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第9巻 日本科学技術古典籍資料/天文學篇[5]

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第9巻 日本科学技術古典籍資料/天文學篇[5]
Volume Ⅸ The Collected Historical Materials on Japanese Science and Technology: The History of Japanese Astronomy (5)

(2005/平成17年10月刊行)

●第一部 資料篇
(23)平田篤胤 撰『天朝無窮暦』(6巻附録1巻合計7巻、天保8[1837]年自跋、国立公文書館所蔵、194-111)
 国学者の平田篤胤(安永5[1776]年8月24日-天保14[1843]年9月11日)も、本居宣長と同じく、博覧強記で、複数の分野において、豊富な量の書籍を残している。ただ、異なるのは、天保12(1841)年1月に、幕府により、その思想を不穏とされ、著述差し止め及び江戸所払いによる国元への帰還を命令され、失意の内に、秋田で逝去したことである。事の顛末は以下のようなことである。まず、天保11(1840)年に、幕府の天文台から、彼の著作物の内容に関して、友人の屋代弘賢を通じて問い合わせがあり、「答弁書」2冊を差し出して、お咎めがなかった。そして、天保11(1840)年6月に、今度は、秋田佐竹藩にお尋ねがあり、翌天保12(1841)年1月に、上記の御沙汰が下された次第である。
 ただ一筋に神道のみを信じて、非科学的な精神を謳歌したのを、国家権力が忌避したのであろう。彼は、本居宣長から教えを受けることは果たせなかったが、生活の労苦と戦いながら、本居宣長の学風を受け継いで学問を行ったと言える。ただ、本居宣長の学問精神とは全く別で、蘭学、儒教、仏教の各文献を渉猟しながらも、神の道一辺倒に陥り、他の学問を一切否定するという行為に出たのである。
 神武天皇の東征の年(甲寅)から文武天皇1(697年、丁酉)年まで、1364年間に渡る各月の大小及び干支を記して、自説を加えて完成したのがこの『天朝無窮暦』である。また、上古の暦法は、秦漢時代以前の古暦書に散見される「太昊古暦法」であるとし、これも、「日本から伝来した暦である」と述べている。さらに、この『天朝無窮暦』を、『日本書記』の干支と一致させたのである。
 おそらく、現代においても時々見られる、いわゆる「日本主義者」の思想を体言しているのが、平田篤胤と言えよう。牽強付会な解釈をお許し願えるならば、「大和朝廷の成立のはるか以前の、神の支配していた時代から原日本人が生存し、独自の文字をもつ文化の形成に与っていた」というのが、彼らの論理の骨子である。「神の支配していた時代」などは、現在の歴史学では実証されていないが、日本人及び日本の国土の起源とその後の発展を考察するためには、有益な資料を提供してくれるはずである。古代日本人の思想のあり方の淵源を探る意味で、「神の支配していた時代」は、非常に重要な意味を持っている。ただ、「神の支配していた時代」と「人間の支配していた時代」とは、連続性が乏しいだけである。
 この書においては、保井春海『日本長暦』や中根元圭『皇和通暦』の推算の方法も批判し、中国や日本の多数の暦書を熟読して、日本の古暦法の歴史を考究し、『天経惑問』についても論評を加えている。平田篤胤が蘭書を理解していて、「地動説」を信じ、「地球が球形の形であること」を認識していた事については、疑いをさしはさむ余地はないものの、「地動説でも天動説でも、歳時の循環に変化はない」として、あくまでも「古説」に固執するのである。
 原本として使用した「国立公文書館」所蔵本は、明治時代の写本で、巻6の末尾に「明治十一年九月 近藤 敦吉・奥田 正志 校」と、附録巻の末尾に「明治□一年九月 牧野 之義・吉松 鼎輔 校」と、それぞれ記載されていて、天保8[1837]年の自跋が掲載されているが、発行年は特定できない。

(24)平田篤胤 撰『三暦由来記』(3巻3冊、天保4[1833]年刊行、国立公文書館所蔵、194-136)
 『天朝無窮暦』を書くために中国の暦学書を研究していた著者の作品で、夏、殷、周の三代の暦法を論じ、夏の暦が太皞(伏羲)の古暦であることを述べている。『天朝無窮暦』という大作を結実させるための予備的な資料と言った方が適切かもしれない。国立公文書館所蔵の原本は、明治11年10月の写本である。

