商品コード: ISBN978-4-7603-0355-7 C3020 \50000E

日本差別史関係資料集成 第9巻(近世資料篇4:アイヌ研究2)

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第9巻 日本差別史関係資料集成 (近世資料篇4: アイヌ研究 2)

The Collected Historical Materials of Japanese Discriminations in Yedo Era (IV): The Study of Ainu Race II
近世におけるアイヌ関係資料を集大成。続編。

目 次

解読篇

蝦夷地一件 一
蝦夷地一件 二
蝦夷地一件 三
蝦夷地一件 四
蝦夷地一件 五

解説篇

解 説

索引篇

総合索引

          解 説
 この資料は、中世以降、蝦夷地の原住民であるアイヌ民族が、日本国の支配階級である大和民族(和人)の商人や権力者に対して起こした三大反乱の中で、「コシャマインの戦い」(一四五六【康正二】年五月に、渡島半島東部を支配するコシャマインが先端を開き、一四五八【長禄二】年五月に蠣崎信広の軍勢による、コシャマイン父子の射殺により、戦いは終結する)、「シャクシャインの戦い」(一六六九【寛文九】年六月にシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起で、一六七二【寛文十二】年まで続けられた。「寛文蝦夷蜂起」とも呼ばれている)と並んで著名な「クナシリ・メナシの戦い」を、権力者の側が編纂した報告書の集成版である。工藤平助の「赤蝦夷風説考」(序文の年紀は一七八三【天明三】年)に記載されているロシア帝国の南下政策に大きな影響を受けた、一七八四(天明四)年五月二十三日付けの「松本伊豆守の上申書」から始まり、一七九○(寛政二)年八月二十一日付けの「青嶋俊蔵家作の引渡届書」で稿を終わっている。編年体の書式で記されているので、「事件を巡る顛末書」と言った内容である。正確な記載を旨としたためか、事実関係が淡々と記載されていて、この「クナシリ・メナシの戦い」を実証するための貴重な資料であることは疑いを得ない。当時の幕府の最高権力者の北方政策なども読み取ることが可能な恰好の資料である。松前藩も幕府も、自藩や自国の利権を維持するための鎖国政策に固執し、外国勢力による自らの交易権利の剥奪を警戒していたことが十分に理解できる資料である。
 「津軽一統志」「新羅之記録(「松前国記録」「新羅記」)」など、江戸時代に編纂された歴史書を繙いてみると、室町時代の末期の十五世紀におけるアイヌ民族の経済生活などを窺い知ることが出来る。アイヌ民族は河川や近海、住居の近辺の耕作可能地において、漁業労働、狩猟、農耕に従事していたと記載されている。「新羅之記録(「松前国記録」「新羅記」)」によれば、一六一五(元和元)年から一六二一(元和七)年頃、メナシ地方(現在の北海道目梨郡羅臼町)のアイヌ民族が、百隻近い舩に鷲羽やラッコの毛皮などを積み、松前に行き交易したとの記録がある。また、一六四四(正保元)年に「正保御国絵図」が作成された時に、松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など三十九の島々が描かれている。
 江戸幕府が開かれた十七世紀初頭の蝦夷地(北海道)、カラフト、千島列島などでは、稲作が不可能なため、松前藩は無石高で、一万石の格にすぎなかった。一六○四(慶長九)年一月二十七日、初代藩主の松前慶廣は、徳川家康から黒印状を与えられ、アイヌ民族との交易の権利を独占することが公認された。蝦夷地には藩主が交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)が割り当てられた。家臣たちがそれらの場所に交易船を送ってさまざまな利益を得る権利を、藩主が認めるという方式で行われた。十七世紀の後半には、これらの商場は知行地として設定され、「商場知行制度」と呼ばれ、松前藩主、藩主一族、上級武士などが、「知行主」として、利益を独占することになった。また、当初より、松前藩は、渡島半島の南部を和人居留地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と大和民族(和人)居留地の間の交通を制限する政策を採用していた。江戸時代の初頭まで、アイヌ民族が大和民族(和人)居留地や本州に出かけて交易することは、普通に行なわれていたが、時代が経ると、松前藩による取締が次第に厳しくなってきた。
