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ISBN978-4-7603-0430-1 C3321 \50000E
第9巻 日本科学技術古典籍資料/數學篇[15]
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50,000円 (税込:55,000円)
第9巻 日本科学技術古典籍資料/數學篇[15]
關流?法指南
解 説
この資料は東北大學附属図書館狩野文庫所蔵で、配架番号は「狩七-二○四四一-四二」である。全四十二冊で、内容構成は以下の通りである。
(一)關流?法指南 目録、(二)互換 全、(三)材割 全、(四)??定位 全、(五)盈? 全、(六)加?乗除法 全、(七)平方 全、(八)盈? 前集、(九)盈? 后集、(十)交會 全、(十一)接術 全、(十二)筆算 全、(十三)汢策 上、(十四)廣益?梯 一、(十五)廣益?梯 二、(十六)廣益?梯 三、(十七)廣益?梯 四、(十八)廣益?梯 五、(十九)廣益?梯 六、(二十)廣益?梯 七、(二十一)廣益?梯 巻之一 欝術 全、(二十二)一?盈? 全、(二十三)分合演債 全、(二十四)勾股變化之法 全、(二十五)両?両竒 全、(二十六)竒偶? 全、(二十七)觧見題之法、(二十八)開除? 前編、(二十九)開除? 后編、(三十)冪式演債 前編、(三十一)冪式演債 後編、(三十二)?法綴術草 全、(三十三)勾股弦再乘和點埜、(三十四)圖象志、(三十五)自約之術 前編、(三十六)自約之術 後編、(三十七)當流?法目録觧 全、(三十八)求式正誤術 全、(三十九)珍好集 全、(四十)【廣益】?梯 巻之九 諸角門演債諺觧、(四十一)諸角二距斜術 (四十二)全、環錘觧術 全。
この四十二巻の資料は、關孝和(一六四○~一七○八)と、彼の門人達が残した「關流?法秘傳術」を傳えるための資料として、時代毎に編纂されて、傳書として受け伝えられてきた。傳書とは、学問・芸術流派の秘傳や奥義等を記した指導的な資料で、初心者や一般の人々を対象に書かれたものではない。流派の後継者や免許を与えた者に限って、師匠が秘傳や奥義等を授ける書物のことである。このことを考察すれば、この資料が、關孝和の算学を弟子に伝授するための傳書であることに、疑いの余地をさしはさむことはできない。なお、本文中には、入江平馬(一六九九~一七七三)、石黒信由(一七六○~一八三六)、山路主住(一七○四~一七七三)、松永良弼(一六九四~一七四四)、關孝和(一六四二~一七○八)、中田高寛(一七三九~一八○二)等が、叙述者もしくは編纂者として記載されている
(一)の「關流?法指南 目録」は、単独の書籍として、日本学士院に所藏されていることを考えると、次のように推測できる。この論攷には、關流の本質的要素もしくは真髄とも言える内容が込められていて、弟子達は、これに基づいて、時代に応じて、内容構成を若干変えながらも、後代に「關流?法」の教義を引き継いでいったのであろう。この論攷においては、最初に、「誓約」が提示され、「關流?法の秘傳や奥義を、未熟な門弟や他人に漏洩しないこと」、「この規則に違反すれば処罰を受けること」等が明記されている。次の「關流?法指南目録」で、「稽古之次第」として、百九十三項目にわたり、算法の演習方法が提示されている。これらの算法の演習方法は、上述の目次の配列とほぼ同様である。跋に、荒木村英(一六四○~一七一八)、松永良弼(一六九四~一七四四)、山路主住(一七○四~一七七三)、山路之徽(一七二九~一七七八)、中田高寛(一七三九~一八○二)等の、關流の弟子達が名を連ね、その後に、改訂者として、石黒信由(寛政八〈一七九六〉年改)、写本作成者として、五十嵐厚義(文化八〈一八一一〉年写)、坪田金定(文政八〈一八二五〉年写)の両人が記載されている。この資料が文政十一(一八二八)年の成立であるとするならば、五十嵐厚義が(文化八(一八一一)年に写してから、約十七年の時間が経過していることになる。
