商品コード: ISBN4-7603-0313-8 C3321 \50000E

近世植物・動物・鉱物図譜集成 第2巻 本草通串(2)・本草通串証図

販売価格:
50,000円    (税込:55,000円)
第2巻〈2006年/平成18年2月刊行〉
前田 利保『本草通串(2)』『本草通串証図』

             解 題
(一)前田利保の生涯
 編者の前田利保は、一八○○(寛政十二)年二月二十八日に、越中富山藩の江戸藩邸において生をうけ、一八五九(安政六)年八月十八日に、富山で没している。享年六十歳。父は越中富山藩八代藩主の前田利謙で、初名を啓太郎と称した。淡路守、従四位下出雲守を名乗り、一八三五(天保六)年から一八四六(弘化三)年まで越中富山藩十代藩主の座にあった。字は伯衡。万香亭、自知春館、恋花亭、弁物舎と号した。

 ここで、この資料についての理解を容易にするために、幕末期の偉大な博物学者の前田利保の簡単な略歴に触れてみよう。この年表の作成にあたっては、上野益三『日本博物学史・補訂』(一九八六年、平凡社)、磯野直秀『日本博物誌年表』(二○○二年、平凡社)を参照させて頂いた。記して、謝意を表する次第である。

*一八○○(寛政十二)年二月二十八日
越中富山藩の江戸藩邸において出生
*一八三五(天保六)年
越中富山藩の第十代藩主に就任
*一八三六(天保七)年六月
武藏石壽編『甲介群分品彙』(二巻)の序文を執筆
*一八三六(天保七)年九月二十五日
植物・動物・鉱物を含む物品の鑑定・研究のための組織である赭鞭会の会則「赭鞭会業規則」を撰する。この会の運営の目的は、民間の人々の生活やさまざまな活動を援助することにあることを明記
*一八三七(天保八)年五月一日
宇田川榕庵を召しだし、ホッタイン『博物誌』の講義を命ずる
*一八三七(天保八)年五月十二日
江戸で赭鞭会を催す。各参加者は会主宅に物品数点を持ち寄って集まり、その名称・性質・由来・形態などについて、互いの意見を交換したり鑑定したりした。最終的には、圖入りの記録などを残して、後学の士が再度研究できるように配慮した。この年は計八回の会合記録が残されている。前田利保は出席していない
*一八三七(天保八)年
呉継志『質問本草』の序を記す
*一八三八(天保九)年閏四月二十一日
前田利保が会主となり、動物全般(鳥獣、虫、魚、甲介)を主題として、江戸において、赭鞭会を開く。この年は。五月二十五日、六月二十六日、十月十日にも催された
*一八三八(天保九)年五月二十五日
淺香直光(青洲)が会主となり、升麻に属する植物を主題として、江戸において、赭鞭会を開く。参集者は、佐橋兵三郎(四季園)、田丸六藏(寒泉)、飯室庄左衛門(樂圃)、淺香直光(青洲)。前田利保は参加していない
*一八三八(天保九)年六月二十六日
前田利保が会主となり、秦皮(トネリコ)を主題として、江戸において、赭鞭会を開く。出席者は、前田利保の他に、佐橋兵三郎(四季園)、武藏石壽(石壽)、田丸六藏(寒泉)、飯室庄左衛門(樂圃)、淺香直光(青洲)、大坂屋四郎兵衛(清雅)、馬場大助(資生)、東溟(号のみで、正式な氏名は不詳)
*一八三八(天保九)年十月十日
