商品コード: ISBN978-4-7603-0426-4 C3321 \50000E

第6巻 江戸幕府編纂物篇[5]

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第6巻 江戸幕府編纂物篇篇[5]
東韃地方紀行(上、中、下) 北夷分界餘話(一~九、附録) 北蝦夷地部(一~五) 原文篇・解読篇 解説篇 索引篇: 原文篇(上製532ページ); 解読篇 解説篇 索引篇(並製314ページ); 附録(A全版 北蝦夷島地圖)
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解 説

 本巻は、十九世紀初頭、貿易の拡大と不凍港の確保のために、蝦夷島、樺太島に向けて進出してきたロシアの南下政策が実行されている状況で、日本国の領土と資源を保全する目的を持って、これらの地域の調査を、幕府の命令により実行した間宮林蔵の著作を掲載した。国内経済の疲弊、生産力の低下、生産関係の矛盾の露呈などの現象が複合して、諸外国からの鎖国体制の変革要求などもあいまって、日本国内は、危機の前兆の様相を呈していた。「東韃地方紀行」、「北夷分界餘話」、「北蝦夷島地圖」の名称を附されたこれらの三部作は、文化七(一八一○)年の成立で、翌、文化八(一八一一)年、幕府に献上された。これらの資料群は、「間宮林蔵北蝦夷等見分関係記録」(全十四帖七鋪)として、平成三年、国の重要文化財に指定された。いずれも国立公文書館の所藏である。また、「北蝦夷地部」は国立国会圖書館所蔵で、「北夷分界餘話」の流布版として刊行された。構成はほぼ同一であるが、圖版に異同が見られ、「北夷分界餘話」に掲載されていないものが、数多く発見された。両方の資料を比較・検討することによって、偉大な学問的成果が得られることを待望する次第である。間宮林蔵のこれらの著作は、いずれも、弟子の村上貞助が編集・筆記していることを附記しておきたい。

 間宮 林蔵(まみや りんぞう)は、安永九(一七八○)年に、常陸国筑波郡上平柳村の小貝川のほとりで、農民庄兵衞の長男として生まれ、天保十五(一八四四)年二月二十六日(四月十三日)に没している。享年七十歳。墓所は、江戸深川浄心寺内の本立院、常陸筑波郡上柳の専称寺にある。名は倫宗(ともむね)。林蔵は通称である。江戸幕府の御庭番(公儀隠密)を勤め、樺太(サハリン)が島である事を確認し、間宮海峡を発見した事で知られる。
 当時、幕府は利根川東遷事業の一環として、間宮林蔵の生まれた近くで岡堰の普請を行っていた。この作業に加わった間宮林蔵は、幕臣の村上島之丞(秦 檍丸、はた あわきまる)に地理や算術の才能を見こまれ、後に、御庭番(公儀隠密)として、幕府に出仕した。寛政二(一七九○)年頃、江戸に出るにあたって、隣村の名家である飯沼甚兵衛の養子となった。寛政十一(一七九九)年、国後場所に派遣され、同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び、享和三(一八○三)年、西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)を測量し、ウルップ島までの地圖を作製した。

 文化四(一八○七)年四月二十五日(六月一日)、択捉場所で勤務していた際、ニコライ・レザノフがニコライ・フヴォストフたちに行わせた択捉島襲撃(文化露寇)に巻き込まれた。この際、間宮林蔵は徹底抗戦を主張するも受け入れられず、幕府軍は撤退した。後に、他の幕吏らが撤退の責任を追及され、処罰されたが、間宮林蔵は抗戦を主張したことが認められて、不問に付された。