 このような経済状況が続く中で起こったのが、一六六九【寛文九】年六月に発生した「シャクシャインの蜂起」である。前述した「商場知行制度」は、市場原理に基づいて交換価値を設定する方式とは異なり、交易の独占者である「知行主」の一方的な都合で購入価格が設定されるために、アイヌ民族の経済的困窮度は一層増加するに至った。この蜂起が発生する前の一六六五【寛文五】年には、松前藩の財政悪化により、購入価格を従来の三分の一に設定している。また、全国的な飢饉が発生していた一六六七【寛文七】年に、松前藩は米三千俵の拝借を要求していることも、アイヌ民族からの低購入価格設定を促進した一つの要因であろうと推測される。その他にも、「アイヌ民族に交易を一方的に強要する押買」「砂金掘人や鷹侍のアイヌ民族支配地への無許可侵入」「大網を利用しての漁業資源の大量捕獲」など、枚挙に暇がないほどに、アイヌ民族の経済的基盤は浸食されていった。津軽藩、秋田藩、南部藩などの東北諸藩が交易に参加できないことも、松前藩による交易独占体制の強化と強権的な搾取を許容することの一因になったと思われる。アイヌ民族にとって生活に必要な米などは、松前藩から購入せざるをえず、そのための交換物としての天然資源(魚類、鷹羽、熊皮など)及びそれらの加工物(干魚、衣類など)の獲得のための、アイヌ民族同士の争闘なども、この「商場知行制度」が布告されなければ起こらなかったはずである。より多くの物資を獲得するための生存競争をもたらした、非合理的な「商場知行制度」は封建主義体制の最大の悲劇的な遺物と言えよう。このような経済的背景のもとで、「シャクシャインの蜂起」は起こるべくして起こったと言っても言い過ぎではない。
 十八世紀以降には、松前藩の支配様式の様相が一変してくる。蝦夷地(北海道)、カラフト、千島列島を対象とした「場所請負制度」の採用である。松前藩では、米の収穫が望めないために、藩主が家臣に与える俸禄は、石高に基づく地方知行ではなく、前述の「商場知行制度」を活用して、家臣に対して、交易地域である商場(場所)の交易権を知行として分与していた。家臣の大半の給地は蝦夷地にあり、その給地内においても、採金、鷹待、鮭鱒漁、伐木等の権利は全て藩主に属していた。知行主に認められていたのは、年一回、舩を仕立てて交易する権利のみであった。このような経済状況下では、知行主の収入は一定せず、経済的な困窮度も増すことになった。この時代、潤沢な資本力を持つ商人などが、松前に出店を置いて本格的に進出して来ていた。知行地を持つ家臣たちは、これらの商人から交易用の物資や生活費までもを借りて交易に従事し、その結果得た商品を商人に渡して借財を償還するようになった。しかし、次第に蝦夷地の交易が複雑化して、資本的・技術的に手に負えなくなって負債がかさみ、交易権そのものを「場所請負人」の名目で、商人に代行させて、知行主は一定の運上金を得るという制度に移行した。十八世紀初頭のことである。これが「場所請負制度」の実体である。この「場所請負制度」により、大資本を有する商人は、藩主の直営地までもこの制度に組み入れた。松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、これらの大商人の掌中に部分的に握られることになった。この制度の施行により、アイヌ人や他の地域からの日本人出稼ぎ労働者を不当に安価な賃金で使役することによって、海産物などの生産量は増大した。また、巨大な船舶を活用しての他地方への輸送は、海産物商品などの市場を拡大する礎となった。この大商人から獲得する運上金の取立方法や額についても、松前藩の財政状況と何らかの連関があることは疑いもない。一例を挙げれば、「クナシリ・メナシの戦い」において、商場を襲撃され、その後、場所請負人の権利を剥奪された飛騨屋久兵衛においても、この事件の数年前から、松前藩との間で、金銭的な問題を引き起こしていたことが記されている。「運上金設定及び取立」の実状を深く考察する必要があると思われる。
 一七一五(正徳五)年には、松前藩主は江戸幕府に対し、「十州島(北海道島)、唐太(カラフト)、千島列島、勘察加(カムチャツカ半島)」を、松前藩領と報告している。一七三一(享保十六)年には、国後島や択捉島の首長などが松前藩主を訪問し、献上品を贈った。一七五四(宝暦四)年、松前藩家臣の知行地として、国後島の他に、択捉島や得撫島を含むクナシリ場所が開かれ、国後島の泊(トマリ)には、交易の拠点および藩の出先機関として運上屋が置かれた。一七七三(安永二)年には、商人の飛騨屋久兵衛がクナシリ場所での交易を請け負うようになり、一七八八(天明八)年には、〆粕(魚肥の一種。生魚を煮沸または蒸熱した後,魚油を搾りだした滓を乾燥させて作った肥料。江戸時代から重要な窒素質肥料として常用された。主に鰊、鰯、秋刀魚などが原料とされるが、クナシリでは鮭、鱒が使用された)の製造を開始するにあたり、その労働力としてアイヌ人を雇うようになる。
 この資料で言及されている「クナシリ・メナシの戦い(国後・目梨【現在の北海道目梨郡羅臼町】の戦い)」は、一七八九(寛政元)年に、東蝦夷地で起きたアイヌ人と和人の武装衝突事件である。当時は「寛政蝦夷蜂起」と呼ばれた。事件の顛末は以下のように記されている。
