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ISBN978-4-7603-0432-5 C3321 \50000E
第11巻 日本科学技術古典籍資料/數學篇[17]
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第11巻 日本科学技術古典籍資料/數學篇[17]
幾何原本、數學啓蒙
2017年2月15日刊行
解 説
中国が海外の諸国と接触すると、常にその衝撃が大きな変化を引き起こすことは周知の事実である。明王朝(一三六八~一六六二)の時代にあっても、十七世紀以降に、ローマ教会(カトリック)から派遣された修道士たちが、ヨーロッパ社会で形成されたさまざまな文化や学問の移入にあずかったことは、よく知られた事実である。しかし、ヨーロッパ文明を移植しようとした修道士たちも、中国の伝統社会の規範との衝突を避けることはできなかった。そして、中国の人々も、ヨーロッパの伝統的な思考体系を内面化することなく、現代に至っているのが実状であろう。この原因について、自然科学を例にとって考察してみよう。例えば、数学や天文学では、古代に執筆された数学書としての「九章算術」や、元代に使用されていた「授時暦」などの内容を分析してみると、中国の学問水準の高さを認識できるはずである。十五世紀に金属活字を用いて印刷を行ったヨハネス・グーテンベルクに先駆けて、七世紀に木版印刷を開始したのは中国である。このような文化水準が高かった中国にあって、十七世紀末期に何が必要とされていたのか? 大いに疑問の残る事実である。物事の本質を見極めて考えるならば、中国には、事実の集積はあっても、それらの事実を収集・分類・統合・解析の各段階を経過して、普遍的な法則(General Law)を樹立する方法に欠如がみられるということも考えられよう。紀元前以前から、重層的な歴史展開で、幾多の思想と多様な文化を創造してきた中国文明の瑕疵は、このような視点からも解析される必要があると考えている。
ともあれ、このような中国に十六世紀にもたらされたのが、この「幾何原本」である。
(一)幾何原本(東北大學附属圖書館所藏、配架番号:狩七-二○八五○-八)
この東北大學附属圖書館所藏本は、日本で製本されて八冊となったが、もとは十五巻で構成されている。原本の巻構成は以下のようになる。
*幾何原本 一(第一巻之首、第一巻)
*幾何原本 二(第二巻之首、第二巻、第三巻之首、第三巻)
*幾何原本 三(第四巻之首、第四巻、第五巻之首、第五巻)
*幾何原本 四(第六巻之首、第六巻)
*幾何原本 五(第七巻之首、第七巻、第八巻、第九巻、第十巻上之首)
*幾何原本 六(第十巻上、第十巻中之首、第十巻中)
*幾何原本 七(第十巻下、第十一巻之首、第十一巻)
*幾何原本 八(第十二巻、第十三巻、第十四巻、第十五巻)
この「幾何原本」(Ji he yuan b?n; Ki ho youen peun; Les six premiers livres d'Euclide)は、紀元前三百年頃に、ギリシア数学者ユークリッド(Ε?κλε?δη?、Eukleid?s、Eucl?d?s、Euclid)が著した幾何学書「ストイケイア」"Stoikheia" の漢訳書の名称である。「ストイケイア」は、最初は十三巻で刊行され,後に十五巻に改訂・増補された。前半の第一巻から第六巻まで(「幾何原本 一」から「幾何原本 四」まで)を、イエズス会士マテオ・リッチ(Matteo RICCI、Li Ma-teau、利瑪竇)が口譯し、彼の指導により、徐光啓が筆受し、萬暦三十五(一六○七)年に完成した。この前半部分の譯出にあたっては、一五七四年に刊行されたラテン語譯の注釈本 (全十五巻) を活用した。著者はコレージュ・ロマーノの数学教授であるクリストフ・クラビウス (Christoph CLAVIUS、一五三七~一六一二)で、この 注釈本は一五八九年にも再刊された。後半部の第七巻から第十五巻まで(「幾何原本 五」から「幾何原本 八」まで)は、イギリス人宣教師アレクサンダー・ワイリー(Alexander WYLIE、偉烈亞力、一八一五年四月六日~一八八七年二月十日)が口譯し、李善蘭が筆受した。この後半部は英訳本から譯出され、清末の咸豊七(一八五七)年に、「続・幾何原本」 (全九巻) の表題で刊行された。また、同治四(一八六五)年には、曽国藩(Z?ng Guof?n, Tseng Kuo-fan)によって、南京において、前半部と後半部が統合して刊行された。これら二つの部分の完成年が約二百五十年間も離れていては、全体の資料を一度に閲覧・研究する事が、長い間困難であったと推定される。日本国内においても、この資料の完全版を所有している図書館・研究機関はそれほど多くはない。
