商品コード: ISBN4-7603-0001-5 C3321 \28000E

享保・元文諸国産物帳集成・第1巻[加賀・能登・越中・越前]

販売価格:
28,000円    (税込:30,800円)
諸国産物帳集成 第I期]
〔全21巻〕《全巻完結》
Flora, Fauna and Crops of the Japan Islands in Eighteenth Century-- First Series
盛永 俊太郎・安田 健 編
B5版・上製・布装・貼箱入

Morinaga Toshitaro and Yasuda Ken eds. Hard cover, B5 size, in box. Set of 19 volumes.

Due to Economization and protection of Japanese industries during Kyoho period in Tokugawa era, Shogun Tokugawa Yoshimune ordered all governors (Daimyo and Daikan) to list up their products: crops, flora, fauna, mineral, and animal products. This project had been governed by Niwa Shohaku who was a scholar of natural products, completed several years after 1735 (Kyoho 20th). He had ordered to add drawings whatever he could not verify by himself. Therefore, This set contains three parts: a body, pictures,and index.

Volume I. Kaga, Noto, Ecchu, and Echizen. Annotated by Tagawa Shoichi. This area includes Ishikawa, Toyama, and Niigata prefectures. Chubu area map. Reprinted in 1985
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概要

○享保時代、八代将軍徳川吉宗の治世下、財政再建のために、海外からの物資輸入を抑え、国内の資源開発の必要に迫られた徳川幕府が、全国の諸大名・代官に命じて、各領内の作物・動物・植物・鉱物の分布状況を調査させた報告書が本集成である。実際の指揮者は、本草学者丹羽正伯。享保20(1735)年から数年をかけて行なわれた。土地により呼び名が異なったり、丹羽正伯が見聞しなかったものについては、絵図と注釈を付けるようにもとめたため、本帳、絵図帳、注書と三つ揃って一セットとなる。

第I巻 加賀・能登・越中・越前
〈1985/昭和60年5月刊行〉
(田川 捷一 解題)
◎郡方産物帳(一 能美郡、二 石川郡、三 河北郡、四 砺波郡、五 射水郡、六 新川郡、七 羽咋郡・鹿島郡、八 珠洲郡・鳳至郡、九 江州御知行所今津弘川海津之内中村町)、加州産物帳(七 石土水火部、越州産物帳(六 石土水火部)、能州産物帳(六 石土水火部)
◎越前国福井領産物
◎越前国之内御領知産物
◎越前国之内御領増知産物
◎註書下書
◎産物帳之内草之部七色註書

『享保・元文諸国産物帳集成』解題

                   安 田  健

はじめに

 元禄―享保期(一六八八~一七三六)といえば、関ケ原の戦後約一世紀を経て、学術や文芸の面で一つの頂点を見せた時代であった。荻生徂徠、契沖、井原西鶴、近松門左衛門、新井白石、芭蕉など第一級の文人たちや、尾形光琳、乾山や土佐光起、菱川師宣などのすぐれた画人たちが輩出し、また理学の分野でも、和算の関孝和という奇代の天才が現われたのもこの時期であった。
 本草学、農学の分野でもすぐれた業績・著書が目白押しに著わされた。新井玄圭の『食物本草大成』(一六八八)に始まり、野必大の『本朝食鑑』、宮崎安貞の『農業全書』、岡本為竹の『広益本草大成』、土屋又三郎(加賀国の老農)の『耕稼春秋』、貝原篤信の『大和本草』、寺島良安の『和漢三才図会』、佐藤信景の『土性辨』、など代表的な大著が集中している。大変な文化昂揚の時代であった。
 丹羽正伯の企画により、全国諸大名領毎に農作物、動物、植物の種類を書き上げさせた『産物帳』の編纂は、そのような時代背景のもとで行なわれたわけである。

『庶物類纂』の編纂

 『産物帳』について述べる前に、それに関係の深い『庶物類纂』の編纂経緯について概要を述べる。
 一六九三(元禄六)年、稲宣義(稲生若水)は金沢領主前田綱紀に召されて『物類考』(これが後に『庶物類纂』と改題)の編纂を命ぜられた。これは中国の文献(本草書、辞書類、歴史書、地誌をはじめ文学書、詩歌にいたる)を広く渉猟して、それらの中に記載された庶物に関する記事を書き抜き、それらを事項毎にまとめて再編成するもので、その編序は現存する完成本を見ると次のようである。
『庶物類纂』編序
序・凡例 一、草属(一○○巻) 二、花属(八○巻) 三、鱗属(一五巻) 四、介属(一五巻) 五、羽属(二○巻) 六、毛属(二五巻) 七、水属(四三巻) 八、火属(二三巻) 九、土属(一○巻) 一○、石属(七二巻) 一一、金属(三九巻) 一二、玉属(二五巻) 一三、竹属(三六巻) 一四、穀属(三九巻) 一五、菽属(一一巻) 一六、蔬属(一六六巻) 一七、海菜属(六巻) 一八、水菜属(七巻) 一九、菌属(一○巻) 二○、?属(八巻) 二一、造醸属(二○巻) 二二、蟲属(九五巻) 二三、木属(五○巻) 二四、蛇属(二八巻) 二五、菓属(五五巻) 二六、味属(二巻)
(以上、二六属の総巻数は千巻であが、現存する完本にはこの他に増補五四巻がある)
 その二二年後の一七一五年に稲宣義はこの二六属(千巻)の内、九属(三六二巻)(所謂前編、前掲の中のゴチック体のもの)を編集したところで、未完のまま没した。
 一七一九年、八代将軍吉宗は前田綱紀にその未完の『庶物類纂』九属(三六二巻)の献上を要請し、これが幕府の文庫に納められた。吉宗は未完の部分(所謂後編)の続輯を、当時幕府に医生として仕えていた丹羽正伯に命じた。(この年代は明らかではないが、松島博(一九七四)によれば、一七三二年という)
 一七三四(享保一九)年になって、幕府の公文書にこの続輯に関連する記事が現われる。すなはち『有徳院(吉宗の贈名)殿御実記』の同年三月二一日の条に、
「けふ令せられしは、医生丹羽正伯貞機に庶物類纂の編輯を命ぜらるるにより、国々の産物、其名、形状をとふこともあるべければ、公領は代官、私領は領主地頭、寺杜領は其主管よりかねてさとしをくべし、となり」(註一)
とある。この趣旨は同日付で老中松平乗邑から大目付あてに次の公達により達せられた。『庶物類纂』の所が「書物」となり、文体が公文体になっているが、内容は同じである。
「此度丹羽正伯書物編集之儀に付、諸国産物俗名并其形、其国々え承合申儀も可有之候間、正伯相尋候はば申聞候様、御料は御代官、私領は其領主且地頭、并寺杜領は其支配頭々より可被申渡候。以上。
 寅三月
右の趣、向々可被相触候。」(註二)
 この文書は直ちに迴状をもって、諸領の江戸留守居役へ達せられた。この公達によって、正伯は全国諸領に対して産物について照会する権限が与えられたわけである。

(註一)『新訂増補国史大系』巻第四五、六五三頁。
(註二)『御触書寛保集成』および『憲政類典』の享保一九年三月二一日の条。

『産物帳』編集遂行の根拠

 ところで、この公達にはいささか不審に思われるふしがある。『庶物類纂』は前述の通り中国の文献の記述を再編成するという性格のものであり、日本国内の情報を反映させる必要はほとんどないものである。稲宣義が編集した三六二巻(前編)にも、国内の資料が利用された例は極めてまれであったし、その後正伯自身が編集した後編を見ても、国内のある地方の方言が付記されることがままある程度で、全国諸領に公達を出してまでして情報を求める必要性は『庶物類纂』に限っていえば、ほとんどなかったはずである。
 それで私は次のように推測する。正伯は『庶物類纂』の編者という将軍側近の要職に就いたのを機会に、『庶物類纂』の編集に必要であるという名目で、日本各地の農作物、動物、植物、鉱物などの種類を調べ上ること(これはそれまでに一度もなされたことがない)を意図し、この公達を出させることになったのではあるまいか。この公達は正伯の起案による可能性がある。もっとも、この公達には単に「正伯から何か照会があるかもしれないから、その時は答えるように領内に周知させよ」をいうだけで、領主自身に対して領内の動物植物などを悉皆調べ上げて報告せよというような大規模なことは示されていない。
 しかし、正伯はこれで充分であった。彼はこの公達を最大限に活用(拡張解釈というべきか、むしろ越権というべきか)して、全国諸領に対して、各領内の産物(農作物、動物、植物、鉱物)の種類の悉皆調査を指示することになる。正伯にはそれなりの覚悟があってのことであろう。
 この一通の公達(よく読むと『産物帳』の編集とはほど遠い趣旨の)を拠りどころに、一介の本草学者の指示で、全国諸領において一斉に大規模な調査編集事業が遂行されたというのは、誠に不思議な思いがする。幕府の威令がよく行なわれた時期なればこそなのであろう。

