商品コード: ISBN978-4-7603-0373-1 C3325 \250000E

近世絵図地図資料集成 第16巻(フルカラー版:正保国絵図集成・西日本篇)

販売価格:
250,000円    (税込:275,000円)
『近世絵図地図資料集成』第2期・第16巻正保国絵図集成・西日本篇
(2012年2月刊行・第16回配本)
The Collected Maps and Pictures Produced in Yedo Era--Second Series (Full Coloured Edition)

近世繪圖地圖資料研究会 編
(Edited by The Society of the Study of Maps and Pictures of Yedo Era)
A2版・袋入・全12巻・限定100部・分売可
各巻予定本体価格 250,000円
揃予定本体価格 3,000,000円

志摩國、伊勢國、伊賀國、紀伊國、丹後國、丹波國、山城國、大和國、摂津國、河内國、和泉國、播磨國、美作國、備前國、備中國、備後國、安芸國、周防國、長門國、但馬國、因幡國、伯耆國、出雲國、石見國、隠岐國、淡路國、讃岐國、阿波國、伊豫國、土佐國、筑前國、筑後國、豊前國、豊後國、肥前國、肥後國、日向國、大隅國、薩摩國、壱岐國、対馬國、琉球國


國繪圖作成の歴史及び歴史地理學について(改訂・増補)