前田利保が会主となり、アリジゴクと細長い八足を持つ動物を主題として、江戸において、赭鞭会を開く。出席者は、前田利保の他に、佐橋兵三郎(四季園)、武藏石壽(石壽)、田丸六藏(寒泉)、大坂屋四郎兵衛(清雅)、馬場大助(資生)、東溟(号のみで、正式な氏名は不詳)
*一八三九(天保十)年五月八日
『棣棠圖説』の奥書を記す
*一八四○(天保十一)年九月二十六日
前田利保が会主となり、植物のホトトギスと甲虫類を主題として、江戸において、赭鞭会を開く。出席者は、前田利保の他に、佐橋兵三郎(四季園)、武藏石壽(石壽)、飯室庄左衛門(樂圃)、大坂屋四郎兵衛(清雅)、馬場大助(資生)、雲停(関根雲停)
*一八四一(天保十二)年十二月二十八日
魚類を、形態的な観察を基にして三段階に分類した『水畜綱目』の自序を記すが、この資料は、結局、未定稿に終わる
*一八四四(弘化一)年七月二十四日
赭鞭会が開かれ、江馬活堂も出席。他に、武藏石壽(石壽)、田丸六藏(寒泉)、馬場大助(資生)、雲停(関根雲停)も参集する。この日を越して以降の赭鞭会の記録は知られていない
*一八四四(弘化一)年
『十新考』(三篇)を上梓
*一八四五(弘化二)年七月
武藏石壽『目八譜』(十五巻)の序文を執筆
*一八四六(弘化三)年十月十八日
隠居願を幕府に提出し、十月二十日に許可される
*一八四六(弘化三)年
越中富山藩の第十代藩主の座を去る。息子の前田利友が家督を相続して、越中富山藩の第十一代藩主に就任
*一八四七(弘化四)年十一月五日
池上本門寺で植物採集を家臣に命じ、十一月九日、『池上採薬記』を作成。また、この月には、『川口採薬記』も作る。この月から翌年にかけて、八回、江戸の周辺部で採薬を実行する
*一八四八(嘉永一)年二月五日
渋谷・広尾で植物採集。続いて、三月十一日には池袋・上新田で、三月二十八日には駒込傳中・豊島で、四月七日には西新井で、四月十二日には野火留の平林寺で、四月二十八日には武藏國田無村で、それぞれ植物採集。これらの採集活動の成果を基にして、採集品の圖譜を製作し、『信筆鳩識』に収録した
*一八四八(嘉永一)年八月十二日
江戸を出立し、八月二十五日、富山に到着。以後、没するまでこの地に滞在し、博物学の研究を続ける
*一八四八(嘉永一)年
『本草通串』(九十四巻五十六冊、草類八十八種類について詳述)の最初の部分が完成。一八四四(弘化一)年の『十新考』(三篇)の刊行以来、この年の末までに、『信筆鳩識』と称する総合表題の著作物を、十四冊作成する。『十新考』(三篇)の他に、江戸周辺の採薬記八冊(『池上採薬記』『川口採薬記』など)、『本草啓発』(嘉永一)、『分節花譜』(嘉永一)、『消日録』(嘉永一)である。
*一八五二(嘉永五)年一月二十三日
草木品評会である、日新会を富山において開催
*一八五三(嘉永六)年三月二十二日
富山と飛騨の國境近くにそびえ立つ西白木峰(金剛堂山)に登る。従者十五名
*一八五三(嘉永六)年
圖譜の欠落している『本草通串』(九十四巻五十六冊、草類八十八種類について詳述)を補うために、『本草通串證圖』(五巻五冊)を刊行。富山藩の繪師を動員して描いた圖譜で、木版の色刷。御箇山で製造された美濃紙を使用した豪華圖譜。『本草圖譜』「山草部上」の前半部に掲載されている十七品を取り上げていて、圖の数は合計一八○個。資金難のためか、もしくは、大作のためか、以後は刊行されていない。
*一八五九(安政六)年八月十八日
富山において逝去