『産物帳』の編集

 全国諸領へ『産物帳』の編集が指示されるのは、さきの公達が出てすぐになされたわけではない。公達が出された一七三四年三月から約一年間、正伯は本来の任務である『庶物類纂』の編集を進めるかたわら、『産物帳』の編序体系を練っていたようである。
 『庶物類纂』編集には助手として、宣義の弟子で越中出身の内山覚中、宣義の三子稲新介の他、八住元廸、田村立庵、滝正貞および正伯の息子正純、正伯の弟正因らが参画するという大がかりなものであった。これら人々はまた当然『産物帳』の編集にも協力することになったものと考えられる。
 公達から一年後の一七三五(享保二○)年閏三月から四月にかけて、諸領の江戸留守居役達が正伯の許に呼ばれて、初めて各領毎の『産物帳』を編集することが指示された。盛岡領、岡山領、福岡領、鹿児島領などには、その時江戸留守居役から夫々の国許へ送った連絡の文書が残っていて、正伯に招かれた時の様子、正伯が説明した内容が伝えられている。
 岡山領の留守居役大久保岡右衛門は閏三月一四日に、盛岡領の同役関新兵衛は同月二一日に、福岡領の同役花房伊右衛門と鹿児島領の同役和田休左衛門は四月三日に、夫々正伯の許に呼ばれたとある。福岡領の花房伊右衛門の報告には、この日(四月三日)他領の江戸留守居役達が同席していた様子が記されており、おそらく全国諸領の江戸留守居役達が何回かに分けて招集されたものと思われる。この際、どの範囲の領がその対象になったか、正確なことは分からないが、おそらくほとんどの大名領、天領、寺社領が含まれたものと推定される。
 この席で正伯は『産物帳』の編序を記した帳面を示しその趣旨を説明した。福岡領の花房伊右衛門が国許へ報じた手紙には、次のように記されている。
「丹羽正伯老より相招かれ候に付、四月三日御留守居花房伊右衛門罷り越し候処、正伯老御出会、諸家御留守居一同に仰せ聞せられ候は、今度諸国産物名目、其外其国其所に之有る品々、編集仰付られ、書物仕立候に付、御銘々御国許に之有る品、残らず書き付け差出し申すべく候。口上にては相済み申さず候故、大概題号を立て、帳面相渡され候。此の趣に書き認め出来次第正伯老方え差出し申すべく候。帳面(編序を示したもの)は銘々書写し、順達し、留りより正伯老え差戻候様に、と申し聞せられ候。写し取り帳面差上げ候。右の節正伯老申せられ候は、御国中在々浦々嶋々に至るまで、其所に之有る品残らず書き出し申すべく候。所々より出で申す品に候は一ケ所より出候分ばかり書付け申すべく候。右之品々常に俗語に唱え来り候分は、其の通りに書出し申すべく候。尤もいづれも仮名にて之を認め、見やすき様にいたし申すべく候。御領分に之なく、脇よりも其所え参り候品は書き出すに及ばず、除け申すべく候。御領分、外の国にも之有る御方は、高一万石におよび候はば其所の品々書き出し申すべく候。右の帳面書調べ指出され候儀は急の御用にては之なく候間、随分相改め出来次第に差出べき旨御申し候。(読み下し文に直した。また句読点を付した…編者)
 正伯が示した『産物帳』の編序パターンは次の如くである。とくに農作物では、今日いう品種に当たるものを詳しく書き出すことが要請されていることが注目される。この編序パターンは特徴的であり、今日残る古文書で書名、成立の経緯などの判らなくなったものでも、このパターンになっているものは、この時の『産物帳』と見てまず間違ないといえる。


『産物帳』の編序体系

(表紙)何国何領 * 産物  何誰内何誰
(* 後にこの箇所に郡名を列記することが要請される)
一、穀類
  わせ    越中わせ、柳わせ、何、何
  なかて   何、何
  おくて   何、何
  もちいね  何、何
  粟     何、何
  ひへ    何、何
  黍     何、何
  小麦    何、何
  大麦    何、何
  蕎麦    何、何
  大豆    何、何
  黒大豆   何、何
  青大豆   何、何
  赤小豆   何、何
  ささげ   何、何
  何ささげ  何、何
  何大豆   何、何
  何     何、何
右の外穀類何にても右の例にて書加へ申すべき事、尤一色を幾色にも唱候は、何何と申儀、幾色にても之有り次第書載申すべく候。
一、菜類
  菜     何な、何、何
  大こん   何、何
  何     何、何
右の例にて菜類草木に限らず、食用に致し候物之有り次第、唱へ候名幾色にても之有る分、残らず書加へ申すべく候。
一、菌類
一、?類
一、菓類
一、木類
一、草類
一、竹類
右之次第、残らず書載、尤書様の例同断。
一、魚類
  どぢやう
  砂むぐり
  何
  何
一、貝類
  何
  何
書様の例同断。
一、鳥類
  くいな
   かねたたき
   何
  何
   何
一、獣類
  かもしし
  青しし
  何
  何
一、蟲類
  まいまいつふり
   かたつふり、何、何
  何、何
一、蛇類
  まむし  何、何
  何、何
右の分は食用成り申さず分も残らず書き加へ申すべく候。
一、城下町方にては給べ申さず候とも、辺土之百姓給べ候  物
  大豆葉
  小豆葉
  野あさつき
  まむし
  いなご
  何
一、金   一、銀   一、銅   一、鉄
一、鉛   一、錫   一、しろめ 一、辰砂
一、琥珀  一、土朱  一、硫黄  一、膽礬
一、碌青  一、明礬  一、磁石  一、水精
一、雲母  一、紫石英 一、朴消  一、焔消
一、石膏  一、滑石  一、無名異 一、鐘乳石
一、赤石脂 一、鏃石  一、硯石  一、砥石
一、緒しめ石、但何石にてもおしめに成候石
一、つけ石 一、何  一、何
右の外薬石と唱へ、又は世上に少き珍敷石土之類出候所、国郡村の名、山の小名委細書付申すべく候。
一、一領にても国の違候分は別段に相認め申すべく候。
一、右の内献上之有物の分、別紙に相記し申すべく候。
  以上。(読み下し文に直した。また句読点、。を付した…編者)

 正伯が示した編序で解かるように、「産物」といっても加工品、工業製品などは含まれず、盛岡領の関新兵衛が国許へ報告した文書にあるように「すべて土地より出候分」、後年いう天産物(農作物を含む)に限られていた。

諸領における『産物帳』の作製

イ、『産物帳』本帳の作製
 諸領ではその年五月頃から夫々『産物帳』編集の担当者を定め、調査、編集に着手する。このようにして、日本列島全域にわたって開闢いらい初めての詳細な天産物の一大調査が開始されたのである。
 正伯の要求する精度は、大名家お抱えの本草学者の既存の知識の範囲での机上の作文では、とうてい応えられるものではなかった。調査はまず村(当時の村は今の小字程度)の段階から始められた。 
 稲の品種ひとつ採ってみても、領内に作付けられる全品種を調べ上げるには、全村落にわたって調査し、それを積み上げ整理しなければならなかったであろうし、草、木、鳥、獣、蟲、魚、貝、土石についても、村々の色々の人々の知識を集める必要があった。とくに魚や海の生物については漁民から、山中の草木、鳥獣や蟲類については、杣人から、などなど。全国の庄屋などが中心になって各村内の作物、動物、植物の名を書き留めるということが全国一斉に行なわれることになった、
 このような時代は外にあったであろうか。上野益三博士は「この調査は日本の博物学のルネッサンスともいえる。その後の天産物に対する興味を引き起こす原動力になったと思う」と評価し、また如月小春さんも「津々浦々の庶民が身近な動植物に目を向け、名を確認し、壮大な在野の博物学を展開していった様子は、想像するだけでわくわくしてくる」と、感動をこめて述べている。
 この村単位の『産物帳』が全部そっくり残っていれば、これはたいへん貴重な資料であるが、残念ながら二六○年前の村方文書が残る例は稀であり、とくに『産物帳』の場合は発見される例が少ない。今日までに知られたものは次の二五例ほどである。

 一 『陸奥国磐井郡築舘村天狗田村産物書上帳』
 二 『陸奥国刈田郡滑津村産物』
 三 『陸奥国会津郡関本村産物書上帳』
 四 『常陸国東崎村産物書上帳』
 五 『下野国河内郡高谷林新田村産物書上帳』
 六 『下野国芳賀郡竹原村産物帳』
 七 『下野国芳賀郡飯貝村産物書上帳』
 八 『越後国蒲原郡滝谷村産物』
 九 『越中国魚津町産物書上帳』 
 一○『越中国立山芦峅寺領産物書上帳』
 一一『(能登国鹿野村)産物五穀之分書上申帳』
 一二『信濃国伊那郡新町村産物書上帳』
 一三『信濃国伊那郡橋原村書上帳控』
 一四『遠江国佐野郡水垂村萬産物書上帳控』
 一五『参河国加茂郡寺部産物』 
 一六『尾張国愛知郡菱野村産物』
 一七『尾張国知多郡小鈴け谷村産物』
 一八『近江国中村町産物帳』
 一九『泉州泉郡内田村産物帳』
 二○『隠岐国海士郡海士村産物絵図差出帳』
 二一『出雲国島根郡東組産物調控え』
 二二『安芸国賀茂郡下市村産物目録』 
 二三『伊予国越智郡越智嶋御尋物品々』
 二四『肥後国山鹿郡山鹿中村両手永名品』
 二五『肥後国山本郡正院手永土産』