近世繪圖地圖資料研究會

 地球を俯瞰して全体的な視野をもって世界を構成するのが歴史地理學であるとするならば、この學問体系は非常に魅力をもっている。歴史という縦糸が織りなす人間生活の発展過程とその世界的連関性の考究は、魅惑的でさえある。これらの國繪圖の作成も、この視点から見るならば、新たな知見を発見することができるであろう。基本的かつ重要なことは、俯瞰すること、そして、究極まで考究したうえで、原理的そして根本的に思考することである。地球儀から日本列島を俯瞰して考察してみると、以下のような事実が認識される。
(1)古来、日本列島が形成されて以降、人間が居住し農耕生活を営む土地は、河川の流域か、もしくは、山脈の間の谷間の地で、水の取得が可能な地域に限定されていた。この生活様式は現代までも続いている。地形の大規模変化がほとんどなかったことを前提として論攷を進めることにする。
(2)新しい田畑の開墾は、これらの土地の土壌を改良したり、余剰の水分を除去し、必要な水分を取得するための灌漑設備の建設にあった。高地を切り開くよりも、河川や近海を干拓する方が、原価もそれほどかからずに容易であることに留意する必要がある。オランダの北海干拓の例を見るまでもなく、湾、干潟、砂州、湿地などの開発が奨励されたのはこのことによる。
(3)江戸時代における新田、新畑の開発とは、とりもなおさず、河川の流域の湿地帯における排水設備の構築であり、堤防や新しい用水路の建設などによる、河川道の整備をさすのであろう。日本海に注ぐ阿賀野川と信濃川の河口に位置する湿地帯において、湿田の整備、排水設備の構築による新田開発などがその好例である。また、江戸時代にあっては、荒川や利根川などさざまな河川における堤防の構築、用水堀の開鑿、中小河川の結合や埋め立てなどによる、農耕や生活などに適した河川道の整備などが全国各地で展開された。これらの事業の詳細を理解するためには、各時代ごとに製作された数種類の地図を比較・検討することによって、河川とその流域に位置する都市や農村の発展過程を詳細に理解することが可能となる。特に、現代の地図とこれら江戸時代の各國絵図を重ね合わせて研究すると、都市・農村・河川を含む国土の変化の実体が手に取るように理解できる。
(4)日本は国土のほとんどが山岳地帯であるために、海岸部や平野部は僅かしか存在せずといえども、その場所に住居を構え、農耕生活を営んできたのが、我々の祖先の生活実態と言えよう。これらの平野部を潤す河川も、急峻な山岳地帯から角度をつけて流れ込んでくるために、上流からの土砂が堆積し、屈曲部のある箇所などでは水量と勢いが増し、洪水などの大災害を引き起こしてきた。これらの災害は、古くから何度も繰り返されてきた。水の流れが急激であることは、流量も多くなり、流れる速度も増すことに注意する必要がある。ただ、琵琶湖、諏訪湖などの比較的低い場所から流れ出す河川は、堤防と排水設備の十分な構築により、災害を最小限にくい止めるることができる。大坂平野は、淀川が中心部を潤していて、干拓による用水堀の無秩序な建設のために、河口付近に水害をもたらすものの、市内へ入るまでは、非常に緩慢とした流れである。その地理的条件の優位性のために、大規模洪水を避けることができた。秩父山地や上信越高原地帯の急峻な山地から流れ出す荒川と利根川が、下流地域にもたらしてきた災害の巨大さと比較する必要があろう。
(5)以上の視点に基づいて、一覧表(「正保國絵図」「元禄國絵図」「天保國絵図」)の執筆に取り組んだ次第である。ここでは、総生産量の他に、一村あたりの石高も算出して、生産効率もしくは生産性の視点からも考究することにした。天保時代にあっては、63,794件の村数が確認されていても、村落の人口が正保、元禄、天保の各時代を通じて大規模な変化がなかったことを大前提として執筆した。石高が多くても、それに比例して人口が多くなれば、一人あたりの生産高は少なくなる。また、人口が少なければ、生産量が少なくても、村落の人口支持力は増大する結果をもたらす。いずれにしても、ドイツの著名な地政學者カルル・エルンスト・ハウスホーファー(Karl Ernst HAUSHOFER, 1869年8月27日 - 1946年3月13日)の理論を参考にして、「人口支持力と生産性」の観点から、江戸時代の経済的実相を考究する試みも、ある一定の価値をもつことになろう。國家においては、ある特定の人口を維持するための生産力の確立が必須となる。この生産力で維持できなくなる場合、他の國への侵略行為に及んで、生産物を略奪する行為が戦争である。江戸時代にあっては、士農工商の身分制度の中で、米の生産が國の生産力の大きな部分を占めていた。ただ、17世紀後半から、強権的な搾取制度は徐々に綻びを見せ始め、18世紀からは破綻の一歩手前の様相を呈し始める。農業生産力の停滞、商業・工業資本の未成熟の中で、明治維新を迎えることになる。この経済史的歴史観に基づく研究は、詳細な生産力のデータを準備していないので、稿を改めたい。