(二)『本草通串』と『本草通串證圖』の書誌学的考察
 『本草通串』と『本草通串證圖』は、『國書総目録』などを閲すると、日本國内においては、以下の圖書館において所藏が確認されている。ただ、編者は全て閲覧する機会を得なかったので、内容の不備に関しては、ご容赦を願いたい。なお。インターネットなどを活用して、再調査を行い、『國書総目録』に記載されていても、データが検出されない場合は割愛した。この資料の影印版は、一九三七(昭和十二)年から一九三八(昭和十三)年にかけて、日本古典全集刊行委員会から、『本草通串・同證圖』の表題で刊行されている。この製作にあたっては、静嘉堂文庫所藏の写本を利用しているので、留意されたい。この資料は原本に相当しないので、調査のうえで、内容の紹介を割愛した。
(イ)財団法人東洋文庫(岩崎文庫)
*『本草通串』(九十四巻五十六冊)
*『本草通串證圖』(五巻五冊)
                      合計 九十九巻 六十一册 配架番号[三-J-a-ろ-三九]
(ロ)富山県立圖書館
*『本草通串』(九十四巻五十六冊) 配架番号[T四九九・四九・四・一 ~T四九九・四九・四・五六]
*『本草通串證圖』(五巻五冊)   配架番号[T四九九・四九・五・一 ~T四九九・四九・五・五]
                      合計 九十九巻 六十一册
(ハ)杏雨書屋
*『本草通串』(九十四巻五帙五十六冊、刊本)   配架番号[研一四七一]
*『本草通串』(九十四巻六帙五十六冊)      配架番号[貴四八五]
*『本草通串』(第十巻~第二十六巻、二帙二十冊) 配架番号[杏六三七○]
*『本草通串』(第八十六巻、一帙一冊)      配架番号[中三八]
*『本草通串』(九十四巻六帙五十六冊、第二巻~第十五巻は刊本で、それら以外は全て写本)                             配架番号[貴四八四]
*『本草通串證圖』(第一巻、一帙一冊、関根雲亭等 写真、刊本)
                         配架番号[貴四八八] 
*『本草通串證圖』(五巻一函五冊、写本)     配架番号[杏三二六一]
*『本草通串證圖』(五巻一帙五冊、沙丘圖画本)  配架番号[杏一五九七]
*『本草通串證圖』(五巻一帙五冊、関根雲亭等 写真、写本)
                         配架番号[貴四八六] 
*『本草通串證圖』(一巻一帙二冊、関根雲亭等 写真、写本)
                         配架番号[貴四八七] 
*『本草通串證圖』(三巻一帙一冊、山本錫夫 批注、岩瀬文庫本の写本)
                         配架番号[杏六三七一]
(ニ)國立國会圖書館
*『本草通串』(第四巻、一冊、白井文庫)     配架番号[特一・三一四]
(ホ)國立公文書館
*『本草通串證圖』(二巻二冊)          配架番号[一九六・一三三]
(ヘ)東京國立博物館
*『本草通串』(第一巻~第二巻・第五巻~第八巻、六冊) 
                         配架番号[和一七一、和一七二、和三一六八]
*『本草通串證圖』(一冊)            配架番号[和一四三]
(ト)西尾市岩瀬文庫
*『本草通串』(五十六冊)            配架番号[和三四・四九]
(チ)静嘉堂文庫美術館
*『本草通串』(写本)
*『本草通串證圖』(写本)
(リ)九州大学医学分館
*『本草通串證圖』(第一巻~第五巻、五冊)  配架番号[貴古 和漢古医書/ホ-80]
(ヌ)東北大学狩野文庫
*『本草通串』(九十四巻五十六冊)       配架番号[二一六○八・五六]
(ル)京都府立植物園大森文庫
*『本草通串』(五十六冊)
*『本草通串證圖』(一冊、異本)
(ヲ)市立高岡圖書館
*『本草通串』(第一巻~第三巻、三冊)
*『本草通串證圖』(第一巻、一冊)
(三)『本草通串』と『本草通串證圖』の内容的考察
 私見を交えて語るならば、前田利保が編纂する書籍には不完全な著作が多く、解読するに際しては、著者や著作物の事典なくしては、とうてい理解しえない。これは、編者の性格に帰すだけでは、あまりにも欠落する部分が多い。それよりも、膨大な資金と優秀な労働力を必要とするために、そのための組織作りと内容構成の充実化に、大きな欠落があり、このような結果が引き起こされたのであろう。これらの資料の完全版の刊行も、資金難のために、途中で挫折している。
 『本草通串』において、中國と日本の主要な本草、医療、薬物、言語、植物、動物、鉱物、文芸などの文献から、主要な記事を摘出して、整理・統合する手法は、正統的な学問の方法と言えよう。このように膨大な分量の資料からのエッセンスの抽出、分類、統合、解析には、多額の費用、豊富な時間、選別された多量の資料群が必要であることは、言うまでもない。ともあれ、この八十八種類の草木に関係する詳細なデータを、研究に活用する方向を見いだすことが、科学者にとって、これからの大きな課題になるであろう。この資料が、植物の形態、由来、活用方法などを体系的に研究するための素材として非常に充実していることは、疑いを挟む余地がない。
『本草通串證圖』は、『本草通串』の圖録編として製作されるはずであったが、前述のように、十七品、一八○圖の繪と解説を作成したにとどまった。内容を推察すると、記述は簡単で誰にも読めるように平易に記述されていて、繪も美麗でかつ丁寧に描かれている。普及版として、一般の人々にあまねく普及することを意圖して発行されたのであろうか?ただ、解説を丁寧に読んでみると、『本草通串』の記事を統合して解析した内容であるとは断定できない側面もある。これらの点に関しては、後世の研究者の手に委ねたい。そして、これらの疑問点を解決するためには、今日までに築き上げられてきた、日本経済学史、本草学、植物学、動物学、鉱物学、薬物学などの総合的な知見を基礎にすえて、再度、分析しなければならないであろう。
(三)これからの博物学の研究方向と江戸時代の資源開発に関する論攷
 フランスの哲学者のルネ・デカルトの『方法叙説』(野田又夫訳)によれば、事象の解析方法について、以下のような規則を提起している。

