本地図集成(第I期)の特色
(1)江戸時代の政治・経済・文化・地誌・学問を研究するための基本資料集成----基本資料としての江戸時代の地図群を網羅して集大成。
(2)丁寧でかつ精密な編纂方式を採用----原図の内容水準を確保し、閲覧と研究を容易にするために、A2版及びA1版の黒白版で複製。日本全国を十二地域に分割し、地方史研究にも対応できるものとした。
(3)さまざまな分野で活用できる資料集成---地図学のみならず、歴史学、文学などの分野でも活用可能。
(4)内容の理解を容易にするために、附録として、『近世絵図地図資料に関する書誌的データ一覧』(仮題)を作成。これにより、天正年間以降に作成された地図群の詳細な内容が俯瞰できる。
目 次
02[大坂古圖](石山古城圖)
03[日本輿地圖]第44舗、大坂内町圖(慶長年間)
04[日本輿地圖]第40舗、[攝州]大坂旧地圖(慶長十七年)
05[日本輿地圖]第39舗、攝州大坂畫圖(野村長兵衛刊)
06[日本輿地圖]第43舗、大坂分町地圖(慶長十七年)
07[大坂古圖](大坂五戰之圖一至五)
08大坂地圖(日本與地圖ノ内)
09大坂地圖(日本與地圖ノ内)
10[日本輿地圖]第37舗、[官上近世]大坂地圖
11[日本輿地圖]第38舗、[中舊]大坂三郷地圖(寛文・延寶間)
12新板大坂之図(額)大坂絵図
13延宝九年大阪繪圖
14[日本輿地圖]第42舗、近旧大坂地圖(天和三年)
15増補大坂図
16攝津大坂圖鑑綱目大成
17攝津大坂圖鑑綱目大成
18攝津大坂圖鑑綱目大成
19[日本輿地圖]第36舗、[官上]大坂地圖
20増補大坂図
21改正摂津大坂図
22摂津大坂図
23改正摂津大坂之図
24改正摂津大坂之図
25大坂町図
26大坂図
27大坂絵図
28化新板摂津大坂全図
29攝州大坂畫圖(攝州大坂大繪圖)
30改正摂津大坂図
31慶應改正大阪細見全圖、完
32攝津大坂圖鑑綱目大成
33安治川口囘船目印山地所細見圖
34[日本輿地圖]第47舗、[攝州泉州]堺両庄地圖(寶永元年)
35堺大絵図改正綱目
36寛政拾年堺絵図(簽)
37[日本輿地圖]第54舗、攝泉堺戎嶋地圖
38(摂津和泉播磨)国海岸附近村々麁絵図
39摂海一覧
40[日本輿地圖]第35舗、攝津國地圖
41攝津國名所大繪圖
42[大坂古圖](浪速古圖一至五)
43浪華上古圖、全
44難波上古之図(簽)
45[浪花之古圖](難波上古圖・浪華三津之浦・浪華圖・浪華三津之浦圖・浪華圖)
46浪速上古圖
47浪華古図第1-10(簽)[01]
48浪華古図第1-10(簽)古図(従仁徳帝至安閑帝)(額)[02]
49浪華古図第1-10(簽)村上帝至花山帝[03]
51浪華古図第1-10(簽)浪花古図後考[05]
52浪華往古図
53浪華往古図(額・簽)
54浪華古図第1-10(簽)題目不明[06]
55堀河院御宇浪速古圖、56[攝津三津浦圖]
57堀河院天皇御宇承徳二年難波津圖
58[承徳二年浪花之圖]
59浪華古図第1-10(簽)浪華荒川盛子徳年写[07]
60後小松院天皇御宇應永二年難波津圖
61応永難波古図(額・簽)
62[應永廿四年浪花之圖]
63浪華古図第1-10(簽)題目不明[08]
64大阪古図(簽)
65[日本輿地圖]第48舗、[攝津國嶋下郡]茨木之地圖(享保十八年)
66[日本輿地圖]第53舗、攝州榎並河州八箇両荘之地圖
67摂河州水損村々改正絵図(簽)
68大阪両川口并最寄海岸諸家固場所絵図(簽)
69大阪新田明細図
70榎並八郷悪水抜新井路筋並川筋御普請諸絵図
71南堀江弐丁目町図
72[日本輿地圖]第51舗、[攝津國東生郡]天王寺管内地圖