 樺太北部の探索を終えた間宮林蔵は、文化六(一八○九)年九(十一)月末、宗谷に戻り、松前奉行所へ出頭し、帰着報告を行っている。松前において探索の調査報告書の作成に取りかかり、師の村上島之丞の養子である村上貞助に口述筆記させたのが、「東韃地方紀行」、「北夷分界餘話」、「北蝦夷島地圖」であり、文化八(一八一一)年一月、江戸に赴いて、これらの資料を幕府に提出した件は、前述の通りである。江戸において間宮林蔵は、伊能忠敬の邸に出入りして,測量技能の向上に努めた。
 文化八(一八一一)年四月、松前奉行支配調役下役格に昇進。同年十二月、ゴローニン事件の調査のため、松前に派遣される。文政五(一八二二)年、普請役となる。文政十一(一八二八)年、勘定奉行である村垣定行の部下となり、幕府隠密として全国各地を調査し、石州浜田藩の密貿易の実態を掴み、大坂町奉行矢部定謙に報告し、検挙に至らせた竹島事件などの活動に従事した。探索で培った、蝦夷・樺太方面に対する豊富な知識や、海防に対する見識が高く評価され、老中大久保忠真に重用され、川路聖謨や江川英龍らとも親交をもった。また、当時、蝦夷地の支配を画策していた水戸藩主徳川斉昭の招きを受け、水戸藩邸等に出入りして、斉昭に献策し、藤田東湖らとも交流をもった。晩年は身体が衰弱し、隠密行動も不可能になったと言われている。天保十五(一八四四)年二月二十六日(四月十三日)、没した。

(一)「東韃地方紀行」(長谷康夫 校閲・近世歴史資料研究会 解読)

 間宮林蔵は,幕府の命により文化五-六(一八○八-一八○九)年にかけて、樺太の西岸を北上し、樺太が島であることを発見し、海峡を渡って、黒竜江下流地域の東韃地方まで調査を行った。本書は間宮林蔵によれう、樺太から黒竜江下流域探検についての口述を、弟子の村上貞助(一七八○-一八四六)が編集・筆録した資料である。この調査によって、間宮海峡(タタール海峡)が発見された。文化七(一八一○)年の成立で、翌、文化八(一八一一)年、幕府に献上された。なお、間宮林蔵の著作によく見られる、弟子の村上貞助は、前述の村上島之丞(秦 檍丸、はた あわきまる)の養子で、文化十(一八一三)年、松前で、ゴロウニンにロシア語を学んでいる。そして、この調査探検の概要は以下のように記される。

 発端は、文化五(一八○八)年、幕府の命により、松田伝十郎に従っての、樺太の探索である。樺太南端のシラヌシ(本斗郡好仁村白主)で、アイヌの従者を雇い、松田伝十郎は西海岸から、間宮林蔵は東海岸から樺太の調査を進めた。間宮林蔵は、シラヌシから東方に進み、富内湖を通過して東海岸に出て、タライカに達し、多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)まで北上する。しかし、それ以上進む事ができず、再び南下し、マーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)から樺太島を横断して、西海岸クシュンナイ(久春内郡久春内村)に出て、海岸を北上し、北樺太西海岸ノテトで、松田伝十郎と合流した。

 間宮林蔵はアイヌ語もかなり解したが、樺太北部にはアイヌ語が通じないヲロツコと呼ばれる民族が居住いることを発見し、その生活や風俗の様子を記録に残した。その後、松田伝十郎とともに、北樺太西海岸ラツカに至り、樺太が島であるという確信を得て、そこに標柱を建て、文化六(一八○九)年六月(七月)、宗谷に帰着した。調査の報告書を提出した間宮林蔵は、翌月、さらに樺太奥地への探索を願い出て、これが許されると、単身、樺太へ向かった。間宮林蔵は、現地でアイヌの従者を雇い、再度樺太西岸を北上し、第一回の探索で到達した地よりも、さらに北に進むことを意圖した。北緯五十度二十五分の地点まで進んだが、冬の悪天候に災いされ、また、食糧も乏しくなり、リヨナイから凍結した海を渡ることも叶わず、やむをえず、トンナイに引き返して、越年した。