①真理のみを受け入れるために、注意深く、速断と偏見を避けること。言い換えれば、真理を究めるために、主題を常にうち立てて、明晰な状態に保存しておくこと。
②主題を、分析可能なように、必要なだけの最小部分に分割しておくこと。摘出されたデータの階層化、もしくは情報の整理と分類を適切に実行すること。
③思想を、順序通りに、最も単純で認識しやすい段階から始めて、少しずつ階段を踏んでいって、複雑かつ高次な認識に到達すること。つまり、考え方の規則的な整列を意圖することが肝要である。データの統合に相当する。
④最後に、完全な枚挙、点検、全体に渡る通覧を実行すること。

 これらの規則にならえば、『本草通串』は、はたして、どのレヴェルにまで到達しているのであろうか?前述のように、資料の収集・摘出までは完成しているとしても、分類・整理・統合の段階まで到達しているとは断定しがたい。しかし、これだけの内容のある情報量が、多量に、かつ、規則的に整理されて含まれていることを考えると、これからの研究の展開によっては、底知れぬエッセンスを含む、新たな一級の作品として完成される可能性を十分に秘めていると言えよう。
 編者は、これらの作品の成立を、江戸時代の歴史を通観する中で、歴史書として、言い換えるならば、徳川幕府の成立時から開始された資源開発政策と関連させて把握する資料として解析することに、一つの関心を抱いている。これらの資料が、植物学や博物学の発展の過程で生み出された創作物としてのみ把握することは、あまりにも抜け落ちる部分が多い。植物の形態や生理現象は、どの國にあっても、いずれの時代においても、不変である。中國と日本にそれぞれ自生する植物の形態や生態の比較研究などは、全く意味がなく、発展性をみいだすことなど不可能でしかない。編者によれば、視座を変えて、これらに博物学書の成立に至る過程を、江戸時代の資源開発の観点から分析することが、多くの価値をもたらし、さまざまなな諸學の研究に寄与するところが多いのではないかと推測する次第である。ただ、この見解は私論でありかつ試論であるので、読者諸氏の叱正を請う次第である。江戸時代の資源開発に関連する事項は、以下のように整理できる。

*一六○三(慶長八)年二月十二日
朝廷、徳川家康を征夷大将軍に任命する
*一六○五(慶長十)年
幕府、諸大名に國繪圖・郷帳(石高帳)の作成を命じる【第一回目の國繪圖作成事業・第一回目の郷帳(石高帳)作成事業】
*一六三三(寛永十)年
幕府、巡検使を諸國へ派遣。この年から一六三六(寛永十三)年にかけて、諸國の國繪圖が幕府に提出される【第二回目の國繪圖作成事業】
*一六三八(寛永十五)年五月
幕府、「日本國中之惣繪圖」作成のために、改めて、國繪圖の提出を要請
*一六三九(寛永十六)年八月五日
幕府、ポルトガル人の来航禁止を伝え、ここに、鎖國が完成する
*一六四四(正保一)年十二月二十五日
幕府、諸大名に國繪圖・城繪圖・郷帳(石高帳)の調進を命じる。五~六年後の慶安一年までに、全て提出されたと推測される【第三回目の國繪圖作成事業・第二回目の郷帳(石高帳)作成事業】
*一六九六(元禄九)年十一月二十三日
幕府、三奉行と大目付に対し、國繪圖の改訂を命令する。この元禄年代に、郷帳(石高帳)の作成を、諸大名に命じる【第四回目の國繪圖作成事業・第三回目の郷帳(石高帳)作成事業】
*一六九七(元禄十)年閏二月四日
幕府、諸大名の江戸留守居を幕府評定所に召集し、國繪圖改訂事業の割り当てをを決定する
*一八三一(天保二)年十一月
幕府、諸大名に諸國石高調査のために、郷帳(石高帳)の作成を命じる【第四回目の郷帳(石高帳)作成事業】
*一七二○(享保五)年三月二十三日
幕府、丹羽正伯、野呂元丈に、伊豆・箱根・相模地方において、薬用植物の採集を命じる。これが、徳川吉宗治世下における採薬使派遣の嚆矢で、以後、植村左平次なども派遣され、薬用植物研究のための基礎を形造り、人民の医療活動に役立てるために、さまざまな種類の「採薬記」「薬方書」が公刊された
*一七三四(享保十九)年三月二十一日
幕府、『庶物類纂』の未完成部分の編集のために、「丹羽正伯が主導して、全國の産物調査を実行する」旨を通達
*一七三五(享保二十)年閏三月
四月にかけて、各藩の江戸留守居役が、個別に丹羽正伯に呼ばれて、領内の産物調査のための、具体的な指示を受ける。これらの調査の成果としての報告書に相当する産物帳の提出は、一七三八(元文三)年頃までに完了している
*一八三四(天保五)年十二月
全國の郷帳(石高帳)の改訂が終了し、幕府に八十五冊の資料が提出される
*一八三五(天保六)年十二月二十二日
幕府、諸大名に國繪圖の調進を命じる【第五回目の國繪圖作成事業】
*一八三八(天保九)年十二月
全國の國繪圖の改訂作業が終了し。八十三舗の資料が幕府に提出される

 ここに述べられている、「諸國産物帳」「採薬記」「國繪圖「郷帳(石高帳)」の製作は、全て幕府の一連の資源開発政策の中で産み出されたものである。この過程の中途で、「本草通串」などのような優れた博物学書の製作が結実されたと言えなくもない。論攷を終えるにあたって、これらの資料群の収集・整理・分類・統合・解析が非常に重要な意味を持ち、その行為こそが、江戸時代の全体像を把握するための一助となることを、秘かに期待する次第である。そのためには、デカルトの方法意識が十分な意味を持つことを期待して、この論攷を終える次第である。

 二○○六年一月

                                         編者識
  • 数量:

本集成の特色と活用法

(1)江戸時代の政治・経済・文化・学問などを把握するための基本的資料集…動物・植物・鉱物・作物のその土地の呼び名、形態、生態等を記述。美しいカラーの彩色図も掲載。

(2)総合科学としての博物学・本草学の歴史を辿ることのできる書物…現在流布されている動物・植物・鉱物図鑑の基本となった図譜集成。総合科学であるため、自然科学、社会科学、人文科学のあらゆる分野で活用できる。また、彩色図は美しくかつ正確なために、現在でも利用が可能。