(25)釋圓通 撰・釋智轂 校『佛國暦象編』(5巻5冊、国立公文書館所蔵、文化7[1846]年12月序・刊行、194-137)
 天文学や暦学がインドに起こり、その地から西洋や東洋に伝播したとする「佛説天文学」の体系について書かれた書籍で、須弥山を中心とした世界の構造を設定し、地球の球体説を否定する、独自の宇宙認識で組み立てられている。この書においても、一見浅学な感じを受けるが、読み進む程に、和漢の名著を渉猟し、博覧強記で東西の天文暦学書に通じた圓通の像が浮かび上がってくる。彼は、西洋の学問、ことに17-18世紀に中国に渡来して天文学を伝えた、マテオ・リッチやアダム・シャールなどの業績に異議を唱え、彼らの暦法が古代インドの「梵暦」に基礎をおいていることを唱えるのである。圓通は、護法のために、自己の所信を曲げずに、西洋の天文学説の優秀さを理解しながらも、あえて、「須弥界説」に固執していたことを述べる人もあるが、実に複雑怪奇な話である。彼の説を精密科学ではなく思想的な書として再読してみれば、新たな地平が見えてくるかもしれない。圓通は、寶暦5(1755)年に、因幡国に生まれ、天保5(1834)年9月4日に、享年80歳で、逝去している。7歳にして出家し、戒を豪潮阿闍梨に受けていることが知られている。

(26)司馬峻(司馬江漢) 著『和蘭天説』(1巻1冊、国立公文書館所蔵、寛政7[1795]年12月序、寛政8[1796]年1月刊行、194-62)
司馬峻(司馬江漢)は、蘭学者・画家で、延享4(1747)年に生まれ、文政1(1818)年10月21日に、72歳で、この世を去っている。西洋の天文学の基本を紹介した教養的な書物で、赤道南北極之圖、象限儀之圖、紀限儀之圖、天体圖などが、簡単に紹介された資料である。

(27)渋川佑賢 輯『星學須知』(8巻8冊、国立公文書館所蔵、弘化3[1846]年8月序、特7-2)
 渋川佑賢が天文方見習の時代の天保14(1843)年に書かれた資料である。目次を考察してみても、本邦暦法起源、漢土暦法起源、暦法大意、消長法大意、楕円面積、黄道位置、歳差、頒暦、暦算、西洋年月、漏刻、置閏、渾天儀、測算、太陰宿度、太陽黒點、地動説、引力、地震、流星などに見られるように、天文学・気象学・暦学を学ぶための初歩的な教科書とも言える体裁である。あるいは、天文方見習生としての渋川佑賢が、自己の研鑽のために、今までの学習の成果を統合したのかもしれない。書き方もわかりやすく、これから学ぶ人のための、非常に有益な書物である。

