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ISBN4-7603-0160-7 C3325 \250000E
近世絵図地図資料集成 第11巻(加賀・能登・越中[3])
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250,000円 (税込:275,000円)
近世絵図地図資料集成 第11巻(加賀・能登・越中[3])
(2007/平成19年8月刊行)
[第12回配本]
〈第1期・全12巻・全巻完結〉
The Collected Maps and Pictures Produced in Yedo Era--First Series
近世繪圖地圖資料研究会 編
A2版及びA1版・袋入・全12巻・限定100部・分売可
各巻本体価格 250,000円
揃本体価格 3,000,000円
鉛色の空の下で 越中国の絵図を読む
1 はじめに
越中国は河川国である。その実情は、本絵図地図集の越中国国絵図や郡絵図をみると一目瞭然である。絵図はカラ-でお見せ出来ないのが残念であるが、白黒の絵図でも河川は識別できる。本絵図地図集は、すべてが何らかの形で河川と関係している。
この河川国という特徴が、水田率全国一位という実績となり、近代では水力発電の原動力となった。それと同時に大洪水や水害の多発、という自然災害が年中行事ともなった。大洪水や水害の被害状況については、郡絵図や村絵図、水害地復旧絵図などを多数収録したから、それらを御覧願いたい。 越中国は河川国である、と書いた。それでは越中国には、どのような河川が流れているのだろうか。現在の河川名と前近代の河川の名称には、それほど大きな違いはないから、現在の河川名を挙げてみることにしよう。 まず新潟県境のほうから見てみる。県境近くを流れているのが大平川である。次が笹川で次いで小川、入川、平曾川、黒部川、片貝川、角川、早月川、上市川、白岩川、常願寺川、神通川、牛ケ首用水、庄川、小矢部川、仏生寺川、上庄川、余川川、阿尾川といった河川が日本海に流れ込んでいる。これらの河川は、日本海に流れ込んでいる河川である。 これらの河川の他に、大河川に陸地の途中で合流している河川もある。本絵図地図集に収録した村絵図・郡絵図にも関係するので、煩をいとわずに掲げて見よう。
黒部川は現在の新潟県境に近い地域を流れる大河川だが、この川には、上流で黒薙川や柳又谷、猫又谷、祖母谷、祖父谷、東谷、小黒部谷などが合流している。片貝川には布施川、東又谷、南又谷が合流。早月川には白萩川、立山川、池の谷が合流。上市川には千石川が合流している。 神通川には熊野川、黒川、長棟川、久婦須川、野積川、跡津川、宮川、高原川、井田川、山田川、室牧川、大長谷川、百瀬川が合流している。やはり神通川は大河川である。庄川には利賀川、小谷川が合流。小矢部川には旅川、山田川、池川、打尾川、渋江川がそれぞれ合流している。 これらの大小河川とは別に、川幅が2~3メ-トルくらいの河川が無数に日本海に流れ込んでいるのである。越中国は真に河川国である、と言って良い。それにこれらの大河川や中小の河川に共通しているのは、流れが早い、という点である。現在の庄川や神通川が平野部に入った時には、流れがゆるやかになっている所も見受けられるが、それらの河川にしても、1月の降雪・降水量の多い時や、8月の降水量の多い時には、すぐに暴れ川に変身するのである。暴れ川は下流域に肥沃な大地を供給もするが、河川沿いの村々にとっては大洪水に巻き込まれ兼ねない危険も併せ持っているのである。これらの関係については、災害関係の村絵図を御覧願いたい。
立山をはじめとした山岳地帯には、冬の間に雪が降り積もる。平野部には夏にたくさんの雨が降るから、それらが暴れ川を作り出したのである。しかし、古代の遺跡の分布図を見ると、かなりの山奥にも大小の河川沿いには縄文時代の遺跡が見られるから、平野部の河川は流路が変わっても、山奥の場合には現在と比較しても、ほとんど変化はなかつたと見られる。