原著者のユークリッドは、ギリシア幾何学の大成者として著名である。主著の"Stoikheia" で、従来の数学の研究成果を集大成し、かつ、系統化して、厳密な理論体系を構成した。この資料の内容を詳細に検討してみると、ピタゴラス学派などが、ユークリッドの活躍した時代より前から、既に体系化されていた成果を再構成した可能性が高いと思われる。具体的には、「平面図形の性質」「面積の変形(幾何学的代数)」「円の性質」「円に内接・外接する多角形」「比例論」「比例論の図形への応用」「数論」「無理量論」「立体図形」「面積・体積」「正多面体」などの多岐の項目にわたって叙述されていることが、そのことを証明している。いずれも、数学の基本的かつ原理的な要素を理解できるように構成されているのが、大きな特色であろう。いずれも、豊富な図版を活用して、命題、いわゆる原理的な質問に回答を与える形式で記述されている。「三角錘や円錐などの体積の求め方」「完全数とメルセンヌ数の関係」「素数」「因数分解」「素因数分解」「互除法」「図形分割論」「正多面体論」などの命題について、哲学的かつ原理的に論じている。紀元前に執筆されたにもかかわらず、これらの命題のいくつかは、二千年以上もの間、あまたの数学者たちに問題を提起し続けてきた。
口譯者のマテオ・リッチ(一五五二年十月六日~一六一○年五月十一日)は、イタリア人でイエズス会に属していた。フランシスコ・ザビエルの夢見ていた中国での宣教活動に成功し、明朝宮廷において活躍した。中国にヨーロッパの最新技術を伝えるとともに、ヨーロッパに中国文化を紹介し、東西文化の架け橋となった。イタリアのマチェラータ出身で、イエズス会に入会後、インドでの宣教を志して、一五七八年にゴアに派遣された。その後、マカオに滞在していた東インド管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ【アレッサンドロ・ヴァリニャーニ】(Alessandro VALIGNANO、Alessandro VALIGNANI、一五三九年二月十五日 ~一六○六年一月二十日)の招きに応じて、一五八二年に同地へ赴き、ミケーレ・ルッジェーリ(Michele RUGGIERI、Luo Mingji?n、羅明堅、一五四三年~一六○七年五月十一日)とともに、マカオで中国語と中国文化の研究を行った。
マテオ・リッチは中国南部の都市を転々としながら、ヴァリニャーノの示した適応政策に従って、中国の儒者の服を着て、中国式の生活をして、中国文化の研究に励んだ。やがて、彼の学識、特に、科学的知識の豊富な内容を理解する文人として有名になり、徐々に入門者が増えていった。一六○一年に、再び北京入りして、高級官吏の紹介を受けて、萬暦帝の宮廷に入ることに成功した。キリスト教を真に中国文化と適応させるために、中国人の祖先崇拝の習慣を受け入れた。
この「幾何原本」の他に、中国で、キリスト教の教えを説いた「天主実義」(一五九五年)、世界地図である「坤輿万国全図」(一六○二年)、などを刊行し、その文化に多大な影響を与えると同時に、中国文化をヨーロッパ社会へ紹介した。彼のもたらした新知識の多くは、漢語に訳されて、日本の学術や文化にも大きな影響を与えることになった。
中国文化に精通し、人格者であったマテオ・リッチは中国知識階級に影響を及ぼし、徐光啓や李之藻といった多くの知識人がキリスト教徒となった。一六一○年に北京で死去し、萬暦帝によって、阜成門外に彼の墓が作られた。 彼の業績と順応政策は、ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル(Johann Adam SCHALL VON BELL、湯若望)、フェルディナント・フェルビースト(Ferdinand VERBIEST、南懐仁、一六二三年十月九日 ~一六八八 年一月二十八日)、ジョアシャム・ブーヴェ(Joachim BOUVET、白進、白晋、一六五六年七月十八日~一七三○ 年六月二十八日)、ジュゼッペ・カスティリオーネ(Giuseppe CASTIGLIONE、Lang Shining、郎世寧、一六八八年七月十九日 ~一七六六176年七月十七日)といった明・清の皇帝たちに仕えたイエズス会の宣教師たちに引き継がれていった。