(28)池田好運 編『元和航海書』(1冊、元和4[1618]年序、京都大学附属図書館所蔵、6-07・ケ1貴)
 日本が西洋の文化と邂逅したのは、天文12(1543)年の種子島における鉄砲の伝来の日というのが定説である。この時、種子島に漂着したポルトガル人を通じて、さまざまなヨーロッパの製品や人々が日本に流入することになった。
 ついで、イグナティウス・デ・ロヨラ(Ignatius de LOYALA, 1491-1556.7.31)と共にイエズス会を設立したフランスィスコ・デ・ザヴィエル(Francisco de XAVIER, 1506.4.4-1552.12.3)が最初の宣教師として、天文18(1549)年に来日してから、2ヶ年余りの間、布教活動を行った。この事が呼び水となり、宣教師たちの歴訪が相次ぎ、キリスト教は、九州・中国地方を初め、京都にまで伝播した。彼らは、西洋の医学・天文学・築城技術などを伝え、西国においては、キリスト教の信者となる大名も出現した。
 この時以降、豊臣秀吉の覇権時代を経て、徳川家康が支配者となり、三代将軍徳川家光の支配した時代までの、キリスト教徒との角遂の歴史については、本書掲載の「日本天文學史年表」に詳しく述べられているので、そちらを参照されたい。要約して言えば、寛永16(1639)年をもって、オランダ人以外との交渉は一切禁止され、以後、幕末まで、約200年以上に渡る鎖国体制が続いた。また、寛永18(1641)年に、オランダ商館は平戸から長崎に移転し、以後、外国貿易を含む全ての外国との交渉は、徳川幕府の代理人としての長崎奉行の手に帰すことになった。
 天文学は、宣教師たちによってもたらされただけではなく、海外との交通が盛んな時代にあっては、外国船の乗組員、つまり、水先案内人によっても、その一端が伝えられた。彼らは、船を安全に航海させて、目的地に辿り着かせるために、天文学、地理学、数学の知識を持っていたのである。この、水先案内人として最初に著名となった人物が、ウィリアム・アダムス(William ADAMS, 1564-1620.5)で、「元和航海書」においては、「行師(あんじ)」と書かれている。彼はイギリス人で、航海の途中で暴風雨に遭遇し、乗船していたリーフデ号は、豊後の佐志生の海岸に漂着した。彼は、後に、オランダ人のヤン・ヨーステン・ファン・ルーデンステイン(Jan Joosten van LOODENSTIJN, ?-1623)と共に、徳川家康の知遇を受け、三浦按針の名前を賜り、外交顧問として活躍し、また、幾何学や地理学を講じた。
 次に水先案内人が伝えた、注目すべき天文資料として挙げられるのが、この「元和航海書」である。筆者の池田好運に関して、簡単な略歴を紹介する。この池田好運という名称は号で、通称は池田与右衛門である。生没年は未詳で、元和・寛永の頃(1615-1644)、肥後に在住していたことが知られている。南方の各地を航海していたので、航海術を習得する必要に迫られ、ポルトガル人のマノエル・ゴンサロから学んだ知見を基にして記されたのがこの資料である。同じ時に『蛮暦』も編纂している。この書は航海の記録でなく、航海術を主題として書かれたことから考えて、航海書と呼ぶのが妥当であろう。原書の表紙には「元和航海記 全」と記載されているが、上記の理由を考慮して、表題を「元和航海書」と記した次第である。全体の構成は以下のように分類できる。
(1)航海中の船が太陽の高度を測定して、その地点を緯度を算出することは、重要なことである。その方法として、正午における太陽の赤緯を、表より求め、観測機器であるアストロラビオ(Astrolabio)を使用して、太陽の天頂距離を求めると、その地点の緯度が知られる。この観測地点の緯度を知るために必要な太陽の赤緯表が掲載されているのが、この一覧表である。これが、四つのデクリナサン(Declinacao) 表と呼ばれる、太陽の赤緯表のことである。寛永6(1629)年から貞享3(1686)年に至る58年間において、これを4年ごとに区分した組として、太陽暦によった毎月毎日正午の太陽緯度とその曜日を記載している。各年の最初の月が、ヘベレイロ(正しくはフェヴェレイロである。Fevereiroが原綴である)、つまり、太陽暦の二月から始まっていて、所々に、その年の干支と各月の大小、その月の朔日の干支が記載されている。これは、一覧表の調査を容易にするために工夫された手法と言えよう。以下、四つの組の対照年度(西洋暦による)、日本の年号、干支を整理したので参考にされたい。この表の最終年度が貞享3(1686年)年度であることを考えると、池田好運以外の人物が手を加えていることは、十分に肯ける話である。一覧表の最後に「四つのデキリナサン」と題する項目があり、その中に、太陽の運行に関して、簡単に記載されているので、一読をお勧めしたい。この表は、船が赤道及び黄道より北に位置している場合のみでしか使用できないことも記してある。
