年16とぞ聞こえし。<昔よりおほくの白拍子ありしが、かかる舞はいまだ見ず>とて、京中の上下、もてなす事なのめならず」とある。出雲のお国の時代には、舞いの上手は京の都よりも遠くの国に生れた者の方が、様々な邪気を払うと考えられていたが、祇王の時代はどうであったか。 祇王の消息を知るにつけ、仏御前は世の無情を悟り、17歳の秋に長い黒髪を切り、報恩尼と名のるようになった。ここで言う祇王と仏との対比は、大変に意味が深い。それというのは、祇王の<祇>と言うのは、神を暗示するからである。これに対して、仏御前の<仏>は、その名前の通り、仏教を意味する。
祇王は、仏御前にその地位を奪われ、失意のうちに嵯峨野に隠棲し、読経三昧の日々を送る。ある時、清盛からの使いが来て、「仏御前が退屈しているから、舞いを見せに来い」と言われる。嫌々ながら、かつて自分が寵愛を受けていた清盛の屋敷を訪れるが、通されたのは、下部屋だった。かつての自分の部屋へも入れてもらえないのであった。
その時に祇王は、「仏も昔は凡夫なり われらもついには仏なり いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ」との今様を歌った。仏御前に清盛の寵愛を奪われた自分の身を、今様に託して歌った精一杯の抵抗であった。
仏御前が、祇王の身を案じて髪を降ろして、悲しみに暮れる祇王の庵を訪ねると、祇王は仏御前の心を知り、祇王もそれまでの恨みを捨てる。この説話からは、祇(神)が仏御前(仏)によって救われると言う本地垂迹・神仏習合の思想が伺われるのである。「仏教の優位性、極楽往生をするには、念仏の功徳によってこそ可能である」と言う仏教を広めるための思想が、『平家物語』には流れていると言って良い。 しかし、アイドル・タレントと同じで、より若い美人が現れれば、すぐに人気が凋落するのは古今東西ご多分にもれない。ここからは、『平家物語』には動静がまったく途絶えた仏御前について、地元の原町に残っている伝承から考えてみたい。
仏御前は京都で何かの政争にまき込まれたらしく、妊娠中にも拘らず、原町をめざして帰ってきた。しかしその帰路は、琵琶湖を越えて越前国へ出て、旧北国街道を北上する、という最短のル-トをとらず、わざわざ遠回りの美濃国の穴馬谷という険しい谷を越えて、故郷へと帰ってきた。その頃には、父母や血縁の者はもう原町には誰もいなかったらしい。故郷へ帰ってきた仏御前は、白山の登山道の脇に屋敷を建てて、そこで暮らしていたらしい。仏御前の屋敷跡と言われている場所は、後ろがすぐにかなりの川幅をもつ河川になっており、前は道路であり、どのように広く場所を使っても、現在の2DKくらいの広さの建物しか建てられそうにない。
地元にはいくつかの伝承が残っていて、帰ってきてからの仏御前は、主に売春をしていたらしい。また昼間はいわゆる赤提灯のような商売もしていたようだ。京都から(帰って)来た仏御前というもの珍しさで、かなり商売繁盛だったと、言われている。そのために、近在の村々の男が仏御前のもとへ馳せ参じるので、仕事がおろそかになる。その結果、「怒った女房連が、仏御前を襲撃して殴り殺してしまった」と言う説もある。亡くなったのは1180(治承4)年8月18日だと言う。この死亡年月日が正しければ、源頼朝が伊豆で挙兵した翌日に亡くなっていることになる。いずれにせよ、仏御前は時代の変わり目に生きていたことだけは確かである。
仏御前の屋敷跡に建てられた墓石には、「治承4年」と刻まれた墓石を含めて、3基の墓石が建っている。ここからは、伝承ではなく史実を元に考える。仏御前の屋敷跡のすぐ前は、道路を挟んで藤内村なのである。加賀藩の当時から連続して存在している藤内村だから、戸数も、多くはないが、それでも、現在数戸の家が残っている。おそらく、その昔も、この程度の藤内村であったろう。仏御前の屋敷跡はここにあるのである。