(3)完璧な事項索引…動物・植物・鉱物の和名・漢名・生薬名をすべて拾いだし、読みがなをふす。

(4)充実した解説と解読文…資料の成立、由未、内容、学問的価値などを詳述し、難解な文書には、解読文を併載。初心者にも利用しやすいものとした。

(5)人文科学(日本文学、日本史学、民俗学、文化史学、考古学、言語学)、自然科学(博物学、鉱物学、生薬学、植物学、園芸学、農学、林学、動物学、農林生物学、科学史学)、社会科学(日本政治学、日本経済学)の参考資料…現在入手困難な文献を集大成。

解 題

(一)前田利保の生涯

 編者の前田利保は、一八○○(寛政十二)年二月二十八日に、越中富山藩の江戸藩邸において生をうけ、一八五九(安政六)年八月十八日に、富山で没している。享年六十歳。父は越中富山藩八代藩主の前田利謙で、初名を啓太郎と称した。淡路守、従四位下出雲守を名乗り、一八三五(天保六)年から一八四六(弘化三)年まで越中富山藩十代藩主の座にあった。字は伯衡。万香亭、自知春館、恋花亭、弁物舎と号した。

 ここで、この資料についての理解を容易にするために、幕末期の偉大な博物学者の前田利保の簡単な略歴に触れてみよう。この年表の作成にあたっては、上野益三『日本博物学史・補訂』(一九八六年、平凡社)、磯野直秀『日本博物誌年表』(二○○二年、平凡社)を参照させて頂いた。記して、謝意を表する次第である。

*一八○○(寛政十二)年二月二十八日
越中富山藩の江戸藩邸において出生
*一八三五(天保六)年
越中富山藩の第十代藩主に就任
*一八三六(天保七)年六月
武藏石壽編『甲介群分品彙』(二巻)の序文を執筆
*一八三六(天保七)年九月二十五日
植物・動物・鉱物を含む物品の鑑定・研究のための組織である赭鞭会の会則「赭鞭会業規則」を撰する。この会の運営の目的は、民間の人々の生活やさまざまな活動を援助することにあることを明記
*一八三七(天保八)年五月一日
宇田川榕庵を召しだし、ホッタイン『博物誌』の講義を命ずる
*一八三七(天保八)年五月十二日
江戸で赭鞭会を催す。各参加者は会主宅に物品数点を持ち寄って集まり、その名称・性質・由来・形態などについて、互いの意見を交換したり鑑定したりした。最終的には、圖入りの記録などを残して、後学の士が再度研究できるように配慮した。この年は計八回の会合記録が残されている。前田利保は出席していない
*一八三七(天保八)年
呉継志『質問本草』の序を記す
*一八三八(天保九)年閏四月二十一日
前田利保が会主となり、動物全般(鳥獣、虫、魚、甲介)を主題として、江戸において、赭鞭会を開く。この年は。五月二十五日、六月二十六日、十月十日にも催された
*一八三八(天保九)年五月二十五日
淺香直光(青洲)が会主となり、升麻に属する植物を主題として、江戸において、赭鞭会を開く。参集者は、佐橋兵三郎(四季園)、田丸六藏(寒泉)、飯室庄左衛門(樂圃)、淺香直光(青洲)。前田利保は参加していない
*一八三八(天保九)年六月二十六日
前田利保が会主となり、秦皮(トネリコ)を主題として、江戸において、赭鞭会を開く。出席者は、前田利保の他に、佐橋兵三郎(四季園)、武藏石壽(石壽)、田丸六藏(寒泉)、飯室庄左衛門(樂圃)、淺香直光(青洲)、大坂屋四郎兵衛(清雅)、馬場大助(資生)、東溟(号のみで、正式な氏名は不詳)
*一八三八(天保九)年十月十日