73[日本輿地圖]第45舗、攝州住吉東生西成三郡地圖
74[日本輿地圖]第50舗、[攝津國住吉郡杭全郷内]平野郷町地圖
75[日本輿地圖]第49舗、[攝津國川辺郡]伊丹地圖
76[日本輿地圖]第52舗、[攝津國武庫郡戸田庄]西宮町地圖
77[日本輿地圖]第46舗、[攝津國矢田部郡]福原荘兵庫地圖
78[日本輿地圖]第55舗、攝津州有馬郡湯山圖(元文二年刊)
79[日本輿地圖]第59舗、河内國旧地圖、80河内国絵図(簽)
81[日本輿地圖]第58舗、河内國地圖
82[日本輿地圖]第57舗、[官上]河内國地圖
83大坂地圖(日本與地圖ノ内)
84増補改正河内細見圖
85河内細見図(額)増補改正河内細見図(簽)
86増補改正河内国細見図(額)河内国大絵図(簽)
87河内國細見小圖
88河内國之圖
89[日本輿地圖]第61舗、[河州石川郡]金剛山千早圖
90[日本輿地圖]第60舗、河州錦部郡地圖
91和泉国之図
92大坂地圖(日本與地圖ノ内)
93改正和泉國大繪圖
94[日本輿地圖]第65舗、和泉國地圖
95[日本輿地圖]第63舗、和泉國地圖
○附録『大坂・堺・攝津・河内・和泉図に関する書誌的データ一覧』
解説
1、都市地図の特長
この地図集は、近世の摂津・河内・和泉を中心とした地域の地図・絵図から構成されている。さらには大和や播磨といった周辺諸国の一部も含んでいるものである。しかし、基本的には現在の大阪府・大阪市を中心としている地図集である、と思ってもらってさしつかえない。
従来の近世大坂図では、幕末頃の絵図がよく知られているが、この地図集には「写」ではあるが、「石山古城図」を収録している。これは、織田信長が全国統一事業を進めていく際の、最大の抵抗勢力であった石山本願寺攻めの模様を描いた絵図である。
長島一向一揆・越前一向一揆では信長は長年苦しめられた。そのため越前一向一揆を平定した後、信長は門徒衆三万人から四万人を殺した、といわれている。一向宗とは親鸞を祖とする浄土真宗のことである。
石山本願寺は、現在の大阪城の下にあった。信長は石山本願寺の一揆勢とは一一年間にわたって戦いを続けた。一揆の門徒衆は死をも恐れないという、頑強な抵抗勢力であった。だが、一五八○(天正八)年に信長と石山方は和議を結び、石山本願寺は紀伊へと移った。「石山古城図.」は、この時の一揆勢と、攻める信長方の諸大名の陣の配置を表したものである。
この「石山古城図」をはじめ、大坂冬の陣(一六一四年)、大坂夏の陣(一六一五年)の図を「大坂五戦之図」として収録したが、これらの絵図は、諸大名の軍勢の配置を知るだけではなく、近世初頭の大坂の地形を知りうる地形図といってもよい性格の絵図である。
大坂に限ったことではないが、近世の地図・絵図は、同時代に作られたのにもかかわらず、寺社や、街並み、の表記に大変な違いがある者が散見される。当然記されているはずの寺社名が略されていたり、池や沼、河川の名称はほとんど記されていないものなどがある。
それとは反対に、「細見図」は大変に詳しく表記がなされており、今日の街並みと比較するのにも、大変に便利である。こうした細見図が一枚あると、今日でも街歩きが可能なのである。
しかし、同時に便利さという点は危険とも背中合わせの関係にある。
近世の大坂にしろ江戸の街にしても、基本的な枠組みは現在でもほとんど変わっていない。変わったのは、堀り割りが埋めたてられて高速道路が走ったり、木造住宅が鉄筋コンクリートのビルになったり、武家屋敷が官庁や学校などの公共施設になったくらいである。これが、かっての城下町であった地方都市へいけば、なおさら街並みの変化は、近世いらい本当に乏しい現実がある。江戸・東京にしても、近世絵図で街歩きは可能なのである。