 翌、文化七(一八一○)年一月、ノテトに到着し、黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西海岸ナニオーまで到達し、樺太が半島ではなく島である事を確認した。さらに、間宮林蔵は、樺太北部に居住するギリヤーク人から聞き及んでいた清国の交易所(満州假府)が存在する、黒竜江(アムール河)下流の町「デレン」の正確な位置、および、ロシア帝国の動向を確認するために、ギリヤーク人の酋長コーニなどとともに、海峡を渡って、その下流地域を調査した。同年七月二日、ラツカ岬を出港し、翌三日、タバ湾のムシホーに到着し、それから、キジ湾に出て、十一日、デレンに着いた。その地で、満州假府で行われている進貢交易の有様を詳しく見聞し、十七日、デレンを出発し、黒竜江(アムール河)を下って、八月二日、その大河の口にあたるブロンゲ岬に辿り着いた。その後、大陸に沿って南下し、海峡の最も狭い箇所を通過して、ワゲーに着き、八月二日にノテトに帰着した。宗谷に戻ったのは、同年九月二十八日で、一年以上にわたった長く苦しい旅であった。

 なお、現在ロシア領となっているアムール河流域の外満州(沿海州)は、一六八九年に締結されたネルチンスク条約により、当時は清国領であった。外満州(沿海州)がロシアの領土として認められたのは、一八六○年の北京条約締結以後のことである。間宮林蔵は樺太が島であることを確認した人物として認められ、シーボルトは、後に作成した日本地圖で、樺太島と大陸間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名した。海峡自体は「タタール海峡」と記載されている。

 この探検調査によって、間宮林蔵は、樺太北部から黒竜江(アムール河)下流にかけて生活している、アイヌ、スメレンクル、ヲロツコ、シルンアイノ、キムンアイノ、サンタン、コルデツケ、キヤツカラ、イダー、キーレンなど、多くの少数民族の風俗や生活様式について、詳細な記録を残した。また、旅の途中で見る機会を得た風景、地形、気象などの地誌についても、絵画を活用して、精緻に記述している。この旅の有様を圖説した資料が「満江分圖書」で、古賀?庵に語った筆記録が「窮髪紀譚」である。この資料は、上巻が「宗谷(ソーヤ)を出発してデレンに至るまでの舟行記事」、中巻が「デレンに在留中記事」、中巻が「デレンを出発して樺太島に帰るまでの舟行記事」で構成されている。この「東韃地方紀行」の異本が数多く知られている。いずれも、「東韃紀行」の表題で刊行されていて、日本各地の多くの圖書館で架蔵されている。

(二)「北夷分界餘話」(長谷康夫 校閲・解読)

 樺太島北部およびその対岸の黒竜江(アムール河)下流地域に居住するアイヌ、ヲロツコ、スメレンクルなど少数民族の生活様式・風俗、および、それらの地域に生息する動物・植物の形態・生態などについて、詳細に調査した記録集成である。スメレンクルは間宮林蔵による呼称で、正式には、ロシア語で、ニヴフ(Nivkh)と呼ばれている。ニヴフは、樺太中部以北および対岸のアムール河下流域に居住する、モンゴロイド系の少数民族で、古くは、ギリヤーク(Gilyak)とも呼ばれていた。アイヌやウィルタ(ヲロツコ)と隣り合って居住していて、ウィルタ語の属するツングース系言語やアイヌ語と、系統を異にする固有の言語、ニヴフ語を話す。黒竜江(アムール河)流域と樺太で話されているニヴフ語は大きく異なっている。ヲロツコ (Orokko) は、アイヌ人による呼名で、正式には、ウィルタ(UILTA, Orok)である。彼らは、樺太の中部及び南部に生活するツングース系民族である。言語はツングース系言語の系統であるウィルタ語を話す。なお、アイヌは樺太島北部に居住して、ヲロツコ、スメレンクルなど少数民族と交易を行っていた。

 この資料は十巻で構成されていて、目次一覧は以下の通りである。北蝦夷地・島名(巻の一)、地勢・産物(巻の二)、南方初島・居家・器械(巻の三)、使犬(巻の四)、漁猟・交易(巻の五)、鍜冶・冠婚葬祭(巻の六)、ヲロツコ夷(巻の七)、スメレンクル夷 上(巻の八)、スメレンクル夷 下(巻の九)、ハラタ カーシンタ満州入貢(附録)。この目次に見られるように、豊富で美麗な絵圖を活用して、これら少数民族の生活様式や風俗などが、詳細に記載されている。

(三)「北蝦夷地部」(長谷康夫 校閲・近世歴史資料研究会 解読)