(6)歴史地理學研究方法も、今までの視座を変えて再構築をする必要があろう。 *全体像の構築と傍証となる資料からの推論…この行為なくしては、歴史地理學研究は成立しないであろう。資料作成の意図・方法の考察、これを検証するための各種資料の捜索・解読が、大きな役割を果たすことになる。
*書誌的研究の重要性…書誌學から學問を創造する研究者が少ないいこの國において、まず、地圖の整理・分類方法の基準を確立すべきであろう。正式名称、仮名称、サイズ、模写資料・正式資料・控資料の有無、製作年代、対象年代、紙質、色彩資料・黒白資料の判別、資料の種類(國繪圖、町村繪圖、測量圖、見取圖、概略圖、河川圖、植生圖、広域圖、郡圖、変遷町村繪圖)、石高(國別、郡別、村別)、資料中に記載されている地圖情報の収集・整理・分類・解析など、用語の定義を早急に設定する必要があると思われる。ことに、全資料の収集・整理・分類と、地圖資料中に含まれている情報の直観的認識は最も需要であろう。
*測量方法の定義…國繪圖の測量方法について、明確に分析する必要があると思われる。ことに、和算の方法が、地圖作成、土木工事、建物の構築などのさまざまな分野において、どのように、測量計算に寄与してきたかを解析することも重要である。
(7)徳川幕府の指示による國繪圖の作成事業は以下の五段階に分類できる。
(A)慶長國繪圖…1603(慶長8)年の江戸幕府の開設以降、徳川家康は全國の諸大名に、三部ずつ、國繪圖と郷帳(石高帳)の提出を命じている。この事業の実際の責任者は西尾吉次と津田秀政で、牧長勝と犬塚忠次などが彼らを補佐した。1605(慶長10)年には、國繪圖と郷帳の大部分が江戸幕府に献納されているとの記録が見られる。ただ、これら國繪圖の正本は全く現存していないので、各藩の所有していた控圖あるいは後世の模写圖によってのみしか、この事業の全貌を把握することができない。いずれにせよ、これらの事業は、天正年間に実施された豊臣政権下における國繪圖・御前帳の収納に倣ったもので、領地の正確な把握と、生産力状態の緻密な構築による租税収入の安定化をめざした、徳川政権の恒久的な支配の確立に主眼があったと推定される。
(B)寛永國繪圖…1633(寛永10)年、徳川幕府は諸國見廻りの名目で全國各地へ巡検使を派遣し、各地の領主に國繪圖の上納を命じ、それから数年をかけて資料が収集された。また、1638(寛永15)年には、「日本國中之惣繪圖」を製作するために、各藩に対して、改めて、巡検使が集めたような簡略なものではなく、詳細な國繪圖の作成と提出を要請している。この事業の責任者には、幕府大目付の井上政重が就任した。命令が発せられてから作成・提出に至るまでに、おそらく数年の歳月を必要としたのであろう。
(C)正保國繪圖(本集成15巻及び16巻に収録)…1644(正保元)年12月、江戸幕府三代将軍徳川家光は、全68ヶ國の大名に、國繪圖及び郷帳の製作及び提出の命令をだした。これらの繪圖は、1648(慶安元)年頃迄に、ほとんど収集されたと推定される。これらの國繪圖に基づいて、「日本國中之惣繪圖」が編集された。この事業の指揮者も、幕府大目付の井上政重である。國繪圖や郷帳の作成に際して、表記や縮尺の統一など、製作上の細部にわたっての指示がなされているのが大きな特色であろう。この時に通達された、「圖絵圖と郷帳の作成要領」を示す二通の条令を、以下に掲載する。前者は「繪圖作成の一般的基準」であり、後者は「海岸筋に書き入れる小書き(注記)の要領」であった。[以下の記載は、『国絵図の世界』(国絵図研究会編、2005年7月30日刊行、柏書房)の中の「江戸幕府の国絵図事業と日本総図の集成」(川村博忠氏執筆)及び『江戸幕府撰国絵図の研究』(川村博忠著、昭和59年2月28日刊行、古今書院)から引用させていただいた。記して謝意を表する次第である。]