 村単位の調査資料は、次の段階として郡毎に同名のものを整理して郡単位の『産物帳』が作られ、さらに領単位、国単位にまとめられて、『○○国○○領産物帳』として完成された。ただし、中には、郡単位の段階に留まり、領単位、国単位に集計されない例もある。
 各領の『産物帳』は、早いところでは同年の暮から逐次江戸へ送られ、正伯の許に提出された。当初、どれほど日時がかかってもよい、ということであったが、翌一七三六年七月には、未提出の諸領に対して、急ぎ作製して提出すように催促の意向が伝えられた。一七三七~八年中には、おそらく大方の領から提出されたものと思われる。
 各領ともたいへん熱を入れて、綿密に調査編集した跡がうかがわれる。盛岡領の例を揚げると、
 農作物  一○六種(品種数の合計、一七七五)
 植物   木四三九種、竹一七種、蔓七三種、草七四四      種、海藻三八種、茸九二種、計一四○三種
 動物   獣四四種、鳥二○三種、魚一六九種、貝五九      種、蛇外一五種、蟲外二四七種、計七三七種
 金石   二九種
 辺土食物 一二一種
合計(辺土食物を除く)二二七六種

 領により精粗はあるが、各領にとって初めて明らかにされた領内の生態系、天産物の全容であった。各領では同じものを二通作り、一通は正伯へ提出し、一通は控えとして国許に残した。これは一般に諸領から幕府へ公文書を出す場合の定法であった(この控本が今日探索の対象になっている)。

ロ、「絵図」と「註書」
 諸領では『産物帳』の本帳を正伯の許へ届けて、一件落着という思いであったろうが、正伯からさらに折り返し指示が返えってくる。それは、正伯が各領の『産物帳』に目を通し、名称だけでは判からないもの、例えば地方の方言による呼称とか、地方特産の珍しいもの、その他正伯の未知のものなどについては、絵図あるいは註書を作製して再提出するようにという指示である。さきに提出された本帳に記載された種類名の上に、朱で○印を付したのが絵図と説明を、△印を付したのが註書を添えよという意味で、その書き方の要領を添えて各領へ戻された。
 註書はそれほど困難ではなかったであろうが、絵図を描くことは相当な難題であったと思われる。さきに例として揚げた盛岡領には、絵図と説明二七九件、註書一八二件が求められた。名古屋領(尾張、美濃、信濃にわたる)の場合は絵図と説明は六四○件という多数が求められた。

 絵図を描かせることは、正伯は当初から予定していたように思われる。というのは、一七三四年の公達の中に「諸国之産物俗名并其形」について正伯の照会に応えよ、となっており、「其形」の一語が入っている。この一語で諸領に数百件の絵図を描かせることができたのである。
 植物の絵図には花、実などを描くことが求められたが、これらはある時期にしか見られないことが普通であるし、またどこにでもあるものばかりではない。魚や鳥、虫なども実物を捕えて写生することが困難なものも少なくなかったはずである。
 諸領ではこの絵図、註書作製のために、再び難作業に取り組むことになる。本帳の場合よりもかなり手間取ったようである。
 一七三七年一○月頃から未提出の領の江戸留守居に対して再び催促の書面が出された。一二月下旬に福岡領の江戸留守居へ出された督促の文書は、かなりきつい調子のものである。そのような推移で一七三八~九年頃までには、ほとんどの領から本帳に絵図註書を添えて提出された模様である。ただし、どの領とどの領から提出されたのか、正確なことは判からない。
 結局この時の『産物帳』は「本帳」と「絵図」と「註書」の三部で一揃となる。ただし「註書」は別巻とされる場合、又は「本帳」の該当項目の箇所に書き込まれる場合、あるいは「絵図」の末尾に添えられる場合もある。
 今日この三部が完全に揃って残っている例は稀であり、筆者の知る限りでは次の二○ 件にすぎない。
 盛岡領、佐渡国、越中国(絵図の一部欠)、信濃国筑摩郡、遠江国懸河領、伊豆国、美濃国、尾張国、三河国寺部、和泉国岸和田領、紀伊国、隠岐国、出雲国、備前備中国岡山領、周防国、長門国、対馬領、筑前国福岡領、肥後国米良山領、日向国諸県郡
 その他は本帳のみとか絵図のみなど不揃いである。

ハ、『産物帳』のその後の行方
 正伯の許に提出された諸領の『産物帳』は全部でおそらく千冊を超える大部なものになったであろう。ところが誠に残念なことに、いつの頃からかこの文書の山は杳(よう)として行方が判らなくなってしまう。正伯の見識と熱意と決断によって企画遂行され、全国津々浦々の農民・漁民・杣人たちが参加し、諸領の本草学者、絵師たちが協力してまとめ上げたこの調査の成果が失われたことは、かえすがえすも無念の限りである。
 正伯の許に提出された『産物帳』そのものは、そのようにして、利用されることなく失われたが、それが利用された例が一件だけあったことが分かった。それは、『産物帳』編集の後約一二○年を経た一八五○年頃、富山領主で本草家前田利保が動植物の彩色図合計二九三点を八巻に編集し、後に『富山前田本草』と題されて、今日まで伝えられている動植物絵図集である。これまで、編集の経緯が不明であったが、各領の『産物絵図帳』の絵図・注書と照合したところ、「四五点はその原図が筑前、備前備中、伊豆、肥後、豊後の諸国の産物絵図帳からの転写」であることが判明した。原図不明のものはなお多いが、おそらく未発見の諸領の絵図帳の写しと見て間違いないと思われる。おそらく、各国許の控え本が活用されたと思われる。一八五○年頃はまだ『産物帳』のことが赭鞭会(利保が主催した本草同好の会)などで話題になっていたのであろう。
 各領の国許に残された控えの『産物帳』が、今日まで稀に旧領主家の文庫に保存されている場合があり、また、そこから一度流出したものが、本草学者などに蔵されて今日に伝えられ、あるいは後年になり、古書肆から図書館などが入手して保管した場合などがある。編者等はそれらを探索してきたわけである。今日までにその所在を確認し得た『産物帳』は後掲の二六四点である。その数は不充分であるが、全国各地域に分散しているので、これらからだけでも、当時のわが国土全域の生物相の概容が窺える。

『庶物類纂』の編集

 話は戻るが、正伯の本来の任務であった『庶物類纂』後編の編集の方も、着々と進み、一七三八年五月には宣義がやり残した一七属六三八巻を完成し(宣義が編集した分九属三六二巻と合して、二六属千巻)、同月三日、幕府に納めた。同月三○日、正伯ら関係者八人はその功績を賞せられて幕府から褒賞を受けた。
 さらに一七四五年その増補の編集を命ぜられ、一七四七年一二月、増補五四巻を完成し幕府に納め、同様褒賞を受けた。増補は稲宣義が編纂した九属(所謂前編)の記載にあらたな記事を加え、また宣義の見解と異なる点などが付加された。『庶物類纂』(増補を含め一○五四巻)は紅葉山文庫に納められ、一般の人々は利用できず、またあまり大部のため刊行されなかったため、それを目にすることのできた人はごく限られていた。今日国立公文書館と国立国会図書館に架蔵され一般に公開されている。

 『庶物類纂』編集の経緯は、このように幕府の公文書に記録されているが、『産物帳』に関しては何の記載も見えず、幕府に納められた形跡もないし、これに対する褒賞のことも見えない。やはり『産物帳』は正伯の個人的な意図から出た(ただし、『庶物類纂』の編集に必要であるという名目で)、いわば私的な参考資料と見做されていたことを窺わせる。幕府の要人たちにとっては、中国の多数の文献を渉猟して編集した漢文体の一○五四巻の方が、国内の動植物の名を連ねたものよりも、重要なものに思われたのであろう。

 正伯は『庶物類纂』千巻を完結した一七三八年の九月、番医に昇格したが、二年後の一七四○年四月には再び小普請医に戻された。その理由は明らかではないが、小普請医に降格されるというのは、何らかの咎があってのことであろう。正伯が吉宗から命ぜられて、師稲宣義の遺した『庶物類纂』の編集にあたったことについて、正伯の能力、人格を誹謗する怪文書が出回ったことがあるが、そのような策謀が働いたためなのかもしれない。しかし、その後も正伯は『庶物類纂』増補 五四巻の編集を続け、一七四七年に完結して幕府へ納めたことは前述の通りであるが、それ以後、正伯の名は公式の記録から消えてしまう。あれほど力を入れて全国諸領に作らせた『産物帳』のことについても、何故か論及することなく、一七六五(宝暦六)年四月病のため江戸で没した。享年六六才。
 