ところで、現代の富山県下には、以外と近代工業が早くから成立した。その工業の成立を準備したのは大小の河川であり、ダムである。黒部ダムは有名であるが、富山県下にはその他にもいくつもの貯水式ダムが作られている。そのダム発電が工業を準備した。 日露戦争の前後に高岡市内で電灯が灯されたが、この時は火力発電の電力であった。富山市内では1897(明治30)年に富山電灯会社が水力発電を始めている。アメリカで開発された新式の発電機が据えられ、当初は最大出力が150キロワットであった。富山電灯会社は1911(明治44)年に富山電灯株式会社となり、後には日本海電気に、現在の北陸電力となつていった。
1919(大正8)年には日本電力会社が設立され、神通川・常願寺川・黒部川の電力を開発、名古屋や京阪神、神奈川方面へ送電している。王子製紙や大日本人造肥料などの工場も日本電力会社の電力を利用した、といわれている。
1919年には、富山県の史上にも有名な「流木争議事件」の原因となった、庄川水力電気会社が設立されている。同社は庄川上流に小牧ダムの建設を計画した。小牧ダムは1925(大正14)年に工事を開始して、1930(昭和5)年に完成した。その間に延べ100万人の労働者が動員されたという。「流木事件」はこの間に起こった。
この小牧ダムは出力7万2000キロワットで、完成当時は東洋一であった。ダム貯水式発電所の第一号である。しかし、このダムができることにより、庄川沿岸の漁民や森林業者は生活が脅かされることとなった。そのために、漁民や流木運搬業者はダム建設の差し止め訴訟を起こし、1933(昭和8)年まで法廷闘争やデモ、各種の反対集会、宣伝戦を行なった。
2、日本絵図地図制作史・覚え書き
①村絵図
村絵図については、魚津町絵図、倶利伽羅峠往還絵図、倶利伽羅山中絵図、富山城下より二俣三筋道見取り絵図、高岡町絵図ほか高岡絵図、富山城下絵図等を除いた絵図地図を多数掲載している。その他に、絵図地図集の分類としては本絵図地図集では郡絵図として扱っているが、例えば婦負郡駒見村絵図とか同郡古沢村・杉谷村絵図、同郡五福村・安養坊村・吉作村・住吉村・北代村・小竹村絵図、同郡猪谷村絵図、同郡南方山地絵図などなどの絵図地図は、本来ならば村絵図として扱われるべき物である、と考えている。
したがって、本絵図地図集には越中国の婦負郡・礪波郡・上新川郡・下新川郡・射水郡下の村々に関しては、かなりの量の絵図地図を収録している。ひとつひとつの絵図地図の標題が「検地絵図」とか「見取絵図」、「縄入図」、「川筋図」、「用水絵図」などとなっているから、一見すると村絵図とは関係のない絵図地図と思われるかも知れないが、内容的には村絵図と言って差し支えない絵図地図なのである。読者・研究者諸氏におかれては、その辺りをよく認識して利用して欲しいと考える次第である。
このような絵図地図は、災害復旧時や領主の交代時、検地が行われた、ないしは行われる前後に製作されている。そのために、ひとつひとつの絵図地図の標題が違っているだけで、内容的には同じような絵図地図がまま見られるが、細部を検討すると以外に変化が見られる。したがって、「同じような物を何枚も収録している」と考えずに、細部の異動をよく点検されることをお勧めしたい。絵図には必ず製作された目的がある。
このような絵図地図の解説を書く時に、いつも困るのは「日本絵図地図製作史」といつた内容の文献が一切ないことである。したがって、基本的参考文献がない、という状態でものを書かなくてはならない。いわば羅針盤のない船のようなものである。
先人の絵図地図研究者の論文を読んでみても、この点を指摘している論文がないわけではない。しかし筆者は、「日本絵図地図製作史」といつた文献はまず書けないだろう、と予測している。絵図地図の内容が、あまりにも多岐にわたっているからである。これまでは、日本美術史の一分野として絵画史という分野があるが、その中で絵図地図は扱われて来ているらしい。