また、フランス人のイエズス会士であるジャン-バプティスト・デュ・アルド(Jean-Baptiste DU HALDE、一六七四年二月一日~一七四三年八月十八日)、中国を訪れたことはなかったが、中国に派遣された、イエズス会士たちの報告をもとにして、一七三五年に「中華帝国と中華韃靼の地理・歴史・年代・政治・事物の記述(中国全誌)」(Description geographique, historique, chronologique, politique et physique de l'empire de la Chine et de la Tartarie chinoise. Paris: P.G. le Mercier, imprimeur-libraire. 1735.)全四巻を出版した。この書物は中国万般を理解するための百科事典で、ヨーロッパ人の中国研究の集大成とも言える著作であり、現在でも多くの中国研究者の座右の資料と言ってもさしつかえないであろう。
イエズス会士たちの協力者であった徐光啓(一五六二年四月二十四日~一六三三年十一月八日)は、明代末期の中国の暦数学者で、有名なキリスト教徒でもある。字は子先。上海の出身で、博学多才。一五九九年にマテオ・リッチを南京に尋ね、教えを受け、一六○三年にジョアン・ダ・ロシャ(Joao da ROCHA、羅如望)により洗礼を受け、キリスト教徒となった。その後、天文学・地理学・物理学・水利学・暦数学などについて、マテオ・リッチの協力者となり、彼の口授を翻訳・筆記・公刊した。この「幾何原本」以外に、ディエゴ・デ・パントーハ(Diego de PANTOJA、?迪我)「七克大全」の著作に協力した。また、「農政全書」の著作者としても有名である。イエズス会士ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベルの協力によって刊行した暦法書「崇禎暦書」の刊行にも多大な貢献を行った。徐光啓は西洋の諸科学を中国に輸入することに多くの功績を残し、熱心なカトリック教徒であり、マテオ・リッチやニコラオ・ロンゴバルディ(Nicolao LONGOBARDI、龍華民)など、イエズス会士たちの伝道活動を援助した。徐光啓はカトリックと儒教の教義は、相互を補完できるものと考えていて、そのため、迫害を蒙ることがなかった。
(二)數學啓蒙(國立國会圖書館所藏、配架番号:特二-一三八八)
一八五八(安政五)年洋刻の記載が見られる。アレクサンダー・ワイリー(Alexander WYLIE、偉烈亞力、一八一五年四月六日~一八八七年二月十日)が撰じ、金咸福が編纂した資料である。おそらく、「幾何原本」の製作と同様に、アレクサンダー・ワイリーが基本的な西洋数学の原理を口述し、協力者の金咸福が漢語で筆記したと推定される。全体が二巻構成で、巻一で加法・減法・乗法・除法・通分・約分・加分・減分・乗分・除分・小数など、数学の基本的な原理を叙述し、巻二で、比例・開立方・対数など、応用的な内容について、論を展開している。いずれも啓蒙的な内容で、設問を掲載し、それに懇切丁寧な回答を与える形式で記載され、「幾何原本」と類似した方式を採用している。一八七○(明治三)年に、日本において、複製版が刊行され、「蔵田谷清右衞門」が売捌を行ったことが記載されている。
(三)EUCLID'S ELEMENTS OF GEOMETRY
表紙には、'EUCLID'S ELEMENTS OF GEOMETRY /BOOK I /BASED ON THE TEXT OF DR. SIMSON /WITH EXERCISES /WILLIAM COLLINS, SONS. & CO. LIMITED. /GLASGOW, EDIUNBURGH, AND LONDON.'と記載されている。おそらく、"Stoikheia" の英訳版の一部であると推定される。詳細については不明である。
この「近世資料集成」も第八期までを刊行し、以後、江戸時代以前から、日本の文化や学問の礎となってきた海外で製作された文献を取り上げる予定である。未だ検討の段階であるが、読者諸氏の忌憚のない御意見をお寄せいただければ幸甚である。
二○一八年一月
編者識