前田利保が会主となり、アリジゴクと細長い八足を持つ動物を主題として、江戸において、赭鞭会を開く。出席者は、前田利保の他に、佐橋兵三郎(四季園)、武藏石壽(石壽)、田丸六藏(寒泉)、大坂屋四郎兵衛(清雅)、馬場大助(資生)、東溟(号のみで、正式な氏名は不詳)
*一八三九(天保十)年五月八日
『棣棠圖説』の奥書を記す
*一八四○(天保十一)年九月二十六日
前田利保が会主となり、植物のホトトギスと甲虫類を主題として、江戸において、赭鞭会を開く。出席者は、前田利保の他に、佐橋兵三郎(四季園)、武藏石壽(石壽)、飯室庄左衛門(樂圃)、大坂屋四郎兵衛(清雅)、馬場大助(資生)、雲停(関根雲停)
*一八四一(天保十二)年十二月二十八日
魚類を、形態的な観察を基にして三段階に分類した『水畜綱目』の自序を記すが、この資料は、結局、未定稿に終わる
*一八四四(弘化一)年七月二十四日
赭鞭会が開かれ、江馬活堂も出席。他に、武藏石壽(石壽)、田丸六藏(寒泉)、馬場大助(資生)、雲停(関根雲停)も参集する。この日を越して以降の赭鞭会の記録は知られていない
*一八四四(弘化一)年
『十新考』(三篇)を上梓
*一八四五(弘化二)年七月
武藏石壽『目八譜』(十五巻)の序文を執筆
*一八四六(弘化三)年十月十八日
隠居願を幕府に提出し、十月二十日に許可される
*一八四六(弘化三)年
越中富山藩の第十代藩主の座を去る。息子の前田利友が家督を相続して、越中富山藩の第十一代藩主に就任
*一八四七(弘化四)年十一月五日
池上本門寺で植物採集を家臣に命じ、十一月九日、『池上採薬記』を作成。また、この月には、『川口採薬記』も作る。この月から翌年にかけて、八回、江戸の周辺部で採薬を実行する
*一八四八(嘉永一)年二月五日
渋谷・広尾で植物採集。続いて、三月十一日には池袋・上新田で、三月二十八日には駒込傳中・豊島で、四月七日には西新井で、四月十二日には野火留の平林寺で、四月二十八日には武藏國田無村で、それぞれ植物採集。これらの採集活動の成果を基にして、採集品の圖譜を製作し、『信筆鳩識』に収録した
*一八四八(嘉永一)年八月十二日
江戸を出立し、八月二十五日、富山に到着。以後、没するまでこの地に滞在し、博物学の研究を続ける
*一八四八(嘉永一)年
『本草通串』(九十四巻五十六冊、草類八十八種類について詳述)の最初の部分が完成。一八四四(弘化一)年の『十新考』(三篇)の刊行以来、この年の末までに、『信筆鳩識』と称する総合表題の著作物を、十四冊作成する。『十新考』(三篇)の他に、江戸周辺の採薬記八冊(『池上採薬記』『川口採薬記』など)、『本草啓発』(嘉永一)、『分節花譜』(嘉永一)、『消日録』(嘉永一)である。
*一八五二(嘉永五)年一月二十三日
草木品評会である、日新会を富山において開催
*一八五三(嘉永六)年三月二十二日
富山と飛騨の國境近くにそびえ立つ西白木峰(金剛堂山)に登る。従者十五名
*一八五三(嘉永六)年
圖譜の欠落している『本草通串』(九十四巻五十六冊、草類八十八種類について詳述)を補うために、『本草通串證圖』(五巻五冊)を刊行。富山藩の繪師を動員して描いた圖譜で、木版の色刷。御箇山で製造された美濃紙を使用した豪華圖譜。『本草圖譜』「山草部上」の前半部に掲載されている十七品を取り上げていて、圖の数は合計一八○個。資金難のためか、もしくは、大作のためか、以後は刊行されていない。
*一八五九(安政六)年八月十八日
富山において逝去