①國絵圖可仕立覚
一、城之繪圖之事
  一、本・二・三丸、間数之事
 一、堀のふかさ、ひろさの事
 一、天守之事
 一、惣曲輪、堀之ひろさ、ふかさ之事
 一、城より地形高所有之は、高所と城との間、間数書付可申事
   但、惣溝より外ニ高所有之共、書付候事
 一、侍町、小路割并間数之事
 一、町屋、右同断之事
 一、山城、平城書様之事
一、郷村知行高、別紙ニ帳作り、二通上ヶ候事
一、繪圖、帳共ニ郡分之事
一、繪圖、帳共ニ郡切りニ、郷村之高上ヶ可申事
一、帳之末ニ一國之高上ヶ可申事
一、繪圖、帳共ニ郡之名并郷の名、惣而難字ニは朱ニて仮名を付可申事
一、繪圖、帳共ニ村ニ付候はへ山并芝山有之候処は書付之事
一、郷村、不落様ニ念を人、繪圖単帳ニ書付候事
一、水損、干損之郷村、帳ニ書付候事
一、國の繪圖、二枚いたし候事
一、本道はふとく、わき道はほそく朱ニていたすべき事
一、本道、冬牛馬往還不成所、繪圖へ書付候事
一、川之名之事
一、名有山坂、繪圖ニ書付候事
一、壱里山と郷との問道法、繪圖ニ書付候事
一、船渡、歩渡、わたりのひろさ繪圖ニ書付候事
一、山中難所道法、繪圖ニ書付候事
一、國境道法、壱里山、他國之壱里山へ何程と書付候事
一、此已前上り候國々の繪圖、相違之所候問、念を人、初上り候
  繪圖ニ圖中引合、悪敷所直シ、今度之繪圖いたすへき事
一、道法、六寸壱里ニいたし、繪圖ニ一里山ヲ書付、一里山無之所は三拾六町ニ  間ヲ相定、繪圖ニ一里山書付候事
一、繪圖ニ山木之書様、色之事
一、海、川、水色書様之事
一、郷村其外、繪取ニこふん人間敷事   已上
      正保元年申十二月廿二日