『産物帳』の再発見と研究史

 『産物帳』から約一五○年を経た一八九一(明治二四)年、白井光太郎著の『日本博物学年表』(初版)の一七三六年の項に「十一月、仙台藩幕府の命に応じ封内の産物目録を上る」、および一七三七年の項に「高畠金左衛門、行山伝左衛門『加賀国産物志』一巻を作る。稲新助(介の誤り)、内山覚中等之を校正す」と、『産物帳』の内二書を載せた。これが、明治になってから初めての『産物帳』に言及した記述であろう。ただし、これが丹羽正伯の指示で全国諸領で一斉になされたことには触れていない。
 同書一九○八年の増訂版では、水戸領の『御領内産物留』と萩領の『長防産物名寄』が追加された。両文書は白井自身の蔵書となったもので、氏の没後他の文書とともに国会図書館に収められた。
 後年になるが、一九三四年の同書の改訂増補版では、一七三四(享保一九)年の公達が載録され、これに関連して、諸領で編集された『産物帳』として、さらに左の一三件が追加された。これによって、享保・元文の『産物帳』の様子がかなり明らかにされた。
『南部(盛岡)領産物帳』、『伊豆国産物并絵図帳』、『越中国産物之内絵形』、『美作国津山領産物帳』(※)、『伊賀国産物之内絵図帳』、『伊勢国藤堂和泉守領産物之内絵図帳』(※)、『陸奥国中村領産物絵図帳』(※)、『奥州二本松領産物之内絵図註書』(※)、『播州網干領産物之内絵図註書』、『陸奥国津軽領産物絵図帳』(※)、『陸奥国会津領産物絵形帳』(※)、『隠岐国産物絵図』、『佐渡産物志』
[(※)印は現在所在不明のもの。]
 一九二一年、唐沢貞治郎編『上伊那郡史』には『高遠領産物』が収録された。『産物帳』の全文が複刻された初めての例であろう。続いて一九三三年、桂又三郎は『備前国備中国之内領内産物帳』の全文を紹介した。
 一九三三年、矢野宗幹は「驪山房雑記(三)」の中で、「『前田本草』(富山県立図書館蔵)は享保・元文の『産物帳』の写しであろう」、との見解を残している(註一)。編者の調べで、同書は、肥後、豊後、伊豆、筑前、備前・備中その他諸国の『産物帳』の絵図註書からの写しであることが判明した。また、同氏は一九四二年、「本草家の動植物名の研究」(『方言研究』第五輯)で、再び『産物帳』に触れ、『異魚図譜』および『中国譜志』も『産物帳』に関係があろうと指摘した。これらをふくめて、二○余りの諸領の『産物帳』があるようである、と記している(註二)。
 たしかに、『異魚図譜』(岩瀬文庫蔵)は『尼崎図上』に酷似しており(註三)、ともに享保・元文の『産物帳』の写しと考えられるし、また『中国譜志』(国立国会図書館蔵)も、編者の調べで名古屋領の『産物帳』の一部の写本であることが判明した。いずれも同氏の推定が正しかったわけである。
 奥山市松は、初めて丹羽正伯の経歴業績について詳しく調査し、一九三六年四月の日本医史学会で講演し、その大要を『中外医事報告』一二三一号に載せた。また、同様の論文を一九三七年『史跡名勝天然記念物』一二集の四に、さらに一九三八年『丹羽元亮氏追悼記念誌・泉のほとり』にも重ねて載せた。ただし『産物帳』のことについてはあまり触れられていない。
 一九四○年、佐藤勘兵衛、佐藤勝郎は『南部領(盛岡領)諸産物』の全文をガリ版で飜刻(『郷土資料叢書』第一輯)した。
 一九四三年、編者の一人盛永俊太郎は「加賀藩に於ける二百余年前の稲品の特性と二、三の考察」と題して『加賀国産物之内五穀下帳』に記載された稲の品種二○八種の特性を紹介し、当時から一九四三年までの二○八年間の稲の特性の変化を論じた。一九四四年の『米沢市史』には『米沢産物集』が載録された。
 戦前の研究は以上である。

 戦後まもない一九四九年、田中喜多美は『岩手の農業の歴史』のなかで、盛岡領の享保の『産物帳』に記載された農作物の品種について解説を付して紹介した。
 一九五二年、山本修之助は『江戸時代の文献に現われたる佐渡方言』を論じた際、『佐渡産物志』の諸本として、同人蔵の『佐抄図上』のほか、高木利太蔵の『佐渡産物図抄』、鵜飼文庫の『佐渡産物図説』および新潟県立図書館本などのあることを記した。
 一九五三年、長野県の『川岸村史』は、旧橋原村の『享保二十年乙卯、虫類穀類諸事書上帳控』を収録した(『集成』三巻所収)。
 一九五四年、編者の一人安田健は『日本農業発達史』第二巻「徳川期における稲種論」の中で、盛岡領、米沢領、金沢領、萩領の『産物帳』に記載の稲の品種を紹介し、さらに一九五八年、同書別巻上の「加賀藩の稲作」で、加賀、越中、能登、および越前四国の『産物帳』に記載の稲の品種を論じた。
 吉岡勲編の『岐阜県の歴史・第二近世』(一九五六年)には『美濃国産物帳』記載の農作物が採録された。
 一九五七年、日野巌は「享保元文年間の物産改めに関する文献」(『書林』六月号)を発表、次いで翌五八年には『防長本草学及生物学史』の中で、萩領とその支藩における『産物帳』編集の経緯およびその内容を解説、その調査の中心となった島田智庵の略歴を紹介した。
 上野益三は一九六○年、日本学士院刊行の『明治前日本生物学史』第一巻に「諸国物産の調査」の一節を揚げ、「『産物帳』の編集を通じて、わが国各地の動物相、植物相が著しく明瞭になったこと、さらにはこれによって各地に博物学を盛んにした功績はきわめて大きい」、と評価した。そして各地の『産物帳』数例についてその概容を紹介した。
 一九六一年、花岡興輝は 『肥後国熊本領産物帳』の全文を解説付きで紹介した(『熊本史学』第二一・二二号)。
 一九六二年、名古屋市教育委員会編『名古屋叢書』一一巻として『尾陽産物志』を、所三男の解説を付して復刻した。同年、向山雅重は『信濃国高遠領産物帳』の全文を、当時の高遠領の状況を付して『信濃』第一四巻一二号に紹介した(『集成』三巻 所収)。同氏によれば、一九三○ 年までは、その『絵図帳』も存在していた由であるが、六二年当時にはそれは失われていたという。この『信濃国高遠領産物帳』は、『長野県史、近世史料編』第四巻一「南信地方」(一九七七)に再録された。また、この調査の原資料の一つと考えられる新町村(現辰野町新町区)の『享保二十年従御公儀様御尋産物書上帳』を一九八三年に三浦孝義が解説付で紹介した(『伊那路』二七巻一二号、『集成』三巻所収)
 一九六四年、波多野伝八郎は『蒲原郡小川庄石間組滝谷村産物』の全文を現在の名称と対比して紹介した(註四)(『新発田郷土史』第三号、『集成』三巻所収)。
 一九六五年、稲村徹元は『国立国会図書館月報』五一号に、同館新収の『武蔵国川越領産物絵図帳』を紹介した。同書について、岡村一郎はその前年六四年に『埼玉史談』(一一巻二、三号)でその全内容を示し、現在の種名との対比を試みた。末尾に『武蔵国多摩郡産物絵図帳』にも触れた。これは六六年に『続、川越歴史随筆』に再録された。なお、この川越領および多摩郡の両書は、故フランク・ホーレー旧蔵書で、同氏の没後一九六一年にそのコレクションが売りに出された際に、国会図書館が購入した九件の産物帳の内の二件である。他の七件は、

 『越中国産物の内絵形、乾』
 『遠江国懸河領産物帳』
 『遠江国懸河領産物之内絵図』
 『近江国産物絵図帳』
 『播磨国網干領産物帳』
 『肥後国球麻郡米良山米良主膳領産物帳』
 『肥後国球麻郡米良山米良主膳領産物絵図帳』