*第1グループ・1629(寛永6、己巳)年、1633(寛永10、癸酉)年、1637(寛永14、丁丑)年、1641(寛永18、辛巳)年、1645(正保2、乙酉)年、1649(慶安2、己丑)年、1653(承応2、癸巳)年、1657(明暦3、丁酉)年、1661(寛文1、辛丑)年、1665(寛文5、乙巳)年、1669(寛文9、己酉)年、1673(延宝1、癸丑)年、1677(延宝5、丁巳)年、1681(天和1、辛酉)年
*第2グループ・1630(寛永7、庚午)年、1634(寛永11、甲戌)年、1638(寛永15、戊寅)年、1642(寛永19、壬午)年、1646(正保3、丙戌)年、1650(慶安3、庚寅)年、1654(承応3、甲午)年、1658(万治1、戊戌)年、1662(寛文2、壬寅)年、1666(寛文6、丙午)年、1670(寛文10、庚戌)年、1674(延宝2、甲寅)年、1678(延宝6、戊午)年、1682(天和2、壬戌)年、1686(貞享3、丙寅)年
*第3グループ・1631(寛永8、辛未)年、1635(寛永12、乙亥)年、1639(寛永16、己卯)年、1643(寛永20、癸未)年、1647(正保4、丁亥)年、1651(慶安4、辛卯)年、1655(明暦1、乙未)年、1659(万治2、己亥)年、1663(寛文3、癸卯)年、1667(寛文7、丁未)年、1671(寛文11、辛亥)年、1675(延宝3、乙卯)年、1679(延宝7、己未)年、1683(天和3、癸亥)年
*第4グループ・1632(寛永9、壬申)年、1636(寛永13、丙子)年、1640(寛永17、庚辰)年、1644(正保1、甲申)年、1648(慶安1、戊子)年、1652(承応1、壬辰)年、1656(明暦2、丙申)年、1660(万治3、庚子)年、1664(寛文4、甲辰)年、1668(寛文8、戊申)年、1672(寛文12、壬子)年、1676(延宝4、丙辰)年、1680(延宝8、庚申)年、1684(天和4、甲子)年
(2)これに続く「ガラブ(Grao)のつもり」(正しくはグランと発音する)では、1度は60ミヌウト(Minuto)、つまり60分に相当し、日本の41里31町6反5間3尺5寸、西洋の17里半であることを叙述している。
(3)次の「日をとる事」の項目は、「グレゴリオの改暦」について考察し、1年を365日と定め、4年につき1日の閏日を加えて、1年の長さを365日5時49分(原稿では、365日5時44分)と決定したことを述べている。
(4)その次の「因竪斜横路ノノリヲハカルコト」の項目においては、東西南北の各90度の間を8等分して32の方位に分けて、緯度1度に相当する地点までの各距離を算出している。ただ、当然のことながら、真東や真西に向かう場合には、この数値は得られない。
(5)7葉の図が掲載されているが、名称などは書かれていない。以下、図の内容について読みとれる点を記してみることにする。
*第1図・磁石盤。書かれている数字は、方位を示している。
*第2図・「マキタ」「マニシ」「マコチ」「マハヤ」の表示が読みとれるので、日本製の磁石である可能性が高い。
*第3図・北斗七星を測定するための図。
*第4図・北斗七星を測定するための図。「古傳ノ圖也」と書かれていて、この図により、小熊座のβγ星の位置によって、北極星と北極の高度差を知ることができる。
*第5図・デクリナサン(Declinacao)の表を作るために使用された道具。
*第6図・象限儀(Quadrante)で、「クワドランテ」もしくは「四分儀」とも呼ばれている。
*第7図・アストロラビオ(Astrolabio)。観測機器である。『倭漢三才圖會』に見られる「以寸太良比(いすたらひ)」に類似している。
(6)エパクタ(Epacta、エハクタの表記は誤りである)とは、太陽年と太陰暦の日数の差のことである。年頭の1月1日において、この数字を測定している。該当年度は、1615(元和1、乙卯)年から1690(元禄3、庚午)年までの76年間に及んでいて、それを19年づつ、4つのグループに分けて記載している。次に、黄金数(Aureo Numero、アウレヨ・ホウメレは誤りで、正しくはアウレオ・ヌメローである)1-19に対して、各年の12ヶ月の朔望の日付の表が掲載されている。黄金数とは、整理番号の意味で、特に深遠な意味はないものと推定される。訳出した表においては、黒丸(●)は多様な表示が出来ないために、半黒丸などの表示ができなかったことを、お断りしておきたい。必要に際しては、原文を参照されたい。
(7)最後は「水路誌」及び「気象観測の心得」とも言える内容で、「長崎ヨリ天川ヘノ乘前」「唐トタカサゴノアヒヲノルコト」「天川ヨリ日本ヘノ乘前」「シヤムラウヨリノ乘前」「乘船のケ條」の5篇の論文が掲載されている。西洋との接触が禁じられていた元和・寛永の時代にあって、太陽暦を基本とした航海術を習得して書き記された本書は、驚異の内容である。