(二)『本草通串』と『本草通串證圖』の書誌学的考察
 『本草通串』と『本草通串證圖』は、『國書総目録』などを閲すると、日本國内においては、以下の圖書館において所藏が確認されている。ただ、編者は全て閲覧する機会を得なかったので、内容の不備に関しては、ご容赦を願いたい。なお。インターネットなどを活用して、再調査を行い、『國書総目録』に記載されていても、データが検出されない場合は割愛した。この資料の影印版は、一九三七(昭和十二)年から一九三八(昭和十三)年にかけて、日本古典全集刊行委員会から、『本草通串・同證圖』の表題で刊行されている。この製作にあたっては、静嘉堂文庫所藏の写本を利用しているので、留意されたい。この資料は原本に相当しないので、調査のうえで、内容の紹介を割愛した。
(イ)財団法人東洋文庫(岩崎文庫)
*『本草通串』(九十四巻五十六冊)
*『本草通串證圖』(五巻五冊)
                      合計 九十九巻 六十一册 配架番号[三-J-a-ろ-三九]
(ロ)富山県立圖書館
*『本草通串』(九十四巻五十六冊) 配架番号[T四九九・四九・四・一 ~T四九九・四九・四・五六]
*『本草通串證圖』(五巻五冊)   配架番号[T四九九・四九・五・一 ~T四九九・四九・五・五]
                      合計 九十九巻 六十一册
(ハ)杏雨書屋
*『本草通串』(九十四巻五帙五十六冊、刊本)   配架番号[研一四七一]
*『本草通串』(九十四巻六帙五十六冊)      配架番号[貴四八五]
*『本草通串』(第十巻~第二十六巻、二帙二十冊) 配架番号[杏六三七○]
*『本草通串』(第八十六巻、一帙一冊)      配架番号[中三八]
*『本草通串』(九十四巻六帙五十六冊、第二巻~第十五巻は刊本で、それら以外は全て写本)                             配架番号[貴四八四]
*『本草通串證圖』(第一巻、一帙一冊、関根雲亭等 写真、刊本)
                         配架番号[貴四八八] 
*『本草通串證圖』(五巻一函五冊、写本)     配架番号[杏三二六一]
*『本草通串證圖』(五巻一帙五冊、沙丘圖画本)  配架番号[杏一五九七]
*『本草通串證圖』(五巻一帙五冊、関根雲亭等 写真、写本)
                         配架番号[貴四八六] 
*『本草通串證圖』(一巻一帙二冊、関根雲亭等 写真、写本)
                         配架番号[貴四八七] 
*『本草通串證圖』(三巻一帙一冊、山本錫夫 批注、岩瀬文庫本の写本)
                         配架番号[杏六三七一]
(ニ)國立國会圖書館
*『本草通串』(第四巻、一冊、白井文庫)     配架番号[特一・三一四]
(ホ)國立公文書館
*『本草通串證圖』(二巻二冊)          配架番号[一九六・一三三]
(ヘ)東京國立博物館
*『本草通串』(第一巻~第二巻・第五巻~第八巻、六冊) 
                         配架番号[和一七一、和一七二、和三一六八]
*『本草通串證圖』(一冊)            配架番号[和一四三]
(ト)西尾市岩瀬文庫
*『本草通串』(五十六冊)            配架番号[和三四・四九]
(チ)静嘉堂文庫美術館
*『本草通串』(写本)
*『本草通串證圖』(写本)
(リ)九州大学医学分館
*『本草通串證圖』(第一巻~第五巻、五冊)  配架番号[貴古 和漢古医書/ホ-80]
(ヌ)東北大学狩野文庫
*『本草通串』(九十四巻五十六冊)       配架番号[二一六○八・五六]
(ル)京都府立植物園大森文庫
*『本草通串』(五十六冊)
*『本草通串證圖』(一冊、異本)
(ヲ)市立高岡圖書館
*『本草通串』(第一巻~第三巻、三冊)
*『本草通串證圖』(第一巻、一冊)
(三)『本草通串』と『本草通串證圖』の内容的考察
 私見を交えて語るならば、前田利保が編纂する書籍には不完全な著作が多く、解読するに際しては、著者や著作物の事典なくしては、とうてい理解しえない。これは、編者の性格に帰すだけでは、あまりにも欠落する部分が多い。それよりも、膨大な資金と優秀な労働力を必要とするために、そのための組織作りと内容構成の充実化に、大きな欠落があり、このような結果が引き起こされたのであろう。これらの資料の完全版の刊行も、資金難のために、途中で挫折している。
 『本草通串』において、中國と日本の主要な本草、医療、薬物、言語、植物、動物、鉱物、文芸などの文献から、主要な記事を摘出して、整理・統合する手法は、正統的な学問の方法と言えよう。このように膨大な分量の資料からのエッセンスの抽出、分類、統合、解析には、多額の費用、豊富な時間、選別された多量の資料群が必要であることは、言うまでもない。ともあれ、この八十八種類の草木に関係する詳細なデータを、研究に活用する方向を見いだすことが、科学者にとって、これからの大きな課題になるであろう。この資料が、植物の形態、由来、活用方法などを体系的に研究するための素材として非常に充実していることは、疑いを挟む余地がない。
『本草通串證圖』は、『本草通串』の圖録編として製作されるはずであったが、前述のように、十七品、一八○圖の繪と解説を作成したにとどまった。内容を推察すると、記述は簡単で誰にも読めるように平易に記述されていて、繪も美麗でかつ丁寧に描かれている。普及版として、一般の人々にあまねく普及することを意圖して発行されたのであろうか?ただ、解説を丁寧に読んでみると、『本草通串』の記事を統合して解析した内容であるとは断定できない側面もある。これらの点に関しては、後世の研究者の手に委ねたい。そして、これらの疑問点を解決するためには、今日までに築き上げられてきた、日本経済学史、本草学、植物学、動物学、鉱物学、薬物学などの総合的な知見を基礎にすえて、再度、分析しなければならないであろう。
(三)これからの博物学の研究方向と江戸時代の資源開発に関する論攷
 フランスの哲学者のルネ・デカルトの『方法叙説』(野田又夫訳)によれば、事象の解析方法について、以下のような規則を提起している。