筆者は、「近世絵図地図資料集成」の江戸地図集の解説として、「古地図と部落問題」を書いておいた。その中でも指摘しておいたが、部落問題の視点から地図をどう読み解くのか、今もまだまともには取りあげられていないのである。わずかに、京都に関して師岡佑行氏の論稿があるだけである。
古地図をどう読み解くか、部落問題に関わる地名表記をどうするのか、もう少し関係者の議論がおこってもよいのではないか。
地図製作者側の個性が表われていると考えられる問題のひとつが、近世部落に関する表記である。江戸の場合にも、弾左衛門屋敷は「穢多村」と表記され、小字で「俗に新町ト云」とある。しかし、非人の居住地は「乞食村」であったり「非人小屋」と記されていたりするのである。
大坂の例でも、渡辺村は「穢多村」と表記されていたり、単に「渡辺村」とだけ記されている。しかし、非人に関しては表記が「非人村」、「非人小屋」、「長吏」などの記載がみられるのである。近世大坂の場合、「四ケ所非人」の存在がよく知られ、その居住地は大坂城を囲むような形で置かれている、という特長がある。これは後にも詳しくふれる。
こうした表記の違いは、幕府の政策によるものなのか、あるいは単に地図製作者側の「気まぐれ」なのか、現在のところ見極めがたいのである。いずれにしても、様々な種類の絵図や地図が刊行されていた、という点だけはまちがいのない事実である。江戸時代の出版技術は、かなり高かったのである。表記の違いは製作者側の認証の示すところである、と考えている。同時に、表記の違いは、人々にとっての、それら「非人」に対する認証の混乱を示すものである、と考える。
2、地図とその時代
次に、本地図集に収録されているもののうち、特長的な地図について触れていくことにしたい(図1参照)。
まず「大坂古図」のうち「石山古城図」をとりあげて検討したい。大坂は堀り割りが発達し大街であるが、石山本願寺のあった頃から、こうした街の形はできあがっていた様である。
その堀り割りにつながる大和川と北河内川、近江川の合流する地点の丘の上に「石山御堂」があるが、ここが石山本願寺のあった所である。地図には「当時篭城門徒四万人餘」と書き込みがある。石山御堂の北側の所には「天王寺跡」という記載もある。
石山御堂と「渡辺橋 川幅二百六十間」と記された対岸に「佐々成政本陣」とその後ろには「織田信長本陣」が書き込まれている。信長の本陣があったのは天満山で、当時は山があったようだ。信長本陣のすぐ西側には、「本庄某川ヲ守ル処裏切シテ石山ヘ入」との書き込みもあり、合戦中の緊張感が伝わってくる。
石山本願寺を攻める側の勢力は、主に石山御堂の西側一帯に本陣を布き、堀江橋筋の堀り割りより東側一帯は本願寺側の勢力が展開していた。四天王寺の西側には「此処石山方忍者ヲ置」という記載があり、合戦に際して活躍していた忍者の存在もあったことが確認できるのである。
当時の忍者は、主に敵情偵察やニセ情報を流して敵を混乱させたりする任務にあたっていた。主力部隊は門徒宗の中の根来衆が雑賀衆であったろう。その雑賀衆は高津に陣を構えていた。雑賀衆の陣のすぐ東側には「七不思議栴檀」の書き込みと絵が描かれている。この栴檀は近世の絵図にも書き込まれているから、かなり後まで自生していたもの、と推測される。
こうした両軍の陣と陣の間をぬうように、「石川方早鐘シキバ」が、石山本願寺をとり囲む形で置かれている。情報伝達には狼煙や鐘が使われていたが、石山合戦でも使用されていたことが、この図からもわかるのである。当時は狼煙の色を変えて危急の用件を伝えたり、鐘の撞き方で何があったかを知らせたのであった。
合戦の緊迫感が伝わってくる記載はまだある。