●第二部 年表篇 「日本天文學史年表」[8-11巻、4-9巻]。

●第三部 天文方家譜

●第四部 書誌解題篇 掲載された論攷[8-11巻、4-9巻]の書誌的考察。
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第一部 資料篇

(23)平田篤胤 撰『天朝無窮暦』(6巻附録1巻合計7巻、天保8[1837]年自跋、国立公文書館所蔵、194-111)
 国学者の平田篤胤(安永5[1776]年8月24日-天保14[1843]年9月11日)も、本居宣長と同じく、博覧強記で、複数の分野において、豊富な量の書籍を残している。ただ、異なるのは、天保12(1841)年1月に、幕府により、その思想を不穏とされ、著述差し止め及び江戸所払いによる国元への帰還を命令され、失意の内に、秋田で逝去したことである。事の顛末は以下のようなことである。まず、天保11(1840)年に、幕府の天文台から、彼の著作物の内容に関して、友人の屋代弘賢を通じて問い合わせがあり、「答弁書」2冊を差し出して、お咎めがなかった。そして、天保11(1840)年6月に、今度は、秋田佐竹藩にお尋ねがあり、翌天保12(1841)年1月に、上記の御沙汰が下された次第である。
 ただ一筋に神道のみを信じて、非科学的な精神を謳歌したのを、国家権力が忌避したのであろう。彼は、本居宣長から教えを受けることは果たせなかったが、生活の労苦と戦いながら、本居宣長の学風を受け継いで学問を行ったと言える。ただ、本居宣長の学問精神とは全く別で、蘭学、儒教、仏教の各文献を渉猟しながらも、神の道一辺倒に陥り、他の学問を一切否定するという行為に出たのである。
 神武天皇の東征の年(甲寅)から文武天皇1(697年、丁酉)年まで、1364年間に渡る角月の大小及び干支を記して、自説を加えて完成したのがこの『天朝無窮暦』である。また、上古の暦法は、秦漢時代以前の古暦書に散見される「太昊古暦法」であるとし、これも、「日本から伝来した暦である」と述べている。さらに、この『天朝無窮暦』を、『日本書記』の干支と一致させたのである。
 おそらく、現代においても時々見られる、いわゆる「日本主義者」の思想を体言しているのが、平田篤胤と言えよう。牽強付会な解釈をお許し願えるならば、「大和朝廷の成立のはるか以前の、神の支配していた時代から原日本人が生存し、独自の文字をもつ文化の形成に与っていた」というのが、彼らの論理の骨子である。「神の支配していた時代」などは、現在の歴史学では実証されていないが、日本人及び日本の国土の起源とその後の発展を考察するためには、有益な資料を提供してくれるはずである。古代日本人の思想のあり方の淵源を探る意味で、「神の支配していた時代」は、非常に重要な意味を持っている。ただ、「神の支配していた時代」と「人間の支配していた時代」とは、連続性が乏しいだけである。
 この書においては、保井春海『日本長暦』や中根元圭『皇和通暦』の推算の方法も批判し、中国や日本の多数の暦書を熟読して、日本の古暦法の歴史を考究し、『天経惑問』についても論評を加えている。平田篤胤が蘭書を理解していて、「地動説」を信じ、「地球が球形の形であること」を認識していた事については、疑いをさしはさむ余地はないものの、「地動説でも天動説でも、歳時の循環に変化はない」として、あくまでも「古説」に固執するのである。
 原本として使用した「国立公文書館」所蔵本は、明治時代の写本で、巻6の末尾に「明治十一年九月 近藤 敦吉・奥田 正志 校」と、附録巻の末尾に「明治□一年九月 牧野 之義・吉松 鼎輔 校」と、それぞれ記載されていて、天保8[1837]年の自跋が掲載されているが、発行年は特定できない。

(24)平田篤胤 撰『三暦由来記』(3巻3冊、天保4[1833]年刊行、国立公文書館所蔵、194-136)
 『天朝無窮暦』を書くために中国の暦学書を研究していた著者の作品で、夏、殷、周の三代の暦法を論じ、夏の暦が太?(伏羲)の古暦であることを述べている。『天朝無窮暦』という大作を結実させるための予備的な資料と言った方が適切かもしれない。国立公文書館所蔵の原本は、明治11年10月の写本である。