この資料は「北夷分界餘話」の普及版として刊行されたが、原資料と遜色がない内容である。特に、冒頭の「従北蝦夷至東韃靼地圖」(解読篇の三お、三う、四お、四う、五お)は、樺太と黒竜江(アムール河)下流地域の、蝦夷部落、異俗夷部落、未発見地が、色分けされて、詳細に描かれている貴重な内容である。索引を参照しながら、部落地名を参照することが可能で、研究のために非常に有効である。また、これらの地圖群は、別紙に掲載した「北蝦夷島地圖」の原圖であると推定される。
 この資料も十巻で構成されていて、目次一覧は以下の通りである。大序・島名(巻の一)、地勢・産物(巻の二)、初島人物・飲食・居家・器械(巻の三)、使犬(巻の四)、漁猟・交易(巻の五)、鍜冶・禮(巻の六)、ヲロツコ夷(巻の七)、スメレンクル夷 上(巻の八)、スメレンクル夷 下(巻の九)、地勢(巻の十)。

(四)「北蝦夷島地圖」

 幕府に上程した、この「北蝦夷島地圖」には、附録として、「北蝦夷島地圖 凡例・附 里程記」が附されている。原文篇にはこれを掲載し、あえて解読は行わなかった。また、「北蝦夷島地圖」はこれらの地域の地理的状況を正確に把握するために、別袋に大型用紙一枚に印刷した地圖を挿入した。「北蝦夷地部」に掲載されている「従北蝦夷至東韃靼地圖」(解読篇の三お、三う、四お、四う、五お)を改訂したものが、この地圖であると推定されるので、両者を参照しながら考究することをおすすめしたい。
 
 この資料集が成立するにあたっては、札幌在住の高木崇世芝先生と長谷康夫氏から、多大な御協力をいただいた。企画、編集、解読のさまざまな段階で御教示を仰ぎ、深く感謝する次第である。両氏の御助力なくしては、この資料集成の刊行はならなかったであろう。

 二○一七年八月三日
                                          編者識

科学技術古典籍資料シリーズの特色

(l)近世に創作された日本の科學・技術に関係する貴重な古典籍を網羅---貴重な資料が全国各地に散在しているために、日本の科學・技術に関連する第一次資料を網羅することはできなかった。今回はさまざまな資料を捜索・掲載し、日本の科學・技術の歴史全体を俯瞰できる内容とした。

(2)充実した内容と斬新な構成----初學者にも理解できるように、古代から近世末期までを俯瞰できる各分野ごとの科學・技術史年表、基本的な文献の解題目録、完璧な索引を作成し、内容を豊富化した。既存のさまざまな概念にとらわれずに、事実としての日本の科學・技術の歴史を明らかにすることを重視している。古代・中世に、中国より渡来した科學・技術は、江戸時代に独自の発展をとげ、この時代の中期以降に西洋の科學文化に接触し、さらなる歴史を形成した。本集成は、この発展の歴史を辿りながら、現代以降の科學・技術のさらなる発達に寄与できうる内容構成とした。

(3)あらゆる學問分野で活用できる資料集成----この資料のみで、日本の科學・技術史を俯瞰できるのが大きな特色。資料篇、文献解題篇、年表篇、索引篇のいずれからも読むことが可能で、さらなる研究に活用するために便利な資料。日本科學史、日本歴史の研究者のみならず、作家、ジャーナリスト、社会科學・自然科學分野の研究者なども活用できる、体系的な資料集成。
[当初この日本科学技術古典籍資料シリーズは、「日本科學技術古典籍資料集成」として、独自のシリーズで刊行の予定でしたが、古代及び中世の日本独自の文献を所蔵している機関が少なく、また、所蔵していたとしても、複製が困難なために、新たなシリーズとして発行することを断念致しました。さらに、江戸時代に科學技術研究が最盛期を迎えたことと、この時代に発行された資料がほとんどであることを勘案して、「近世歴史資料集成」シリーズに組み入れることにした次第です。深くお佗び致します。]

各巻本体価格 50,000円

[内容構成に若干の変更がある時は、ご了解下さい]

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