屋敷跡のすぐ近くには、仏御前荼毘の地もある。荼毘の地が仏御前の墓地でもある。しかし、それにしては、これ以外に、周辺地域には『平家物語』にその名前を留める仏御前を祀る神社仏閣とかの史跡が見当たらないのである。だが、探してみたらあった。仏御前は個人の家の中に祀られていた。それも、「血縁関係も何もない」と自称している人の家に祀られていた。何ともおかしな話である。 大正時代の末期から昭和の初期の頃までは、原町全体の各戸で、一年とか二年交代で仏御前の乾漆座像が入った廚子を、代わる代わる守っていたと、言う。それは藤内村の人達も含めてきちんと村役を務めていた。偉い人の神仏を、このような形で守っていると言う話は、全国のあちらこちらに伝わっている。中世には、特別に寺社を建てるのではなく、廚子を村の中の全員で守るという形が、よくあった。そのことによって、村の団結が強められたし、和讃の会場で、村の会議も出来た。これが「講」と呼ばれる組織になった。白山周辺の村々には、今でもこのような講がいくつも残っている。
ところが、原町では大正時代から昭和の初期の頃に、この原町で巡査をしていた人が、仏御前の乾漆座像の入った廚子を自分の家に持ってきて、返さなかったのだと言うのである。それ以来、仏御前の廚子はこの人の家に安置されたままになっている。当時巡査をしていた人は、自分の家が当番だったわけではなく、他人の家が廚子を守る当番だったのに、それを奪う形で持ってきたそうである。
では、仏御前の廚子を奪われて、持って来られてしまった家は誰か。大正から昭和という時代背景から考えてみる。
この時期は、全国的に被差別部落に対する差別意識が強くなっていた時代だから、廚子を奪われたのは藤内村の誰かの家であろう。それに村の中でも、藤内の家ならば、廚子を強奪しても、地区の中で強い抗議の声も出ないだろうことを予測しての行動と見られる。そして巡査といえども国家権力の出先である。うっかり抗議でもしようものなら、「公務執行妨害」という悪法を振り回されないとも限らない。「廚子を持ってきてしまった」と言っている、仏御前の廚子を祀っている当主は、持ってきた先は断言はしなかったが、話の前後関係から推察すると、どうも藤内村の誰かの家からであった、とみられる。
この原町では、『平家物語』にその名前を留める歴史上の人物を、個人の家が「お祀りしている」という極めて変則的な事態になっているのである。本来ならば、たとえ白拍子という身分であったにせよ、歴史上に実在した人物なのである。きちんとしたお祀りの仕方があるはずである。よくあるのは神社として祀る、という方法である。
白拍子は、鎌倉時代前後からは歌舞や音曲の名手というよりは、主に売春をするようになっていったので、社会的身分は低く、被差別者の存在となっていった。単純には言えないが、このような系譜の女性の中から、後に、出雲のお国のような歌舞伎の創始者となるような人物も生れたのである。別に白拍子が生れた地域だからといって、恥と考える必要はあるまい。それとも、白拍子だから、このような変則的な扱いでも良いというわけなのだろうか。
もうひとつの問題は、仏御前を地域全体や市で顕彰すると、当然ながら、仏御前が屋敷を構えていたとされる藤内村との関係も、問題とならざるをえないから、このような変則的な事態が続くのであろう。仏御前や藤内屋敷がある所は被差別部落であるから、廚子の問題が大きくなるのを防いでいる事態ともみられる。