 一七八九(寛政元)年、クナシリ場所請負人の飛騨屋久兵衛との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所のアイヌ民族が、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人、商場、商舩を襲い、多数の和人を殺害し、物資を略奪した。蜂起を呼びかける内に、ネモロ場所メナシのアイヌ人もこれに応じて、商人、商場、商舩を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、また、蜂起に加わらなかった他のアイヌの首長も説得にあたり、蜂起した者たちは投降し、蜂起の中心となったアイヌ人は毒殺により処刑された。この騒動で七十一人の和人が犠牲となった。松前藩は、鎮定直後に、飛騨屋の責任を問い、場所請負人の権利を剥奪し、その後の交易を、新たな場所請負人に請け負わせた。一方、江戸幕府は、一七九一(寛政三)年と一七九二(寛政四)年、クナシリ場所やソウヤ場所で「御救交易」を行った。ロシア使節アダム・ラクスマンが通商を求めて根室に来航したのは、騒動からわずか三年後の一七九二(寛政四)年のことである。この「寛政蝦夷蜂起」があった頃、ロシアは北方から北千島まで既に南進していて、江戸幕府はこれに対抗して、一七八四(天明四)年から蝦夷地の調査を行い、一七八六(天明六)年に、得撫島までの千島列島を最上徳内に探検させていた。ロシア人は、北千島において抵抗するアイヌ人を武力制圧した。彼らは経済的にもロシア人に苦しめられていた。この中の一部のアイヌ人は、ロシアから逃れるために南下した。これらのアイヌ人の報告によって、日本側もロシアが北千島に進出している現状を察知し、北方警固の重要性を説いた。工藤平助の「赤蝦夷風説考」などが著されたのもこの頃である。
 「寛政蝦夷蜂起」から十年を経た一七九九(寛政十一)年、東蝦夷地(北海道太平洋岸及び千島列島)が、続いて、一八○七(文化四)年、和人居留地及び西蝦夷地(北海道日本海沿岸、樺太【後の北蝦夷地】、オホーツク海沿岸)も幕府直轄地となった。また、蜂起の後、北見地方南部への和人の本格的な進出が始まったのは、この戦いの後で、江戸幕府が蝦夷地を直轄地として、蝦夷地への和人の定住制限を緩和してからである。幕府はアイヌの蜂起の原因が、経済的な苦境に立たされているものであると理解し、「場所請負制度」も幕府直轄とした。
 また、一八四五(弘化二)年と一八四六(弘化三)年に、知床地方を訪れた松浦武四郎が、一八六三(文久三)年に出版した「知床日誌」によると、アイヌ女性たちに対する性的迫害が記述されている。また、アイヌ男性は離島で長期間酷使され、独身者は妻帯も難しかったとされている。これら、アイヌ民族を奴隷的な扱いをもって処遇した、松前藩や江戸幕府による強権的な搾取構造は究明される必要があろう。さらに、和人がもたらした天然痘などの感染症が、アイヌ民族の人口を減少させたことも報告されている。その結果、一八○四(文化四)年に二万三千七百九十七人と把握された人口は、一八七三(明治六)年には、一万八千六百三拾人に減ってしまった。アイヌ民族の人口減少はそれ以降も進んだ。
この論攷に頻出する松本伊豆守と幕府の役人である青嶋俊蔵について簡単な略歴を紹介する。
松本伊豆守、本名は松本秀持(まつもと ひでもち、一七三○【享保十五】年 - 一七九七年六月二十九日【寛政九年六月五日】)は、江戸時代中期の幕臣。通称は十郎兵衛。田沼意次に才能を認められ、天守番より、勘定方に抜擢された。一七七九(安永八)年、勘定奉行に就任し、五百石の知行を賜った。下総国の印旛沼および手賀沼干拓などの事業や天明期の経済政策を行った。田沼意次に、工藤平助の「赤蝦夷風説考」を添えて、蝦夷地調査について上申し、二回に及ぶ調査隊を派遣した。そして、蝦夷地の開発に乗り出そうとしたが、一七八六(天明六)年、田沼意次の失脚により頓挫してしまう。また、同年閏十月五日、田沼失脚にからみ小普請に落とされ逼塞となった。しかし、さらに越後買米事件の責を負わされ、知行地を減知の上、再び逼塞となった。一七八八(天明八)年五月に赦され、一七九七【寛政九】年、六十八歳で没した。
 青嶋俊蔵(あおしま しゅんぞう、一七五一【宝暦元】年 - 一七九○【寛政二】年八月二十五日)の名は政教。勘定奉行の松本伊豆守秀持の臣下。平賀源内の門人で、経済に通じていた。一七八五(天明五)年、最上徳内と共に蝦夷地を調査。一七八九【寛政元】年、この「寛政蝦夷蜂起」の究明のために、再度、蝦夷地に派遣されるが、松前藩に助言を与えた罪科により、遠島刑に処せられる。入牢後、獄死。享年四十歳。
 この資料の刊行にあたっては、国立公文書館所蔵本(五冊、修一七八-一八四)を使用した。この資料は、他に、北海道大学北方資料室、京都大学、東京大学史料編纂所に架蔵されている。

  二○一六年六月二十二日
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