(25)釋圓通 撰・釋智轂 校『佛國暦象編』(5巻5冊、国立公文書館所蔵、文化7[1846]年12月序・刊行、194-137)
 天文学や暦学がインドに起こり、その地から西洋や東洋に伝播したとする「佛説天文学」の体系について書かれた書籍で、須弥山を中心とした世界の構造を設定し、地球の球体説を否定する、独自の宇宙認識で組み立てられている。この書においても、一見浅学な感じを受けるが、読み進む程に、和漢の名著を渉猟し、博覧強記で東西の天文暦学書に通じた圓通の像が浮かび上がってくる。彼は、西洋の学問、ことに17-18世紀に中国に渡来して天文学を伝えた、マテオ・リッチやアダム・シャールなどの業績に異議を唱え、彼らの暦法が古代インドの「梵暦」に基礎をおいていることを唱えるのである。圓通は、護法のために、自己の所信を曲げずに、西洋の天文学説の優秀さを理解しながらも、あえて、「須弥界説」に固執していたことを述べる人もあるが、実に複雑怪奇な話である。彼の説を精密科学ではなく思想的な書として再読してみれば、新たな地平が見えてくるかもしれない。圓通は、寶暦5(1755)年に、因幡国に生まれ、天保5(1834)年9月4日に、享年80歳で、逝去している。7歳にして出家し、戒を豪潮阿闍梨に受けていることが知られている。

(26)司馬峻(司馬江漢) 著『和蘭天説』(1巻1冊、国立公文書館所蔵、寛政7[1795]年12月序、寛政8[1796]年1月刊行、194-62)
司馬峻(司馬江漢)は、蘭学者・画家で、延享4(1747)年に生まれ、文政1(1818)年10月21日に、72歳で、この世を去っている。西洋の天文学の基本を紹介した教養的な書物で、赤道南北極之圖、象限儀之圖、紀限儀之圖、天体圖などが、簡単に紹介された資料である。

(27)渋川佑賢 輯『星學須知』(8巻8冊、国立公文書館所蔵、弘化3[1846]年8月序、特7-2)
 渋川佑賢が天文方見習の時代の天保14(1843)年に書かれた資料である。目次を考察してみても、本邦暦法起源、漢土暦法起源、暦法大意、消長法大意、楕円面積、黄道位置、歳差、頒暦、暦算、西洋年月、漏刻、置閏、渾天儀、測算、太陰宿度、太陽黒點、地動説、引力、地震、流星などに見られるように、天文学・気象学・暦学を学ぶための初歩的な教科書とも言える体裁である。あるいは、天文方見習生としての渋川佑賢が、自己の研鑽のために、今までの学習の成果を統合したのかもしれない。書き方もわかりやすく、これから学ぶ人のための、非常に有益な書物である。