 一九六六年、『竹原市史』第四巻(史料編二)に『安芸国賀茂郡下市村産物目録』が収録された。これは広島県下で現在までに知られる唯一の村の『産物帳』である。一九六七年、安田は、それまでに知り得た『産物帳』六二点(内所在不明のもの一五点)を『農業』九九六号に紹介し、その内加賀、越中、庄内、高遠、肥後の五カ国の分について、その概要を解説した。
 松島博は一九六八年に「本草学者丹羽正伯の研究」(『三重県立大学研究年報』六巻一号)で、正伯の履歴、業績を論じた。これは前記奥山市松(一九三六)の論旨を骨子とするものであるが、具体的な原資料を豊富に添えるものである。これは一九七四年に『近世伊勢における本草学者の研究』に収録された。ただし、『産物帳』に関してはあまり触れていない。
 一九六九年、『岐阜県史・資料編・近世六』に『美濃国産物』が収録された。同年、出口神暁は『和泉国大鳥泉郡之内関宿藩領内産物図、上下』と『泉州泉郡内田村産物帳』の二文書の全文を、それぞれ解題を付して『和泉史料叢書・本草編』に載せた(註五)。一九七二年、高野和人は『肥後国誌、補遺索引』の「別冊付録」として、『肥後国山本郡正院手永土産』の全文を紹介した。
 一九七三年刊の上野益三の大著『日本博物学史』には一七三四ないし三九年の欄にわたって、『産物帳』に関する事項が詳しく載せられ、白井光太郎の『改定増補日本博物学年表』(一九三四)に載せた一七件の『産物帳』の外に、『越中産物記』『備前国備中国之内領内産物帳』『勢州三領産物之内御尋之品々絵図并註書』『紀伊殿領分紀州勢州産物之内相残候絵図』『紀州産物帳』『(萩領)先大津産物名寄帳』『(同)船木産物名寄帳』『(同)浜崎産物名寄帳』の一○件を加えた。そして、この『産物帳』を諸領に編集させたことは「天産物実地調査の気風を広く全国に行きわたらせたことで、むしろ『庶物類纂』の編纂よりも意義が大きかった」と高く評価した。
 『鹿児島県史料・旧記雑録追録』(一九七四)には一七三五年から一七三八年にかけての各所に『産物帳』編集に関する、江戸留守居役と国許の間に交わされた往復文書が散見され、同領における編集の経緯を辿ることができる。
 一九七五年、西日本新聞社から『筑前国産物帳』『筑前国産物絵図帳』の完全復刻版が刊行されたことは、大変ありがたいことであった。農学、植物学、動物学、鉱物学、歴史学など諸分野の専門家一八人の協力により、一種毎に今日の学名、標準和名を同定し、解説を付すという丁寧な編集で、さらに絵図一二九枚をすべて原色の原寸大で載せた。かつ『産物帳』編集に際して江戸と国許の間で交わされた文書が逐一収録され、端緒から完結までの経緯を克明に知ることができる。
 一九七五年、大石慎三郎は『享保改革の経済政策』の中の「享保段階における稲の作付品種について」の節で『尾陽産物志』所載の稲の品種その他について論じた。
 一九七七年、『御殿場市史』第二巻「近世史料編」には「享保二十年御厨村々穀物果実山菜魚鳥獣類その他書き上げ」を収録した(註六)(『集成』三巻所収)。
 盛永と安田は一九七七 年から八五 年にわたり、それまでに目にすることができた『産物帳』四二点の記載の内の農作物の部分を抄出して、雑誌『農業』に連載し、それらは一九八六年に日本農業研究所から『江戸時代中期における諸藩の農作物』として刊行された。本書の内、蔬菜に関する部分を、一九八六年、青葉高は専門の立場から取り上げ、蔬菜の種類別に当時の品種の分布状況、来歴、変遷などを述べた。
 栃木県では一九六八年以来県内全域にわたり、古文書の悉皆調査を行ない、一九八○年までに六○万点を超える史料の所在を確認し、その内に村ないし村群の『産物帳』が七点含まれていた。それらの村々は、河内郡高谷林新田村、同郡新里最寄二十三ケ村、同絵図品々、同郡岡本村最寄十一ケ村、同郡羽牛田村最寄十三ケ村、芳賀郡竹原村、同郡飯貝村の七件である。この他関係文書として、『新里最寄産物手引帳ひかへ』がある。これらの一部は一九七七年、『栃木県史』「史料編・近世八」および一九八一年、『宇都宮市史・近世史料二』に採録された(註七)。他の府県でも同様な綿密な調査がなされれば、このような史料が発見されるものと思う。 
 一九七八年、『七ケ宿町史・資料編』に『(陸奥国仙台領)刈田郡滑津村産物』が紹介された(註八)。一九七九年、『長野県史・近世史料』第六「中信地方」に『信濃国諏訪領諏訪郡筑摩郡之内産物絵図帳』を復刻掲載した。
 一九七九年、安田は東京神田の古書入札会で、『隠岐国産物絵図註書上帳』一三冊の写本を目にした。また一九八○年にも同所で『隠岐国産物、出雲国産物名疏』など一三冊組の写本に接した。後者は故フランク・ホーレー旧蔵書とあり、文字、絵図ともに優れたもので、原本にごく近いもののように見受けられた。
 一九八○年、安田は『科学朝日』九月号に「享保時代の『産物帳』を求めて」を載せ、それまでに知られた調査概要を紹介した。
 一九八二年、上野益三は『薩摩博物学史』の中で、鹿児島領三国(薩摩、大隅、日向)の『産物帳』の編集の経緯、各類中の数、今日の名との同定、その意義について述べた。(『集成 』一四巻に再録)。また同じ年「伊勢と本草学」(『植物と自然』一六巻・三)の中で、丹羽正伯の業績を論じ、とくに諸領に『産物帳』を編集させたことが後世の斯学の興隆に大きな影響を及ぼした意義を高く評価した。
 一九八三年、坂部哲之は浜松の古書店で『郷中萬産物書上帳』なる古文書を購入したが、これは、『掛川領産物帳』を編集するためになされた基礎調査の一つ、水垂村ほか七ケ村の『産物帳』であった。同年氏はこれを『地方史・静岡』第一一号.に発表した。
 一九八三年、福井保は『江戸幕府編纂物』の中で八頁を割き、『産物帳』の「成立経緯」「内容」「諸本」の三項をたてて詳細に論じた。諸本の項では、総計五四件につき各々書誌学的な解説が付けられた。その内同氏が実見したものは、国立国会図書館蔵二○件、岩瀬文庫蔵(享保の『産物帳』と断定できないがとして)一○件、蓬佐文庫蔵一件、徳川林政史研究所蔵四件、岡山大学図書館蔵一件、福岡県文化会館蔵一件、金沢市立図書館蔵一件、福井県立図書館蔵二件、計四○件であるという。
 一九八四年、高野和人は『石人』二九三号に、「(肥後国)山鹿郡山鹿中村両手永名品」を紹介、これについて原口芳枝は『同誌』二九四、二九五号に解説を載せた。
 一九八四年、塚本学は『民俗の変化と権力』の中で『産物帳』に触れ、これによって村々の住民相互の知識交流に役立ったと考えられるという。
 一九八五年、安江政一は『薬史学雑誌』二○巻二号で『佐州圖上』の成立経緯、諸本について詳しく論じた。さらにこれに関連して、一九八七年、『佐渡嶋採薬譜』と『産物帳』の関係について論じた。
 一九八五年、田川捷一は金沢領の『郡方産物帳』について、その成立、内容、時代背景などを論じた(『集成』一巻所収)。同年秋山高志は「水戸藩御領内産物留について」において、特に彰考館本の書き入れを詳しく紹介した(『集成』二巻 所収)。同年、奥田謙一は「下野国の産物帳関係史料解題」において、最近の調査で発見された村方の産物帳関係史料七点について、成立の経緯、内容を紹介した(『集成』二巻所収)。同年、石山洋は「武蔵国川越領産物絵図帳について、付武蔵国多摩郡産物絵図帳下」において、両書の成立経緯を解説し、記載された動植物名の同定を試みた(『集成』二巻 所収)。同年段木一行は「豆州諸島物産図、図説及び八丈産物集解題」で、当時の島民の主食、副食、動植物と島民の生活との関わり、などについて述べた(『集成』二巻所収)。
 一九八五年、安田は『アニマ』一五三号に「丹羽正伯」を載せ、特に産物帳の編集経緯について述べた。引き続き一九八六年に『月刊 NIRA』VIII・二に「江戸中期の日本列島における生物」を、一九八七年に『週間朝日百科、日本の歴史』七一に「滅びゆく動物たち」を、同年、『歴史読本』XXXIII・二三に「日本列島、初の生態系調査」を、一九九二年に『Newton』一二・一に「日本初の大々的な生態調査・諸国産物帳」を、又同年『学士会会報』七九五号に「一七三○年代の日本各地の農作物の品種」を、産物帳に基づいて紹介した。また一九九四年、『江戸博物学集成』に「丹羽正伯」を載せた。これは、さきに『アニマ』一五三号のものに加筆し、カラー図版五○余点を添えたものである。
 一九八六年、生駒勘七は「信濃国筑摩郡之内産物・同産物図解説」の中で、記載された各種動植物を今日の和名と同定し、かつ人々の生活との関係などにも觸れた。また、『産物帳』の編集より一五年さかのぼる一七二○年に丹羽正伯らが木曾で薬草採集をしたときのこと、また『産物帳』のあとになるが、一七三八年に名古屋から川合仲右衛門らが調査に来ており、翌々年一七四○年には、同じく三村幸八ほか三人が薬草採集に同地に入ったときのことを詳しく記述した。生駒は、この後の二件は『産物帳』編集のためのものであろうと述べているが、年代がすこし遅いのでなお検討の余地があろう(『集成』三巻 所収)。
 同年、川崎文昭は「伊豆国産物帳、遠江国懸河領産物帳の解題」では特に、伊豆、駿河、遠江三国の稲の品種名を比較検討した。また坂部哲之(一九八三)が紹介した懸河領佐野郡水垂村の『郷中萬産物書上帳』の全文を載せ、これには、「薮」「山」「の」「い」「水」「さく」などの頭注が付けられており、これらは、成育する場所が「薮のなか」「山中」「野原」「居屋敷」「水辺」「柵を必要」などを意味するのであろうとした。これらの頭注は、『遠江国懸河領産物帳』に編集された段階では削除された(『集成』三巻所収)。
 一九八六年、林英夫は「尾張・美濃二国産物帳解題」において、これら二書の編者は所三男の説のとおり、松平君山であり、君山は『産物帳』編集に関わったことにより、本草学に開眼したのであろうとし、その後の君山の本草学の業績を紹介した。『産物帳』はまた、その後、尾張・美濃の本草学を生み育てた役割も大きかったと述べた(『集成』四巻 所収)。
 一九八六年、石原侑は『徳島科学史雑誌』五号に『阿波国産物絵形帳』(赤澤時之氏蔵)を紹介。特にその成立経緯について述べた。
 一九八六年、武田科学振興財団の杏雨書屋では「第一七回、杏雨書屋特別展示会」を開催し、所蔵する江戸時代の本草書を展示したが、『産物帳』一三件も展示され、これについては斎藤幸男が解説を付した。
 一九八七年、安田は『江戸諸国産物帳・丹羽正伯の人と仕事』を著し、『庶物類纂』と『産物帳』の関係、正伯の意図、編集の経緯、村々での努力、現在までに発見された『産物帳』、その内容、それから知られること、正伯の生涯などにわたって述べ、末尾に正伯の年譜を付した。
 日本野生生物研究センターは一九八五年以降「過去における鳥獣分布情報調査」のプロジェクトを組み、諸国の産物帳の記載から当時の鳥獣の分布状況の一部について再現を試みた。プロジェクトのメンバーは、真板昭夫、花井正光、比田井和子、鋤柄直純、安田健ほか。この報告書は一九八七年、環境庁から刊行された。
 一九八七年、真砂久哉は「紀州産物帳、同絵図帳などの解題」で、その概要を紹介し、また、小原桃洞らが編集した『紀伊続風土記』(一八○六~一八三九)に『紀州産物帳』の記事が引用されていることを指摘した(『集成』六巻所収)。
 同年、長谷川仁は『寄せ蛾記』五○号に「埼玉県産江戸時代の昆虫(一)」を載せ、『武蔵国川越領産物絵図帳』および『武蔵国多摩郡産物絵図帳、下』に記載された虫類一九点を今日の標準和名に同定し、解説を付した。さきに岡村一郎(一九六四)が同定したものに、二、三異見を付した。
 谷口澄夫は一九六三年に、編者らの依頼により『備前国備中国之内領内産物帳』と『同絵図帳』の解説を執筆し、その成立経緯と内容を詳しく解説した。具体的な大名領の産物帳の研究としてはごく初期の業績であるが、しばらく印刷の機会がなく、ようやく、一八八七年『集成』七巻に収録することができた。
 一九八八年、木村陽二郎は『江戸期のナチュラリスト』の一章で、丹羽正伯の『産物帳』を紹介し、その末尾で、正伯を誹謗した「大田随筆」を掲げ、「正伯の業績を見れば、この誹謗は当たらない」、と述べた。
 一九八八年、岡山県郷土文化財団は、谷口澄夫の監修と解説(『集成』七巻の解説に加筆)により『備前国備中国之内領内産物帳』と『同絵図帳』の完全復刻版を刊行した。各分野の専門家 八氏によりほぼ全種類が今日の和名に同定され、かつ本帳・絵図帳とも原寸で、絵図はすべて原色、装丁も原文書と同様という行き届いた編集である。他府県でもこのような復刻版が刊行されることを期待する。
 一九八八年、田籠博は『島根大学法文学部紀要』一一・Iに「隠岐国産物帳の諸本について」を載せ、現在知られる写本六本を比較検討した結果、その内の一本だけでは不十分であること、六本を校合することにより、原本に近づく可能性のあることを指摘した。同氏は同年『島大国文』一七号に「出雲国産物名疏の絵図と異名と」を載せ、とくに異名の少ないことに疑問を提した。さらに同氏は、一九八九年『奥村三雄教授退官記念、国語学論叢』中の「方言資料としての出雲国産物名疏」で、この記載にあたって「俗語」を使用させたことは、一七世紀前半の方言資料として重要な存在であると評価した。さらに、一九九○年、「隠岐国海士郡海士村産物扣江についてー解題と翻刻」、二○○○年には「神門郡組下村々産物書出寄帳」で新しい村の産物帳を紹介した。一九九六年多根令己は「出雲国産物帳」を紹介した。
 二○○○年に島根県立博物館は原文書に近い『出雲国・隠岐国産物帳』(仮題)一○冊を購入した。二六○年ぶりの里帰りとなった。館はこれを常設解説シートで紹介した。同年、岡宏三は「文献にあらわれた動植物―南の入海(中海)を中心として―」の中で、産物帳ほか諸文献に現れた四○八種の動植物について、総括をこころみた。
 一九八八年、福島義一は『徳島県医師会報』二○五~二○七号で、『阿波国産物絵形帳』を巡り、所蔵者赤澤時之と対談し、カラー図版三八点を載せた。赤澤時之自身は一九九○年に同会報二一三号に、この『絵形帳』に関連して「阿波のとう里草は、へちまに非ず、あけびの種類なり」を論じた。
 一九九○年鬼頭宏は『近世日本の主食体系と人口変化』のなかで、盛永、安田(一九八五)を引き、各国の各種農作物の品種数を比較して、各国の主食体系を特徴付ける試みを示した。
 同年、金古弘之は『岐阜ふるさとと動物』三三号で『美濃国産物帳』の加茂郡にある「まめさし」(鹿の一種)について考察した。また、同誌三六号では、伊藤徹魯、金古弘之は「飛騨・美濃国産物帳における家畜の記録について」論じ、特に馬、牛が実際には飼育されていたはずなのに記録されていないことについて、その理由を考察した。
 同年『Field & Stream』三月号でも『産物帳』が紹介された。
 一九九一年、名古屋市博物館は、名古屋徳川領『産物帳』のほぼ完全な揃い本(二○冊)を収蔵した。名古屋領の『産物帳』はこれまでその写本の一部が、徳川林政史研究所、杏雨書屋、岩瀬文庫、東京大学図書館、流通経済大学図書館などに分散所蔵されているのが知られていたが、それらを合わせてもなお欠ける部分があった。今回名古屋市博物館に収蔵されたものは、それだけでほぼ完全(註書の一部を除き)であり、かつ文字、絵図ともに見事で、おそらく原本(正伯へ提出されたものか国許の控本のいずれか)と推定される善本である。保存状態も極めて良い。同館の山本祐子は『名古屋市博物館だより』七九号(一九九一)および『慾斎研究会だより』五五号(一九九一)に、その概要を紹介した。それによれば本文書の構成は次のようである。