②繪圖書付候海辺之覚
一、此湊、岸ふかく船かかり自由
一、此湊、少あらいそニ候へ共、船かかり自山
一、此湊、遠浅にて船いれかね候
一、此湊、南風の時分ハ船かかりあしく候
一、此湊、西風の時分ハ船かかりならす候
一、湊とみなととの間、いにしへより申つたへ候海上道の法、書付候事
一、船道、水底ニはへ在之所書付候事
一、他國のみなとへ、海上道法書付之事
一、潮時に不構、船人候みなと書付候事
一、しほとき悪敷候ヘハ、船不入湊書付候事
一、此渡り口、何里あら潮之事
一、浜かよひ、遠浅之事
一、此所、左右ニ岩在之事
一、遠浅岩つつきの事
一、右書付之外、船道悪敷所候者、不残書付候事
一、湊之名、書付候事
一、浦之名、書付候事

 「正保國繪圖」作成においては、以下の点が注目される。「慶長國繪圖」は原資料が残されていないで、作成の過程を記した傍証の証拠が発見されていないこと、また、「寛永國繪圖」は幕府の巡検使による國繪圖の収集活動に過ぎず、石高帳もしくは土地台帳としての「郷帳」の作成が行われていないことなどを総合的に判断すると、この「正保國絵図・郷帳」が、後の「元禄國絵図・郷帳」「天保國絵図・郷帳」の先駆けとして、製作基準が国家によって決定された最初の國繪圖資料とよんでも差し支えないであろう。また、①繪圖・郷帳ともに二部の提出を命ぜられたこと、②同時に城郭繪圖・道帳の提出も求められたこと、③郡、郷、村の名称については、仮名をふって精確に記載すること、④洪水や日照りの被害を詳細に記すこと、⑤陸路においては、本道は太く、脇道は細く、朱にて記すこと、⑥船渡、歩渡、渡河方法、河川幅、水深、冬期に牛馬通行の難所、山中の難所、國境までの道程を示すこと、⑦縮尺は一里を六寸(2万1600分の1)で作成し、一里(三十六町)ごとに一里山を圖示すること、⑧湊の船着場の状態、⑨風向きの相違による船着きの様態、⑩湊及び浦々の地名の記載、⑪古来よりの航路の記載、⑫他國の湊への道程、⑬船が進まない箇所の表示など、海濱の状態を詳しく書き記すことなどが、きめ細かく指示されている。このようにして、國繪圖作成様式の全國的統一化が意圖されたのである。六寸一里の縮尺はその後の國繪圖作成事業にも踏襲されて、江戸幕府作成國繪圖の一貫した基準となる。 正保國繪圖は幕府命令の翌年から順次提出が始まり、慶安初年頃までには全國の國繪圖が出揃った。ところが、幕府はこの國繪圖事業を終えてから数年後に、明暦の大火による江戸城の火災で収納したばかりの國繪圖を焼失してしまった。そのため幕府はその後寛文年間に諸藩へ正保國繪圖の再提出を求めている。
 現在では幕府が収納した正保國繪圖の原資料は全く残っていないが、各藩の控え資料や模写資料が少なからず残っている。寛政期に勘定奉行を務めた幕臣の中川忠英(なかがわ ただてる)が写していた「正保國繪圖」の模写本68舗(42ヶ國)が國立公文書館に現存している。ただ、この資料は数ヶ國において欠圖が見られ、模写方法にも全て一貫性があるとは言いがたく、原資料の精確さとは少し隔たりがあるように思える。ただ、欠圖があるのは、中川忠英が摸写をしなかったとは必ずしも言い難く、所藏機関が入手する前に失われていたことも否定できない。この「中川忠英模寫圖」は、寛文期の再提出圖を寫したものであると考えられている。中川忠英 (なかがわ ただてる)、宝暦3(1753)年に生まれ、文政13(1830))年9月に、享年78歳で天寿を全うしている。幼名は勘三郎、字は子信、号は駿臺。明和4(1767)年、家督(石高千石)を継ぎ、小普請支配組頭となり、天明8(1788)年、目付となり、布衣を許される。寛政7(1795)年2月より長崎奉行を拝命し、寛政9(1797)年2月まで務めた。長崎にて、手附出役の近藤重藏らに命じて、唐通事(中国語通訳官)を動員して、清の江南や福建などから来た商人たちから風俗などを聞きこれを圖説した『清俗紀聞』の編纂にあずかる。寛政9(1797)年、勘定奉行として、関東郡代を兼ねる。関東郡代を兼ねながら、文化3(1806)年大目付となり、文化4(1807)年蝦夷地に派遣された。文化8(1811)年には、朝鮮通信使の応接を務めた。その後は文政3(1820)年留守居役、旗奉行を歴任。旗奉行在任中の文政13(1830年)年9月に78歳で没した。
 國立公文書館には、さらにもう一組の「正保國繪圖」が存在する。幕末に生きた、美濃岩村藩の最後の第7代藩主松平乗命(まつだいら のりとし)が所藏していた「松平乗命旧藏本」である。点数は38舗(39ヶ國)あり、第16巻に掲載した「和泉國圖」を見る限りでは、丁寧に模写された色彩圖であるが、石高の記載がなく、支配者が欄外に表記されていて、何かある目的のために模寫された印象を与える。詳細については不明であるので、繪圖を一覧して何らかの結論に至る必要があるように思われる。
松平乗命は、嘉永元(1848)年6月13日、第6代藩主である松平乗喬の次男として生まれ、安政2(1855)年、父の死去により家督を相続する。元治元(1864)年に大坂加番に任じられ、慶応2(1866)年の第二次長州征討にも参加している。慶応3(1867年)年7月に奏者番に、12月には、陸軍奉行に任命された。明治2(1869)年6月の版籍奉還により、岩村藩知事に任命され、明治4(1871)年7月、廃藩置県で藩知事を免官された。明治17(1884)年の華族令により、子爵に列せられる。明治38(1905)年11月15日、東京で死去。享年58歳。
 また、正保時代の総合的な把握を目的として、附録として「正保郷帳」を公刊する予定である。
(D)元禄國繪圖(本集成17巻に収録)…「正保國繪圖」製作完了の約五十年後、第五代将軍徳川綱吉の治世下の1697(元禄10)年閏2月4日、諸國に命ぜられた國繪圖の調進は、それから四~五年の歳月を経て、完成を見るに至った。寺社奉行の井上大和守(正岑)が主宰し、他に町奉行・勘定奉行・大目付を含めた四名がこの國繪圖改訂の幕府側担当奉行であった。この元禄期においては、正保期の時よりも、さらに細部にわたって、繪圖製作基準が呈示され、繪圖様式の全國的な統一が圖られた。この國繪圖改訂にあたって幕府が示した条令は、改訂の指針を示す①「覚」(7ヶ条)、具体的な繪圖作成の要領を示す②「國繪圖仕立様之覚」(10ヶ条)、③「國境繪圖仕様之覚」(2ヶ条)の三通であった。以下に、この三通の条例を掲載するので参照されたい。