インドで発祥した仏を忠実に描く図像画が、中国や朝鮮半島を経由してわが国へ入ってきて、仏教絵画の隆盛になっていった。高松塚古墳の壁画は大変に有名である。キトラ古墳の天井画には、東西南北の位置にそれぞれ玄武や白虎などが描かれているが、この天井画は、見方によれば絵図地図の最古の形態を現している、と考えられないわけではない。何故なら東西南北という方位をちゃんと現しているからである。後に描かれる国絵図・村絵図にとつて、東西南北の位置関係は大変に重要な問題になつてくる。
特に北という方位は重視されたとみられる。古代中国には「天子は南面す」という考え方があり、皇帝や天皇は太陽に面して建てられた屋敷に住み、南に面した場所で政務を行い、人に会った。「北斗七星」という言葉はいかに北という方位が重要であったかを物語る。平城京や平安京は、北側の中心に天皇の在所が構えられている構造である。
越中国に関しては、すでに正倉院のなかに、後には「村絵図」というべき絵図が残されている。本絵図地図集にも一枚だけ収録した。759(天平宝字3)年製作の越中国の条里絵図では、射水郡・礪波郡・新川郡で条里制が施行されていた様子がわかる。全国的に見ても条里制の名残は、坪ノ内とか一の坪とか、坪井などの小字となって現在にも残っている所が多い。
正倉院に残されている条里絵図のひとつである伊加流伎野(いかるぎぬ)の絵図を見ると、縦横の線で土地を区切り、碁盤の目のように条里を敷いた様子がよくわかる。上と中間と下の部分には、絵図の東西(?)に流れている用水らしき書き込みも為されている。近世によく描かれた村絵図の構図に近い物である。
丈部野(はせべぬ)の絵図では、条里の一マスごとにさまざまな書き込みがなされている。伊加流伎野の絵図は、ただ単に条里制を敷きましたよ、という完成後すぐに描かれた絵図と見られるのに対して、丈部野の絵図ではかなり土地の管理が進み、近世の村絵図によく見られるような、土地の利用状況がよくわかる絵図となっている。絵図の斜め上から下に向かって、三本の用水らしき施設も書き込まれている。この絵図は、かなり高度な製作技術と考えられる。
このような絵図地図は、その後も各時代に製作されたのに違いない。しかし史料が残っていないので、どのような絵図地図が製作されたのか、具体的にはよくわからない。 鎌倉時代には、各地でよく土地争いが起こっているが、その時に先祖伝来の土地の証文や今日でいう権利証を持って幕府に裁許を求めた、という史料が残っている所から考えると、絵図地図は製作されていたものと見て良い。鎌倉幕府の二代将軍・頼家は、土地争いの裁許に対して、証文の真ん中に線を引いて、いわば「喧嘩両成敗」式に争いを納めた、と史料にある。この証文は絵図地図だったと考えられる。
絵図地図が製作されるのは、村々・個人の所有している土地の権利関係の確認のためである。そのために、村々や各個人にとっては、絵図地図を初めとした証文・証書類は、命の次に大事なものであったと言って良い。
しかし、中世という社会は戦乱に明け暮れた時代であつたし、大名領国制の時には、百姓は足軽として戦に動員されたから史料は後世に残りにくかった。現在、歴史学の上でもよくわからないのは、中世の農民には移動の自由があつたかどうか、という点である。移動できたとすれば、土地の権利関係はかなりあいまいにならざるをえない。「居抜き」という言葉がいつ頃から使用されるようになったのか、筆者は畑違いの問題だからよくわからないが、あの言葉が中世の時代から使用されていたとすれば、百姓にも移動の自由があったと考えられるのである。
それはともかく、『日本書紀』には大化の改新の頃の全国各地の国々の境界や、地方から献上された地方の国々の図についての記述がある。現存している最古の絵図地図は、正倉院に残されている東大寺などの寺の領地に関する物である。これは、先程もふれた越中国の条里絵図と同様の系譜に属するものである。7世紀や8世紀に描かれた絵図地図が残されているのは、世界的にも極めて珍しい。