 『尾張国産物』尾張国八郡の郡別。(八冊、内絵図一冊、註書絵図二冊)
 『美濃国産物』美濃国徳川領一八郡の郡別。(八冊、内註書一冊、絵図一冊、註書絵図一冊)
 『木曾産物』信濃国筑摩郡の内名古屋徳川領。(三冊、内註書絵図二冊) 
『犬山・寺部産物』尾張国丹羽郡犬山、参河国加茂郡寺部、付摂津国武庫郡と近江国蒲生郡。(一冊)

 本文書がどのような経路で今日まで伝わったのか残念ながら秘されているが、このような善本が発見され、公的機関に蔵されたことはたいへん嬉しいことである。榎英一も一九九二年『Nagoya発』二一号に「尾張の珍獣図譜」として、カラーの図版二○枚と解説を付して紹介した。
 一九九一年、小松勝助は『対州産物覚帳の解説』の中で、宗家文庫史料、八郷産物覚帳、対州并田代産物記録、対州産物について解説し、海獺について付記した(『集成』一一巻所収)。
 一九九二年、浜田善利は『豊後国之内熊本領産物帳』所載の植物の内、(一)木に由来する薬用植物、および(二)草に由来する薬用植物を論じた(『薬史学雑誌』二七巻一~二号)。
 一九九三年、同氏は、『肥後国之内熊本領産物帳』『豊後国之内熊本領産物帳』『肥後国球麻郡米良山産物帳』『同絵図帳』の解題の中で、それらの内容の解説のほかに、『産物帳』に直接関係のある資料として、高野和人編の『山鹿郡山鹿中村両手永名品』および『山本郡正院手永土産』の全文を載せ、また『産物帳』以外の江戸時代の肥後国の産物資料から各種動植物名を解説を付して詳しく紹介した。なお、人吉の相良領文書には、「享保二○年八月末差し出す」とあるが、現在残っていないという(『集成』一三巻 所収)。
 一九九三年、山口県文書館では、木村陽二郎の監修により『ふるさと山口、江戸時代の動植物図』を刊行し、『長門産物之内江戸被差登候地下図正控』『周防国産物の内絵形』および『長防産物名寄名彙』の 三文書の全頁を復刻刊行した。夫々に標準和名を付し、また見明長門、三宅貞敏、安田健、田中助一による解説を付した。
 一九九三年、磯野直秀は『慶応義塾大学日吉紀要』一四に「日本博物学史覚え書」(一)を載せ、この中で『薩摩国産物絵図帳』に見られる「ハブ」と「アブラ蟹」の図が、後年、栗本丹州によって転写され、今日『博物館虫譜』に収められていること、また『博物館獸譜』の「カネラ」の図も同絵図帳からの転写図(描いた人は不明)であることを指摘した。同氏はまた、一九九四年同紀要一六の「日本博物学史覚え書」(二)の中で、岩瀬文庫蔵の『異魚図譜』『魚彙』『尼崎図上』はよく似た内容であり、同じ『産物帳』の写本であること、その内『魚彙』が最も原本に近いと思われる、と述べた。
 一九九五 年、阿部俊夫は『文化福島』二七七~二七九号に「丹羽正伯」(一)~(三)を載せ、安積郡下守屋村の『穀類草木魚鳥獣其外品々書上帳』および会津郡関本村の『関本村産物書上帳』を紹介した。この内関本村のものはさきに本集成一八巻に収録すみで、下守屋村の分は初めて紹介されたものである。

『享保・元文諸国産物帳集成』刊行後の諸研究

 『集成』刊行開始以後、各分野の専門学者諸氏により、『集成』を中心に、その他の本草書の記載をもあわせて、特定の動物、植物の当時の分布状況その他が論じられている。編者の許に寄せられた論文は以下の通りである。『集成』がこのように活用されていることは、たいへん嬉しいことであり、その他の分野でもご利用くださるようお願い申し上げる。