①「覚」(7ヶ条)
一、先年之繪図、何茂江借渡可申事
一、新繪圖分割等其外、古繪圖之通可被仕候、但、古来と川筋違候所、或新川、新 道、新村又は新池、沼等有之者被相改、繪圖ニ可被記事
一、国々御領、私領、並寺社領、正保二年酉之年以来、地形ニ変候所有之候哉、御 代官、領主、又は寺社方へ被相尋、変儀無之由申分者、繪圖被取候ニ不及、古 繪圖之通可被仕候、尤、変所有之分者、其村計繪圖を被取、本繪圖可被直候事
   附、御領、私領、又は寺社領之分、銘々所付可相渡候間、其上、古繪圖ニ有     之村々ニ而、被相改様子被尋儀者、其所々へ直ニ可相尋候
一、正保二年以来論所等有之、裁許相済候所者、古繪圖と違候場所茂可有之候  間、銘々御代官、領主、又は寺社方へ被相尋、左様之所も有之者、新繪圖ニ可被 改之候、但、右論所之儀、国境、郡境之外之出入者不及吟味事
一、國境、郡境、只今論所有之、内証ニ而不済儀者、公儀江訴、請裁許候様ニ被申 達、裁許済候已後、其所、繪圖に可被記事
   附、只今及争論、公儀江出候場所茂、出入相済候以後、繪圖ニ可被記事
一、國境、郡境之外之出入者、裁許ニ無構、繪圖仕立可被申事
一、借渡候古繪圖、隣國之繪圖仕候衆と申合、國境繪圖之上ニ而改、相違有之所 ハ此方へ可被相窺事
四月

 改訂の方針の基本は、貸与した古繪圖(正保國繪圖)に倣って繪圖製作様式を遵守すること、河川・道路の変更、新設された村落・湖沼のなどの明示、分割(縮尺)の統一などであった。また、國境及び郡境における係争地は、当時者同士の談合で解決できなければ、裁許を仰いだうえで繪圖を作成すること、國境・郡境以外の論地は裁許結果にとらわれることなく、繪圖を作成してよい、という内容であった。國繪圖作成の要領を具体的に示す条令は次のごとくであった。

②「國繪圖仕立様之覚」(10ヶ条)
一、繪圖紙、越前生漉間似合上々紙、裏打者厚キ美濃紙一篇、可被仕事
一、分割之儀は、古繪圖之分割ニ仕、勿論道筋は一里六寸之積りニ、墨ニ星可被 仕事
一、郡墨筋之内ニ郡之名、記可被申事
一、郡色分ケ、不紛様ニ可被仕事、
   但 郡境あさやかに墨引被申事
一、村形之内ニ、村高を記可被申事
   但 高之儀者、石切ニ仕、其外者、何石余と書付可被申候
一、?紙ニ、郡色分ケ之目録、并郡切高付、一國之高都合、書付可被申事
一、?紙ニ郡切之村数、并一國之村数、記之可被申事
一、右新繪圖之表ニ書記候國郡銘々村高、帳面ニ仕立、可被差出候事
一、?紙ニ繪國仕上ケ之人之名、年号、月付、記可被申事
一、御領、私領、寺社領之高、仕分ケ無用ニ候、尤、御代官、地頭之名書も無用之事   但 古繪圖に有之寺地、宮地等之形ハ如前に記可被申候
  右之本ニ、借し候古繪圖、國々調様不同ニ候故、如此書付相渡候、古繪圖考、 此書付ニ無相違様ニ可被仕候、以上
    丑五月