本文に傳者として記載されている五十嵐厚義は、国学者で、越中砺波郡内島村の出身である。寛政五(一七九三)年十二月六日に、大庄屋五十嵐之義の長男として生を享け、万延二(一八六一)年一月二十四日に、六十九歳で没している。寛政二(一七九○)年十二月六日に生まれ、万延元(一八六○)年に、六十九歳で没しているという説もある。その場合の享年は七十一歳である。名は篤義、厚義。通称は小五郎、後に小豊次、父の名跡を継いで、孫作と名乗った。臥牛齋、香香瀬、鳩夢、雉岡、鹿鳴花園、蟹瀬のふすしのや等と号した。若い時代に、石黒信由に算学、測量術を学び、文化八(一八一一)年に、允可を受けている。文政二(一八一九)年、讒言により、能登へ配流となった。この時に、歌学を本居大平(本居宣長の養子)に、国学を富士谷御杖に、それぞれ教えを受けた。また、石川県河北郡七塚町遠塚の住吉神社に、「文化十四(一八一七)年花月 石黒信由門人五十嵐厚義 奉納」の算額が掲げられていることを勘案すると、師匠の石黒信由との強い絆が窺われる。国学や歌学に関する著作がほとんどで、それも、安政五(一八五八)年以降の、五十代にさしかかろうとする年代から執筆されている。算学や測量術に関係する著作としては、「新器測量法」(安政四〈一八五七〉年十二月刊行)、「数学摘要録」(天保十一〈一八四○〉年)等を数えるのみである。
なお、前述した「新器測量法」(上巻・下巻、安政四〈一八五七〉年十二月刊行)は、以下のような内容である。羅針盤を使用することなく、量地盤の製法及び用法、八線表を用いた計算方法を叙述している。下巻においては、河野通義の「六位十分八線真表」を収めている。
ここで、五十嵐厚義に算学や測量術を伝授した、石黒信由の経歴についてふれてみたい。宝暦十(一七六○)年に生まれ、天保七(一八三六)年に没している。享年七十七歳。江戸時代後期に活躍した和算家、測量家、天文家である。通称は与十郎、藤右衛門。信由は名である。高樹、松香軒と号した。越中国射水郡高木村に生まれる。天明二(一七八二)年、二十代前半の時、富山の和算学者中田高寛(一七三九~一八○二)に關流?法を学んだ。その他に、測量術を金沢の宮井安泰に、天文学と暦学を西村太沖に、それぞれ学んだ。伊能忠敬が享和三(一八○三)年、沿岸調査のために越中を訪ねた際に、宿泊所を訪問し、象現儀などによる天体観測を見学し、四方方面の測量にも同行した。その時に、ワンカラシンなどの測量器具をつぶさに観察し、それに改良を加えた。文政二(一八一九)年、加賀藩の命により、越中国・能登国・加賀国の検地と測量を実行し、天保六(一八三五)年、「加越能三州郡分略絵図」を製作し、提出した。現在の地図とほとんど変らない精度であった。数々の測量術、和算、地理学に関する著作を残している。五十嵐厚義は、二十代に石黒信由と邂逅し、彼の薫陶を受けた。
この「數學篇」のシリーズも、本書で全十五冊を刊行することができた。この偉業も、長年にわたる読者諸氏による御支援の賜である。深く感謝の意を表する次第である。次回作品以降においては、中國から渡来した算法が、江戸時代を経て、如何に日本の文化に取り込まれ、天文学、暦学、測量術等の発展を支えながら、日本固有の数学として確立されていったかを、検証する必要があると思われる。読者諸氏からの忌憚のない御意見を期待する次第である。
二○一七年八月十九日
編者識