川名 興 (一九八九)「享保・元文諸国産物帳集成の貝の方言」(一)『比婆科学』一四四。
川名 興 (一九八九)「享保・元文諸国産物帳集成のシャコ・ウニなどの方言」(一)『比婆科学』一四四。
川名 興 (一九九○)「享保・元文諸国産物帳集成の植物方言」(一)『比婆科学』一四六。
川名 興 (一九九○)「享保・元文諸国産物帳集成の動物方言」(一)『比婆科学』一四五。
川名 興 (一九九二)「享保・元文諸国産物帳集成の動物方言」(二)『比婆科学』一五二。
川名 興 (一九九三)「享保・元文諸国産物帳集成の動物方言」(三)『比婆科学』一五六。
川名 興 (一九九四)「享保・元文諸国産物帳集成の動物方言」(四)『比婆科学』一六三。
山下欣二 (一九八九)「近世におけるカブトガニTachypleus tridentatus(Lach)の名称」『動水誌』三○・ 三
山下欣二 (一九八九)「近世におけるシャコ類(甲殻綱、口脚目)の名称」『動水誌』三○・ 四
山下欣二 (一九九○)「古代~近世におけるヤドカリ類(甲殻綱、十脚目、異尾下目)の名称」『動水誌』三一・一
山下欣二 (一九九○)「古代~近世における蔓脚類(節足動物門、甲殻綱)の名称」『動水誌』三一・二
山下欣二 (一九九○)「近世古文献に見るアメフラシ」『うみうし通信』八・Sept.
山下欣二 (一九九一)「近世古文献に見るヒザラガイ類(軟体動物、多板綱)」『うみうし通信』九・Mar.
宮崎貞巳、田代洋丞、岳英樹(一九九三)「享保・元文諸国産物帳、所載のサトイモの品種・品種群について」『佐賀大学農学部彙報』七五。
伊藤 徹魯、金子弘之(一九九三)「飛騨・美濃国産物帳における家畜の記録について」『岐阜ふるさとと動物』三六
青葉 高(一九八六)「享保元文諸国産物帳の野菜の種類と品種」『農業及び園芸』六一・五。
伊藤 徹魯、未発表「諸国産物帳等に記載されたアシカの分布」。
伊藤 徹魯、未発表「諸国産物帳等に記載されたカワウソの分布」。
奥沢 康正、未発表「諸国産物帳等に記載されたキノコ類」。
盛永俊太郎、安田健(一九七七・八五)「江戸時代中期における諸藩の農作物」(その一~七二)『農業』一一一一~一二一五

『享保・元文諸国産物帳集成』を通覧して窺えることの二、三の例

 これまでに発見された『産物帳』は国単位、郡単位、村単位のものを合わせて二六五点(後掲表)ほどである。そのカバ-する範囲はまだ全体の三ないし四割程度に過ぎないが、全国的に分散しているので、それだけからでも日本列島全体の概要が推し計られよう。それらから知られることの二、三の例を掲げる。
 (一)穀物では、稲、粟、稗などの品種数がきわめて多い。尾張国では稲の品種四○○種、盛岡領では粟三八○種、美濃国では稗一一○種などと、今日では考えられない多数の品種名を上げている。
 稲での変わり物はタイトウと呼ばれる稲で、これは中国の揚子江以南に作られる籾の長い系統、?稲で、現在わが国では栽培していない稲である。戦前一時「南京米」と呼ばれて配給されたことがあり、つい最近も日本の稲作が不作という状況で、タイから輸入されたのもこの種類の米である。このタイトウが、一七三○年代には東北、北海道を除く全国に作られていたことが知られる。周防国の大唐、四十大唐、大唐餅や長門国の白大唐、赤大唐、大唐稲、大唐餅はこの種類である。なお、赤大唐は玄米の色の赤い品種である。
 (二)蔬菜では、サツマイモが琉球から薩摩に渡来して間もない頃なので、まだ全国的に本格的な栽培が始まっていない(ちょうど青木昆陽が大岡越前守の命を受けて、江戸小石川の薬草園で甘薯の試作を始めた年に当たる)。栽培地域は西から九州諸国、壱岐、対馬、瀬戸内、と続くが、出雲、隠岐には見えず、畿内、東海では、紀伊、和泉、伊豆のみにわずかに見える。伊豆は天領であったので代官所から芋種が配布されたことが記されている。北陸では加賀、能登、越中に入っている。この時期、それより以東および以北にはまだ作られていない。
 (三)果樹では、柿と梨の品種がとくに多い。柿は加賀で四八品種、梨は盛岡領で四九品種を数える。果樹の場合、広く分布する品種もかなり見られる。柿の御所柿、きねり、めうたん、梨の青梨、水梨、こが梨、などはほぼ全国的に分布し、その他にも数か国にひろがる品種は少なくない。後年広く見られる夏蜜柑は周防、対馬、筑前の三国にしか記載されていない。
 (四)植物では、木類、竹類、草類、菌類、海草類ごとに、それぞれの種類の名が記載された。例えば盛岡領では、木類四四○種、草類八三七種にのぼる。さらに、細かに分けた名称も添えられ、同領の例では、つつじの類として、れんげつつち、りうきう、ろんほうつつち、京小袖つつち、関寺つつちその他計三一種が、また草の例として、ゆりを上げれば、白ゆり、やちゆり、かのこゆり、すかしゆり、くまゆり、うばゆり、へびゆり、ゑぞゆり、その他、計二四種を数える。
 (五)動物では、鳥類、獣類、魚類、貝類、虫類、蛇類に分けて種類名が列記された。各領とも多数の種類を書き上げた。例えば加賀国では、鳥類二二○種、虫類二一七種を見る。
 諸国の記載から、今日、絶滅ないし絶滅に瀕するトキ(朱鷺)、 ニホンオオカミ、ニホンカワウソの三種も当時は日本中に棲息していたことを『産物帳』は物語っている。
(a)トキ(朱鷺)・現在、日本産のトキは佐渡のトキ保護センタ-の二羽だけであるが、当時は北海道、東北、関東(伊豆大島、八丈島を含む)、北陸(佐渡を含む)、北近畿、中国(隠岐島を含む)、および対馬の広い範囲に生息していた。なお、この後、幕末にかけて東海道、南近畿、四国、北九州へと分布を広げることになる。
(b)ニホンオオカミ・島を除くほぼ全国にいたことが知られる。この時期から一七○年後の一九○五年に奈良県鷲家口で一頭捕獲されたのを最後に、日本列島から姿を消してしまった。
(c)ニホンカワウソ・本種も本州全域に見られる。島では壱岐と対馬にもいた。現在、高知県の一部に生息するのではないかともいわれるが、確認されていない。

 その他『産物帳』の内容を通覧すると、一七三○年代の日本列島は豊かな自然に満ちていたことが知られる。同時に当時の人々が動植物に関して極めて豊富な知識を持っていたことに、改めて脱帽させられる。『産物帳』は全国津々浦々の人々の知識を結集して纏め上げた、日本列島の自然の記念碑と言えよう。この人々が今日の自然破壊の状況を見たら何というであろうか。

 (註一)長谷川仁氏の御教示。
 (註二)同上。
 (註三)磯野直秀博士の御教示。
 (註四)風間辰夫氏の御教示。
 (註五)常世義治氏の御教示。
 (註六)内田哲夫氏の御教示。
 (註七)奥田謙一、塚本学両氏の御教示。
 (註八)樋口弘一氏の御教示。

謝 辞

 編者の一人、故盛永俊太郎博士が加賀国『産物帳』に目を留めて、その中に記載されている稲の品種の特性を紹介したのが一九四三年、その後安田健が数例の『産物帳』の所在を知り、それだけのわずかな情報を出発点に、両名で全国的な探索に乗りだしたのが一九五○年、以来四、五○年、多くの先学の方々の温かいご指導、ご教示のお陰で、今日までに二六四点の所在を確認し、その内一五九点を『集成』全一九巻に復刻上梓することができたことは、誠に感無量のものがある。
 多くのよき先学の方々に恵まれた幸せ、ありがたさの思いをしみじみ噛みしめつつ、心からの感謝を申し上げる次第である。他界された方々もかなりおられ、ご報告とともにご冥福をお祈り申し上げる。
 故上野益三博士からは、ご著書からはもちろん、ご書簡でも、またお会いいただいて、『産物帳』およびそれに関連する諸事にわたってご指導を賜り、またご所蔵の『紀州産物帳』ほか貴重な古文書の利用も快くお許しいただいた。
 木村陽二郎博士からは、江戸時代の博物学全般の流れの中での『産物帳』の意味、それを巡る人々のドラマについてご教示いただいた。
 故森嘉兵衛博士からは『盛岡領産物帳』について、故庄司吉之助博士からは『庄内産物帳』『三春産物帳』についてその所在をご教示いただき、『米沢産物帳』の全文の筆写を頂戴した。
 故所三男博士には『名古屋徳川領の各国産物帳』についてご教示とご便宜をいただいた。林英夫博士からは同文書の歴史的背景とその編者と目される松平君山について、およびその後の尾張・美濃両国の本草学の流れについて、詳しい分析と解題を頂戴した。
 谷口澄夫博士には『備前国備中国之内産物帳』『同絵図帳』の解題と全文の校閲を頂戴した。清水隆久博士および田川捷一氏には『金沢領』の関係諸文書について解題その他ご配慮をいただいた。広瀬誠氏には『富山前田本草』の考証、および『立山芦峅寺』文書について格別のご高配をいただいた。
 故向山雅重氏からは、信濃国全般の郷土資料についてご教示をいただき、特に『高遠領産物帳』について詳細な分析解説を頂戴した。生駒勘七氏には木曾の『産物帳』の内容について類別の詳しい解説と、併せてその五年後に木曾でなされた採藥調査の資料をも紹介していただいた。
 浜田善利博士は肥後および豊後の『産物帳』記載の動植物の内、かなりの数のものについて、興味深い解説を付し、また『産物帳』以外の文書に記載の動植物をも併せて論じ、また「手永」(村と郡の中間の区域)の『産物帳』二件の全文を紹介された。
 小松勝助氏には、対馬の『産物帳』に関連して、宗家の文書全般にわたっても解説していただいた。
 秋山高志氏には水戸領の、奥田謙一氏には下野国の、石山洋氏には武蔵国の、段木一行氏には伊豆諸島の『産物帳』についてそれぞれ解説をいただいた。川崎文昭氏には伊豆および遠近の、故真砂久哉氏には紀州の『産物帳』について解題を頂戴した。
 田代和生博士からは、それまで知られていなかった「丹羽正伯が朝鮮国薬剤の調査に参画したこと、およびその成果として『東医寶鑑湯液和名』を著した経緯」を、未発表の段階でお教えいただいた。
 波多野伝八郎氏、三浦孝義氏、内田哲夫氏からは、それぞれご発表済みの論文を再録させていただいた。