(28)池田好運 編『元和航海書』(1冊、元和4[1618]年序、京都大学附属図書館所蔵、6-07・ケ1貴)
 日本が西洋の文化と邂逅したのは、天文12(1543)年の種子島における鉄砲の伝来の日というのが定説である。この時、種子島に漂着したポルトガル人を通じて、さまざまなヨーロッパの製品や人々が日本に流入することになった。
 ついで、イグナティウス・デ・ロヨラ(Ignatius de LOYALA, 1491-1556.7.31)と共にイエズス会を設立したフランスィスコ・デ・ザヴィエル(Francisco de XAVIER, 1506.4.4-1552.12.3)が最初の宣教師として、天文18(1549)年に来日してから、2ヶ年余りの間、布教活動を行った。この事が呼び水となり、宣教師たちの歴訪が相次ぎ、キリスト教は、九州・中国地方を初め、京都にまで伝播した。彼らは、西洋の医学・天文学・築城技術などを伝え、西国においては、キリスト教の信者となる大名も出現した。
 この時以降、豊臣秀吉の覇権時代を経て、徳川家康が支配者となり、三代将軍徳川家光の支配した時代までの、キリスト教徒との角遂の歴史については、本書掲載の「日本天文學史年表」に詳しく述べられているので、そちらを参照されたい。要約して言えば、寛永16(1639)年をもって、オランダ人以外との交渉は一切禁止され、以後、幕末まで、約200年以上に渡る鎖国体制が続いた。また、寛永18(1641)年に、オランダ商館は平戸から長崎に移転し、以後、外国貿易をを含む全ての外国との交渉は、徳川幕府の代理人としての長崎奉行の手に帰すことになった。
 天文学は、宣教師たちによってもたらされただけではなく、海外との交通が盛んな時代にあっては、外国船の乗組員、つまり、水先案内人によっても、その一端が伝えられた。彼らは、船を安全に航海させて、目的地に辿り着かせるために、天文学、地理学、数学の知識を持っていたのである。この、水先案内人として最初に著名となった人物が、ウィリアム・アダムス(William ADAMS, 1564-1620.5)で、「元和航海書」においては、「行師(あんじ)」と書かれている。彼はイギリス人で、航海の途中で暴風雨に遭遇し、乗船していたリーフデ号は、豊後の佐志生の海岸に漂着した。彼は、後に、オランダ人のヤン・ヨーステン・ファン・ルーデンステイン(Jan Joosten van LOODENSTIJN, ?-1623)と共に、徳川家康の知遇を受け、三浦按針の名前を賜り、外交顧問として活躍し、また、幾何学や地理学を講じた。
 次に水先案内人が伝えた、注目すべき天文資料として挙げられるのが、この「元和航海書」である。筆者の池田好運に関して、簡単な略歴を紹介する。この池田好運という名称は号で、通称は池田与右衛門である。生没年は未詳で、元和・寛永の頃(1615-1644)、肥後に在住していたことが知られている。南方の各地を航海していたので、航海術を習得する必要に迫られ、ポルトガル人のマノエル・ゴンサロから学んだ知見を基にして記されたのがこの資料である。同じ時に『蛮暦』も編纂している。この書は航海の記録でなく、航海術を主題として書かれたことから考えて、航海書と呼ぶのが妥当であろう。原書の表紙には「元和航海記 全」と記載されているが、上記の理由を考慮して、表題を「元和航海書」と記した次第である。全体の構成は以下のように分類できる。

(1)航海中の船が太陽の高度を測定して、その地点を緯度を算出することは、重要なことである。その方法として、正午における太陽の赤緯を、表より求め、観測機器であるアストロラビオ(Astrolabio)を使用して、太陽の天頂距離を求めると、その地点の緯度が知られる。この観測地点の緯度を知るために必要な太陽の赤緯表が掲載されているのが、この一覧表である。これが、四つのデクリナサン(Declina??o) 表と呼ばれる、太陽の赤緯表のことである。寛永6(1629)年から貞享3(1686)年に至る58年間において、これを4年ごとに区分した組として、太陽暦によった毎月毎日正午の太陽緯度とその曜日を記載している。各年の最初の月が、ヘベレイロ(正しくはフェヴェレイロである。Fevereiroが原綴である)、つまり、太陽暦の二月から始まっていて、所々に、その年の干支と各月の大小、その月の朔日の干支が記載されている。これは、一覧表の調査を容易にするために工夫された手法と言えよう。以下、四つの組の対照年度(西洋暦による)、日本の年号、干支を整理したので参考にされたい。この表の最終年度が貞享3(1686年)年度であることを考えると、池田好運以外の人物が手を加えていることは、十分に肯ける話である。一覧表の最後に「四つのデキリナサン」と題する項目があり、その中に、太陽の運行に関して、簡単に記載されているので、一読をお勧めしたい。この表は、船が赤道及び黄道より北に位置している場合のみでしか使用できないことも記してある。

*第1グループ・1629(寛永6、己巳)年、1633(寛永10、癸酉)年、1637(寛永14、丁丑)年、1641(寛永18、辛巳)年、1645(正保2、乙酉)年、1649(慶安2、己丑)年、1653(承応2、癸巳)年、1657(明暦3、丁酉)年、1661(寛文1、辛丑)年、1665(寛文5、乙巳)年、1669(寛文9、己酉)年、1673(延宝1、癸丑)年、1677(延宝5、丁巳)年、1681(天和1、辛酉)年

*第2グループ・1630(寛永7、庚午)年、1634(寛永11、甲戌)年、1638(寛永15、戊寅)年、1642(寛永19、壬午)年、1646(正保3、丙戌)年、1650(慶安3、庚寅)年、1654(承応3、甲午)年、1658(万治1、戊戌)年、1662(寛文2、壬寅)年、1666(寛文6、丙午)年、1670(寛文10、庚戌)年、1674(延宝2、甲寅)年、1678(延宝6、戊午)年、1682(天和2、壬戌)年、1686(貞享3、丙寅)年