さて、能登についても少しふれておこう。能登は、今日では典型的な過疎の地域であるが、その現実が、はるか昔からの姿と言うわけではない。少なくとも、前田利家が加賀へ入る頃までは、輝く地でもあった。口能登に石動山という山岳信仰の山があり、ここは能登の信仰の中心地でもあった。この山の周辺には、能登一宮である気多神宮寺、日蓮宗妙成寺、曹洞宗永光寺などの古刹がある。能登が過去においては、けっして過疎の地域ではなかったという証拠が、これらの寺社の存在である。 奥能登には、曹洞宗総持寺がある。この寺は、現在は曹洞宗の総本山ではないが、1898(明治31)年に、火事で全山が焼失するという事故にあうまでは、曹洞宗の総本山であった。火事から12年後、横浜市鶴見区の現在地へ、総本山は移転した。この奥能登の総持寺には、中国の明から伝わった十六羅漢画像がある。奥能登に点在した寺社は、中国大陸や朝鮮半島の国々と直接貿易を行っていたらしい。
能登が文化的にも社会的にも遅れた地域でなかった証拠は、加賀国が823(弘仁14)年に越前国から独立したのに対して、能登国は718(養老2)年に、すでに独立していたことである。この能登の地は、古代東北のエミシの乱を平定に行く時の前線基地となったところでもある。 また、地元でも「能登はやさしや土までも」という言葉が残っていて、加賀国の大名となった前田利家をはじめ、南北朝時代の吉見氏、戦国時代の畠山氏も、一時期は能登へ落ち着いている。ここは一向一揆などの外敵から身を守る、一種のシェルタ-のような性格を持った地域だった。ただしその「やさしさ」は、心からのものではなかったと考えられている。それというのは、能登は加賀本国とは違った意味で、戦国時代には次々と支配者が替わったから、いちいち抵抗していたら身が持たない。「どうせすぐにいなくなる支配者なら、柳に風でやりすごそう」という、民衆の智恵が生み出したのが、「能登はやさしや」という精神であったと考えられる。それらの支配者の交代について記した絵図も、本絵図地図集には何点か収録している
ところで、加賀国・能登国・越中国は、加賀藩と大聖寺藩、富山藩という前田家で全域を支配していたと考えられがちであるが、実際には、天領があったのである。あまり知られていないが、白山をめぐる争論があった後の白山山麓18ケ村と、能登には1万石の天領があった。この天領は後には1万4千石にまでなっている。いわば、幕府の加賀藩監視所といった感じの領地である。 この事と関係があるのかどうか即断はできないが、本絵図地図集に収録した能登の絵図地図には、村々の名称や距離が細かく書き込まれていたり、浦々の様子が詳細に記述されていたりするものが、かなりたくさんあるような気がする。もちろん、浦々が詳細に記述されるという点に関しては、船の航海安全のためという目的もあったと、言えなくもない。能登は季節風が強く吹き付ける所としても有名だからである。
いずれにしても、様々な角度からの検証をお願いしたい。また、本絵図地図集でも、加賀藩独自の賤民の名称である「藤内」の記述のある地図に関しては、点検のうえで、すべて掲載しなかったことをお断りしておきたい。本絵図地図集の制作に関しては、金沢市立図書館近世資料館館長のの宇佐見孝氏には、適切な助言をいただき、大変にお世話になった。それに各地の史跡や文化財を案内してくれた石川県同和教育研究協議会の人達にもお世話になった。記してお礼を申しあげる次第である。
4、おわりに
この「近世絵図地図資料集成・第10巻」は、加賀国・能登国・越中国の広範囲な地域に渡る絵図及び地図、第9巻に収録できなかった加賀国の郡絵図・村絵図、能登半島地域の地図・絵図を収録した。収録にあたっては、古代から近世末期まで、領土・交通網・河川・都市・農村などの変遷が、歴史的に理解できるような構成とした。この論攷においては、概説に主眼をおいて執筆したので、詳細な内容に関しては、「解説篇」を繙くことをお勧めする。
なお、「近世絵図地図資料集成・第9巻」(2005年刊行)は、若狭国・越前国・加賀国・能登国・越中国の絵図及び地図、加賀国の郡絵図、金沢を中心とした城下町絵図を収録した。「近世絵図地図資料集成・第11巻」(2007年刊行予定)においては、主に、越中国の郡図・村絵図を、それぞれ掲載の予定である。