 この指示書においては、使用する紙質の指定(裏打ちされた美濃紙)の他に、?紙(繪圖面の余白部)に、村高・郡高・國高を含む石高や繪圖発行元名称及び年号の表記を遵守することなどが書かれている。また、小判形の形態の村形の中に、各村の石高と名称を記すことも義務づけられた。そのうえ、郡のわかりやすい色分け表示と郡境を墨色で描くことなども指示されていて、國繪圖製作基準の一層の明確化と統一化が計られたのであろう。御領、私領、寺社領別の石高の記載の不必要が指示されているのも注目すべきである。「正保國繪圖」においては、一部の地圖資料において、これらの支配者別の石高が書き記されている。「御藏入」などの表示も見られ、これは、江戸幕府が各藩に割り当てていたと推定される「もう一つの年貢」を意味するのであろう。寺地(寺領地)や宮地(神社領地)は、中央政府である江戸幕府の管轄地であるために、特別な処置が施されていたことも窺える。

③「國境繪圖仕様之覚」(2ヶ条)
一、國境近所、古繪圖ニ有之寺院・堂社・川筋・道筋・池沼、其外何ニ面茂、所之名 記有之所、両國より不書出候様ニ、可被相改候事
一、浦方有之國ハ、小島抔有之所、是又、両國より不書出候様ニ可被仕候、但、境目之 中ニ当リ候所は、両國より書載可被申候事
  右之分、隣國之致繪圖候人と申合、遂吟味、一方より書上候様ニ可被仕候、  尤、右之外、何之しるしも古繪圖ニ無之所ハ、前々之形チに可被致候、以上
    丑五月

 國境地帯に存在する寺院・堂社・川筋・道筋・池沼・島嶼などの所有権を明確にして記載し、紛争を未然に防ぐ意図をもって公布された条例の性格が強い。

 この新しく製作された「元禄國繪圖」が「新國繪圖(新繪圖)」と呼ばれ、先に調製された「正保國繪圖」は、「古國繪圖(古繪圖)」と呼び慣わされるようになった。これら二種類の繪圖の内容の大きな違いは、「元禄國繪圖」にあっては、「正保國繪圖」においては見られた支配者別の所領や石高の記載が全て削除され、村・郡・國別に領地や石高が整然と整理された、國郡圖として完成したことにある。幕府に収納された元禄國繪圖の原本83鋪の中で、8鋪のみが國立公文書館に納められている。なお、明治末期に、「元禄國繪圖」が内務省から東京大学法学部に移管されたことの証拠となる目録が架藏されているが、関東大震災による火災で焼失したとの情報も有り、真偽の程は定かでない。
 これらの資料を活用した「日本國中之惣繪圖」の編集は、1701(元禄14)年7月頃に開始され、1702(元禄15)年12月に、「日本御繪圖」の三枚が完成した。また、方位資料の収集や、遠望術・交会法など新しい地圖製作技法を取り入れて、この「日本御繪圖」の改訂を意圖し、勘定奉行の大久保忠位の指揮のもとに、「日本國中之惣繪圖」の再編集は、1717(享保2)年7月に始まり、1728(享保13)年2月に、ようやく陽の目をみることになった。この事業の成果物が「享保日本圖」である。
 また、附録として、この「元禄國繪圖」作成の過程を明らかにして、繪圖と石高帳の関係性を明確化するために、「元禄郷帳」を公刊する予定である。
(E)天保國繪圖(本集成13巻及び14巻に収録)…「元禄國繪圖・郷帳」の成立から約130年後の1831(天保2)年12月、徳川幕府は郷帳の改訂作業に着手し、1834(天保5)年12月に、その作業を完了している。國繪圖の改訂は1835(天保6)年に始まり、1834(天保5)年12月に終了している。今回の事業がかつての寛永、正保、元禄期と異なるのは、始めに郷帳、ついで國繪圖の製作が行われていることと、諸國からの資料の献上を要請するのではなく、幕府の勘定方が一括して実行しているところにある。また、郷帳の改訂においては、表高ではなく、実際の生産高の記載が厳しく要求されたことである。これは幕末期になって、幕府財政の逼迫に際して、生産力の正確な把握による國家の経済的基礎の確立が焦眉の課題となっていたことにあるのであろう。そして、ヨーロッパからの文化・學問の導入、地圖製作技術の飛躍的な進歩などとも相まって、あらゆる意味において卓越した天保國繪圖(全83舗)が作成されたと思われる。この「天保國繪圖」の原資料の全ては、現在、國立公文書館において所藏されている。
 前述のように、元禄時代以前の「國繪圖・郷帳」改訂作業は、前者に重点がおかれていたが、天保時代にあっては、全國の生産量を把握し、藩や幕府の財政基盤の確立を主眼としたために、郷帳の改訂に多くの労力や費用が投下されたのであろう。このような趣旨から、國繪圖調製と、生産力調査としての郷帳作成を統一的に理解するために、五十音順索引を附した「天保郷帳」(全85冊)を公刊した次第である。
 この稿がなるにあたっては、国絵図研究会編『国絵図の世界』(2005年7月30日刊行、柏書房)、及び、川村博忠『江戸幕府撰国絵図の研究』(昭和59年2月28日刊行、古今書院)から多くの引用をさせていただいた。川村博忠先生(山口大学名誉教授)を始め、関係者各位に謝意を表する次第である。