*第3グループ・1631(寛永8、辛未)年、1635(寛永12、乙亥)年、1639(寛永16、己卯)年、1643(寛永20、癸未)年、1647(正保4、丁亥)年、1651(慶安4、辛卯)年、1655(明暦1、乙未)年、1659(万治2、己亥)年、1663(寛文3、癸卯)年、1667(寛文7、丁未)年、1671(寛文11、辛亥)年、1675(延宝3、乙卯)年、1679(延宝7、己未)年、1683(天和3、癸亥)年

*第4グループ・1632(寛永9、壬申)年、1636(寛永13、丙子)年、1640(寛永17、庚辰)年、1644(正保1、甲申)年、1648(慶安1、戊子)年、1652(承応1、壬辰)年、1656(明暦2、丙申)年、1660(万治3、庚子)年、1664(寛文4、甲辰)年、1668(寛文8、戊申)年、1672(寛文12、壬子)年、1676(延宝4、丙辰)年、1680(延宝8、庚申)年、1684(天和4、甲子)年

(2)これに続く「ガラブ(Gr?o)のつもり」(正しくはグランと発音する)では、1度は60ミヌウト(Minuto)、つまり60分に相当し、日本の41里31町6反5間3尺5寸、西洋の17里半であることを叙述している。

(3)次の「日をとる事」の項目は、「グレゴリオの改暦」について考察し、1年を365日と定め、4年につき1日の閏日を加えて、1年の長さを365日5時49分(原稿では、365日5時44分)と決定したことを述べている。

(4)その次の「因竪斜横路ノノリヲハカルコト」の項目においては、東西南北の各90度の間を8等分して32の方位に分けて、緯度1度に相当する地点までの各距離を算出している。ただ、当然のことながら、真東や真西に向かう場合には、この数値は得られない。

(5)7葉の図が掲載されているが、名称などは書かれていない。以下、図の内容について読みとれる点を記してみることにする。
*第1図・磁石盤。書かれている数字は、方位を示している。
*第2図・「マキタ」「マニシ」「マコチ」「マハヤ」の表示が読みとれるので、日本製の磁石である可能性が高い。
*第3図・北斗七星を測定するための図。
*第4図・北斗七星を測定するための図。「古傳ノ圖也」と書かれていて、この図により、小熊座のβγ星の位置によって、北極星と北極の高度差を知ることができる。
*第5図・デクリナサン(Declina??o)の表を作るために使用された道具。
*第6図・象限儀(Quadrante)で、「クワドランテ」もしくは「四分儀」とも呼ばれている。
*第7図・アストロラビオ(Astrolabio)。観測機器である。『倭漢三才圖會』に見られる「以寸太良比(いすたらひ)」に類似している。

(6)エパクタ(Epacta、エハクタの表記は誤りである)とは、太陽年と太陰暦の日数の差のことである。年頭の1月1日において、この数字を測定している。該当年度は、1615(元和1、乙卯)年から1690(元禄3、庚午)年までの76年間に及んでいて、それを19年づつ、4つのグループに分けて記載している。次に、黄金数(Aureo Numero、アウレヨ・ホウメレは誤りで、正しくはアウレオ・ヌメローである)1-19に対して、各年の12ヶ月の朔望の日付の表が掲載されている。黄金数とは、整理番号の意味で、特に深遠な意味はないものと推定される。訳出した表においては、黒丸(●)は多様な表示が出来ないために、半黒丸などの表示ができなかったことを、お断りしておきたい。必要に際しては、原文を参照されたい。

(7)最後は「水路誌」及び「気象観測の心得」とも言える内容で、「長崎ヨリ天川ヘノ乘前」「唐トタカサゴノアヒヲノルコト」「天川ヨリ日本ヘノ乘前」「シヤムラウヨリノ乘前」「乘船のケ條」の5篇の論文が掲載されている。西洋との接触が禁じられていた元和・寛永の時代にあって、太陽暦を基本とした航海術を習得して書き記された本書は、驚異の内容である。

●第二部 年表篇 「日本天文學史年表」[VIII巻、IX巻、X巻、XI巻、IV-IX巻]。

●第三部 天文方家譜

●第四部 書誌解題篇 掲載された論攷[VIII巻、IX巻、X巻、XI巻、IV-IX巻]の書誌的考察。

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