①真理のみを受け入れるために、注意深く、速断と偏見を避けること。言い換えれば、真理を究めるために、主題を常にうち立てて、明晰な状態に保存しておくこと。
②主題を、分析可能なように、必要なだけの最小部分に分割しておくこと。摘出されたデータの階層化、もしくは情報の整理と分類を適切に実行すること。
③思想を、順序通りに、最も単純で認識しやすい段階から始めて、少しずつ階段を踏んでいって、複雑かつ高次な認識に到達すること。つまり、考え方の規則的な整列を意圖することが肝要である。データの統合に相当する。
④最後に、完全な枚挙、点検、全体に渡る通覧を実行すること。

 これらの規則にならえば、『本草通串』は、はたして、どのレヴェルにまで到達しているのであろうか?前述のように、資料の収集・摘出までは完成しているとしても、分類・整理・統合の段階まで到達しているとは断定しがたい。しかし、これだけの内容のある情報量が、多量に、かつ、規則的に整理されて含まれていることを考えると、これからの研究の展開によっては、底知れぬエッセンスを含む、新たな一級の作品として完成される可能性を十分に秘めていると言えよう。
 編者は、これらの作品の成立を、江戸時代の歴史を通観する中で、歴史書として、言い換えるならば、徳川幕府の成立時から開始された資源開発政策と関連させて把握する資料として解析することに、一つの関心を抱いている。これらの資料が、植物学や博物学の発展の過程で生み出された創作物としてのみ把握することは、あまりにも抜け落ちる部分が多い。植物の形態や生理現象は、どの國にあっても、いずれの時代においても、不変である。中國と日本にそれぞれ自生する植物の形態や生態の比較研究などは、全く意味がなく、発展性をみいだすことなど不可能でしかない。編者によれば、視座を変えて、これらに博物学書の成立に至る過程を、江戸時代の資源開発の観点から分析することが、多くの価値をもたらし、さまざまなな諸學の研究に寄与するところが多いのではないかと推測する次第である。ただ、この見解は私論でありかつ試論であるので、読者諸氏の叱正を請う次第である。江戸時代の資源開発に関連する事項は、以下のように整理できる。

*一六○三(慶長八)年二月十二日
朝廷、徳川家康を征夷大将軍に任命する
*一六○五(慶長十)年
幕府、諸大名に國繪圖・郷帳(石高帳)の作成を命じる【第一回目の國繪圖作成事業・第一回目の郷帳(石高帳)作成事業】
*一六三三(寛永十)年
幕府、巡検使を諸國へ派遣。この年から一六三六(寛永十三)年にかけて、諸國の國繪圖が幕府に提出される【第二回目の國繪圖作成事業】
*一六三八(寛永十五)年五月
幕府、「日本國中之惣繪圖」作成のために、改めて、國繪圖の提出を要請
*一六三九(寛永十六)年八月五日
幕府、ポルトガル人の来航禁止を伝え、ここに、鎖國が完成する
*一六四四(正保一)年十二月二十五日
幕府、諸大名に國繪圖・城繪圖・郷帳(石高帳)の調進を命じる。五~六年後の慶安一年までに、全て提出されたと推測される【第三回目の國繪圖作成事業・第二回目の郷帳(石高帳)作成事業】
*一六九六(元禄九)年十一月二十三日
幕府、三奉行と大目付に対し、國繪圖の改訂を命令する。この元禄年代に、郷帳(石高帳)の作成を、諸大名に命じる【第四回目の國繪圖作成事業・第三回目の郷帳(石高帳)作成事業】
*一六九七(元禄十)年閏二月四日
幕府、諸大名の江戸留守居を幕府評定所に召集し、國繪圖改訂事業の割り当てをを決定する
*一八三一(天保二)年十一月
幕府、諸大名に諸國石高調査のために、郷帳(石高帳)の作成を命じる【第四回目の郷帳(石高帳)作成事業】
*一七二○(享保五)年三月二十三日
幕府、丹羽正伯、野呂元丈に、伊豆・箱根・相模地方において、薬用植物の採集を命じる。これが、徳川吉宗治世下における採薬使派遣の嚆矢で、以後、植村左平次なども派遣され、薬用植物研究のための基礎を形造り、人民の医療活動に役立てるために、さまざまな種類の「採薬記」「薬方書」が公刊された
*一七三四(享保十九)年三月二十一日
幕府、『庶物類纂』の未完成部分の編集のために、「丹羽正伯が主導して、全國の産物調査を実行する」旨を通達
*一七三五(享保二十)年閏三月
四月にかけて、各藩の江戸留守居役が、個別に丹羽正伯に呼ばれて、領内の産物調査のための、具体的な指示を受ける。これらの調査の成果としての報告書に相当する産物帳の提出は、一七三八(元文三)年頃までに完了している
*一八三四(天保五)年十二月
全國の郷帳(石高帳)の改訂が終了し、幕府に八十五冊の資料が提出される
*一八三五(天保六)年十二月二十二日
幕府、諸大名に國繪圖の調進を命じる【第五回目の國繪圖作成事業】
*一八三八(天保九)年十二月
全國の國繪圖の改訂作業が終了し。八十三舗の資料が幕府に提出される

 ここに述べられている、「諸國産物帳」「採薬記」「國繪圖「郷帳(石高帳)」の製作は、全て幕府の一連の資源開発政策の中で産み出されたものである。この過程の中途で、「本草通串」などのような優れた博物学書の製作が結実されたと言えなくもない。論攷を終えるにあたって、これらの資料群の収集・整理・分類・統合・解析が非常に重要な意味を持ち、その行為こそが、江戸時代の全体像を把握するための一助となることを、秘かに期待する次第である。そのためには、デカルトの方法意識が十分な意味を持つことを期待して、この論攷を終える次第である。

おすすめしたいかたがた

大学・高校・公立図書館 大学研究室(科学史学、日本史学、日本文学、民俗学、文化史学、考古学、言語学、

この商品に対するお客様の声

この商品に対するご感想をぜひお寄せください。