 また以下の方々からは、未知の『産物帳』の所在をお教えいただいた。
 故嵐嘉一博士からは永青文庫蔵の『対州産物』の、佐藤常雄博士からは、『陸奥国刈田郡滑津村産物』『下総国猿嶋郡下郷産物覚』『尾張国知多郡小鈴谷村産物』の、樋口弘一氏からは『会津領関本村産物書上帳』の各所在をお教えいただいた。
 大関久仁子氏からは『常陸国東崎町産物書上帳』、塚本学氏からは『下野国諸村の産物書上帳』の類、田中瑞夫氏からは『下野国佐野産物色絵図』、斎藤昌宏氏からは『佐渡産物』について論じた山本修之助氏の論文(一九五二)についてお教えいただいた。
 風間辰夫氏からは、『蒲原郡滝谷村産物』を紹介した波多野伝八郎氏の論文について、比田井和子氏からは『諏訪領諏訪郡筑摩郡の内産物絵図帳』について、それぞれお教えいただいた。
 長谷川仁氏からは、故矢野宗幹博士がつとに(一九三三、一九四二)『産物帳』の重要性を指摘していたこと、および同博士が二、三の『産物帳』(現在所在不明の)を所蔵しておられたことなどを、お教えいただいた。
 山本祐子、榎英一両氏からは、最近名古屋市博物館に『尾張国産物』『美濃国産物』『木曾産物』『犬山、寺部産物』の善本二○巻が収蔵されたことをお知らせいただき、かつその利用についてご便宜をいただいた。
 常世義明氏からは、『和泉国大鳥泉郡之内関宿領産物図』と『泉州泉郡内田村産物帳』の所在が寄せられ、かつ、『集成』五巻に所載の『河内図上』(岩瀬文庫蔵)は『和泉国大鳥泉郡之内関宿領産物図』であることをご教示くださった。
 故樋口秀雄氏からは『隠岐国産物絵図註書』、故安江政一氏からは『愛知郡菱野産物』、石原侑氏からは赤澤時之氏蔵の『阿波国産物絵形帳』、伊藤健次博士からは『伊予国越智島、従御公儀御尋物品々』、花井正光氏からは『対馬并田代産物記録』『豊後国国東郡産物帳』『豊後国佐伯領産物』、三戸幸久氏からは『雫石代官所内諸木竝諸色書上帳』について夫々お教えいただいた。
 鹿島晃久、横田久江両氏は大隅国、日向国、薩摩国三国の『産物帳』についての情報を寄せられ、そのコピーをお譲りくださった。
 阿部俊夫氏からは陸奥国安積郡下守屋村の『穀類草木魚鳥獣其外品々書上帳』が福島県歴史資料館に蔵されていることをお教えいただきき、そのコピーを頂戴した。但し、本『集成』完結後であったので、残念ながら収録することができなかった。

 原文書の文字の解読には草野冴子氏にご協力いただいた。特に難解の箇所は浅見恵氏のご教授を仰いだ。両氏に厚くお礼申し上げる。

 以上通り、多くの方々のお力添え、ご援助があって、はじめてこの『集成』が成立し得た次第であり、各位のご芳情に対し改めて深甚のお礼を申し上げる。

 ご所蔵の文書の閲覧、復刻をお許しいただいた機関および個人のご芳名は下記の通り(文書名は後掲一覧表の通り)。
(一)機関
国立国会図書館、国立公文書館、東京国立博物館資料館、東京大学総合図書館、徳川林政史研究所、明治大学図書館、東洋文庫、武田科学振興財団杏雨書屋、西尾市立岩瀬文庫、盛岡市中央公民館、岩手県立図書館、酒田市立光丘文庫、米沢市図書館、土浦市博物館、宇都宮大学図書館、金沢市玉川図書館近世資料室、石川県図書館、福井県図書館、高遠小学校、名古屋市博物館、鈴溪資料館、関西大学図書館、甲南女子大学図書館、岡山大学図書館、竹原市役所、山口県文書館、萩市立図書館、岩城村公民館、対馬歴史民俗資料館、福岡県立図書館、永青文庫、熊本大学図書館、鹿児島県立図書館
(二)個人の方々
 宗立人氏、金一弥氏、桜井源明氏、渡部太七氏、山川渉氏、五月女久五氏、篠崎昭氏、川堀ヨシ子氏、大塚正高氏、長野監治氏、栗原家、内田家、川崎文昭氏の各位。

 以上の機関および個人の方々のご芳情に対して厚くお礼申し上げる。

研究費を提供された機関への謝辞

 『産物帳』の記載の内、農作物に関する部分を紹介し分析する経費として、一九八二、八三の二年間、農業技術協会会長戸苅義次博士のお取り計らいで、日本農業研究所から研究費をいただいた。
 また、一九八五年、日本野生生物研究センターは環境庁から、『産物帳』の記載の内、鳥類および獸類の同定と分布状況の復元に関する研究の依託を受け、一九八七年、同センターは『過去における鳥獣分布情報調査報告書』をまとめ、同庁に提出した。
 一九八七年、同じ日本野生生物研究センターは藤原博物学教育振興財団から研究費を受け、特に対馬の『産物帳』を調査収集した。
 以上、研究費についてご高配いただいた戸苅義次博士、日本農業研究所、環境庁、日本野生生物研究センター(現在自然環境研究センターと改称)および藤原博物学教育振興財団に感謝の意を表する。

 ジャーナリズムの方々から『産物帳』について広く紹介していただいたことは、ありがたいことであった。
 『科学朝日』の森暁雄氏はいち早くこの『産物帳』に注目し、一九八○年、拙稿「享保時代の『産物帳』を求めて」を採録し、また朝日新聞社社会部の井出隆雄氏は、三度にわたり朝日新聞紙上に『産物帳』について紹介記事を載せた。その最初、一九八四年元旦の記事が科学書院の加藤敏雄氏の目に入り、この『集成』の刊行となった。同日のNHK総合テレビで、白井久夫氏の企画により、柴田敏隆氏の解説で『産物帳』紹介の番組が放映された。
 一九八七年、アイランズ社の赤岩洲五氏の編集により晶文社から小冊子『江戸諸国産物帳』(『集成』のダイジェスト版)が出版された。その際、以下の各紙に、本書の書評・紹介記事が掲載された。
 『科学史研究』には宗田一氏が書評を寄せられ、『モンキー』には三戸幸久氏の紹介があった。朝日新聞の読書欄には如月小春氏が書評が載せられ、その他毎日新聞、読売新聞、北海道新聞、社会新報、オムニ、Clipper、などにも紹介があった。この後読売新聞は「編集手帳」でも取り上げた。
 この内、北海道新聞の記事が、たまたま北海道にご旅行中だった天皇陛下(当時は皇太子殿下)がご覧になり、その機縁で、後日赤坂御所で、『産物帳』についてお話し申し上げることになった。

 最後に、このような地味で嵩ばり手間のかかる書物の出版を、快く引受けられた科学書院社長の加藤敏雄氏と、その販売を煩わした霞ケ関出版株式会社元社長故大野慶治氏、並びに本書の編集特にコンピューターによる製版と索引作りに特技を発揮されたトマトファームの神谷清美・いく御夫妻の一○年間にわたるご尽力とご厚誼にお礼を申し上げる。索引のコンピューター入力に協力してくれた娘中山美穂にもありがとうを申し添える。

 一九九五 年初夏

[付記]
 上述のように、丹羽正伯は『庶物類纂』(後編と続編)および『産物帳』の編纂という中国とわが国の本草学の上に大きな仕事を果たし、じつはもう一件重要な業績を挙げていたことが最近明らかになった。それは朝鮮の本草学に関するもので、慶応大学の田代和生博士の研究によるものである。
 田代博士によれば、正伯は一七二二年に幕府の小普請医となった当初から朝鮮薬草の鑑定や朝鮮人参の栽培に関係したが、一七二六年には朝鮮の薬種の書の和訳『東医宝鑑湯液類和名』を完成した。さらに同年「朝鮮薬剤調査」(第三次倭館調査)の企画に参画し、一七三二年にはこの調査の指揮に当たるなど、朝鮮の本草学の日本への導入に力を注いだ。博士はこの「朝鮮薬剤調査」の延長上に『庶物類纂』と『産物帳』は位置すると見る。
 詳細は同博士著『江戸時代朝鮮薬剤調査の研究』(一九九九)慶応義塾大学出版会株式会社刊、を参照されたい。

登録情報

出版社: 科学書院
出版日: 1985/05
ISBN-10: 4760300015
ISBN-13: 978-4760300013

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