2013年3月20日
  編者識
 


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本地図集成(第II期)の特色

(1)江戸時代の政治・経済・文化・地誌・學問を研究するための基本資料集成----基本資料としての江戸時代に製作された地圖群を網羅して集大成。さらに、世界圖や日本圖も整理・分類して、あらゆる研究に活用できる内容構成とした。

(2)丁寧でかつ精密な編纂方式を採用し、フル・カラー版で複製----原圖の内容水準を確保し、閲覧と研究を容易にするために、A2版のフル・カラーで複製。日本全國を國別に分類・整理して、地方史研究にも対応できるものとした。フル・カラーのために、地圖上の詳細な情報を容易にかつ正確に把握が可能。

(3)さまざまな分野で活用できる基本的な資料集成----地圖學のみならず、日本史學、日本文學、民俗學、民族學、地理學、経済學、政治學、土木工學、河川工學、建築史學、環境學、気象學などのあらゆる學問分野で活用が可能。

(4)日本及び世界の地圖製作の歴史が俯瞰できる充実した内容と構成----繪圖・地圖に含まれている豊富な情報量を解析し、その理解を容易にするために、レヴェルの高い書誌情報と、緻密な構成の解説を掲載。これにより、天正年間以降に作成された地圖群の詳細な内容(年記、圖幅名称、編者等、発行者、寸法、形式、所蔵機関請求記号、備考など)と、その発展の歴史が一覧できる。収録する資料は、日本(國立國会圖書館、國立公文書館、都道府県区立圖書館、博物館、大學圖書館など)、海外(米國議会圖書館、フランス國立圖書館、大英圖書館、UCLAルドルフ・コレクション、ブリティッシュ・コロンビア大學ビーンズ・コレクションなど)の地圖群を網羅・整理。

(5)斬新でかつ独創的な編集方針----関東地方の江戸時代以降の発展の歴史を三大水系(荒川水系、多摩川水系、利根川水系)を基軸にして分類し、さらに解析するなどの独創的な手法を採用し、既存の學問方法をさらに発展させた編集方式を提示。

おすすめしたい方々

大學・公共圖書館、博物館、文書館、大學研究室(日本史學、日本文學、経済學、政治學、民俗學、民族學、地理學、地圖學、土木工學、河川工學、建築史學、環境學、気象學など)、地圖愛好家

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