現在は在日韓国・朝鮮人四万人以上が暮らす猪飼野は、百済川筋の西側一帯に記載があるが、そこには「松永陣代千四百人」の記載とともに「橋ヲ引ク」とある。さらにその西側には「大和勢五百人」(これは門徒衆であろう)とあり、その陣の正面にあった「猪飼ハシ」は、「橋ヲ引ク」と書き込まれている。要するに、合戦に備えて石山方が橋をこわして落とした、ということなのだろう。織田方に、石山本願寺まで一挙に攻めこまれないためにとった作戦のひとつ、といってよい。猪飼野は、大阪環状線・鶴橋駅周辺から東側一帯であるが、現在はこの地名は正式には使われていない。
ところで、「石山古地図」には、すでに部落問題に関する記載があらわれている。
現在の大阪湾になるが、石山本願寺からみると南西の方向になる。その湾内に「寺嶋」があり、「石山方ノ砦」が記載されている。その説明のための書き込みと考えられるのだが、「エタガ崎砦ト云」という記載がある。
近世の絵図や地図は縮尺はかなりいいかげんだから、断定はできないが、ここは近世には「渡辺村」と呼ばれてたかわた村と重なり合う地ではないか、と考えられる。渡辺村は近世には天領であって、独自の年寄をもっていたほか、身分は大坂町奉行の直接支配をうけた。現在地へ移ってくる以前の村の記録と思われる。
じつは、渡辺村は村の成立当初から現在地にあったのではない。
「天正十三年町ヲ分ル 大坂分町地図 慶応十七年著図」(本地図集に収録)には、「渡辺村 天正年中渡辺橋ノ南ヨリ此ニ遷ル 穢多村也」との記載がある。
「中旧 大坂三郷地図」(宝暦七年――本地図集に収録)にも、「昔シ天神橋ノ南 渡辺ノ地ニアリ 文禄年此ニ引遷ル 其ノ跡町トナル」と渡辺村は解説がなされている。
ここに記されている天神橋と渡辺橋というのは、大坂城のすぐ近くにあって、「官上近世大坂地図」(宝暦二年――本地図集に収録)には、「渡辺橋又ハ大江橋又ハ天神橋」との書き込みがあり、同一の橋であったことがわかる。こうした橋の名前ひとつとってみても、近世の絵図や地図を一枚だけ見ていては、理解できないのである。いろんな時期の物を重ねて見ると、いろんな事実がわかるのである。本地図集の特長のひとつもこの点にある。
実際、渡辺村の前身は応仁の乱ののち、淀川のほとりに散所村がつくられて、坐摩(ざま)神社に隷属して皮革生業や神社の清掃などの仕事に携わっていた餌取があった、といわれている。そして石山本願寺がつくられると、寺に奉仕する河原者もみられるようになった。
その後、一五八三(天正一一)年に大坂城が築城されると、渡辺村は城下町となり、坐摩神社の大半が没収されてしまうのであった。すると、神社に奉仕していた河原者達は天満、博労、木津、船場などに分散してしまい、坐摩神社との関係はうすくなった。
しかし、徳川幕府が成立すると、それらの河原者達はまず南渡辺の地へ集められ、さらに元和年間(一六一五~二三年)に至り、西成郡下難波村領に移動させられ、一七○一(元禄一四)年に至り、現在地へと移動させられて定着することとなった。渡辺村は、戦前には「西浜」と呼ばれ、「全国一の大部落」といわれるほどであった。
渡辺村の元々は坐摩神社との関係から始まるのは、まずまちがいないといってよい。その坐摩神社は、石山本願寺やその跡に築城された大坂城とは、非常に近い所にあった。先に記した渡辺村の書き込みは、こうした移動の事実を裏づけるものである。ただし、移動してきた年代の記述は「天正年中」(一五七三~九一)、「文禄年中」(一五九二~九五)と若干の違いがある。
だが、元々は別の所にあって、移動させられて最終的に現在地へ移ってきたのは、まちがいない所である。「部落」は移動するのである。