『日本書紀』には、国々の境界や国図についての記述がある所を見ると、一定の統一権力が存在していたのであろう。境界という問題が出てくるのは当然の成り行きである。この後、国図といわれる物が製作されるのは、行基図といわれる絵図である。行基(668~749年)が全国を歩いて作ったといわれる「行基図」は、1305(嘉元3)年に製作されている。この図は、京都の仁和寺などいくつかの寺に残つている。此の図には現在の北海道や沖縄は入っていないが、何となく現在の本州の形に見られなくはない形状になっている。行基図を踏襲したものはその後も製作されるが、戦国時代にはかなり詳細な絵図になった。江戸時代に入り、正保の国絵図になると、大変に詳しい正確な絵図になったのは、ご承知の通りである。15世紀後半には木版刷りの絵図も製作されるようになった。
徳川幕府8代将軍の吉宗は、建部賢弘(たけべかたひろ)に命じて「日本総図」を作らせているが、この建部の頃から絵図地図製作に、部分的にではあるが測量技術が取り入れられるようになった。その技術の到達点が伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」である。 ②和算と測量技術
近世の絵図地図製作には、天文学や△測量技術、重力といった学問研究の成果が取り入れられた。このうち△測量には和算の知識が応用されたと見られるから、ここでは和算について見てみよう。
すでに「和算研究には十分職業的な基盤がないためにかえって、近代小説家のように職業的書き手と一般読者というようなプロとアマとの間の分極化が進行せず、和歌、俳諧、生け花、茶の湯、数学パズルのように、参加する芸能として、特殊な一部有閑グル-プに愛好されたからであろう。今日、和算は学問よりも芸能であつた、という評価は、数学史諸家のひとしく認めるところとなっている」(「算家の世界」中山茂 『思想』1975年1月号所収)。近世日本の和算は、一般的には和歌や俳諧、茶の湯、浄瑠璃や義太夫などの芸能と同じに見られていたし、そのように認識されていた、というのである。
そのような認識を裏付けるように、近世日本では「算聖」といわれ、和算創出者といわれている関孝和みずからが、本人の自筆と言われている免許状の中で、和算の権威付けなどの記述の後に、「何ぞただ一項の芸と云うべけんや」と文章を結んでいる(『関孝和』平山諦 恒星社厚生閣 1959)。
関孝和本人としては、算学がひとつの芸能として見なされる世評を否定して、算学は学問として高尚なものである、と認識していたとみられるのである。算学を高尚な学問として世間に認めさせようと、関孝和はじめ和算家の人達は、算学の書を上梓するときに、序文を儒学の権威に求めている。
儒学者は、算学が中国の経書である『周礼』の六芸のひとつとして古来から尊ばれてきた、と述べ、そして算学には宇宙の根本原理であり自然哲学的・数理哲学的内容が強調されている、と書いている。儒学は近世に学問としての正統性を勝ち得たが、天文学や暦学、医学や算学などの学問は正統な学問としては認められず、周辺の学問、低位の学としての位置づけであった。したがって、誰でもが取り組める「学問」であった。今日では社会的評価の高い医師でさえ、江戸時代には看板さえ掲げれば、誰でもがなれたのである。社会的評価はそれほどに低かったのである。和算家の扱いは推して知るべしであろう。
近世の和算家のなかには、易や占いによって生活している者がかなりいたといわれている。それは、易も算も共に算木を用いるから、世間の算学に対する誤解を逆手にとった処世術だったと見られる。和算家は、世俗の生活者でもあったらしいのである。
そのために、近世の和算家は、測量などの実用性をさかんに宣伝した。今日残されている和算書をみると、和算の実用性について必ず触れている。測量技術は、検地のときには田畑の広さを測ったり、街道の宿場と宿場の間の距離を測ったり、山の高さを測ったりする実用の学として、盛んに利用されている。それにもかかわらず、近世社会にあっては和算は社会的な評価を挙げることはついに出来なかった、とみられる。
近世社会では、実用の学としての和算は後期になるほど盛んになったが、和算を研究している者は、専業では生活できなかった。和算は、富裕な農民や商人、武士の教養のひとつとしての知識、くらいに考えられていた。しかも、和算には教科書となるような共通の教材もなかつたのである。
それだけではなく、和算家の社会的評価を下げたのは、俳諧師や、漂泊する旅芸人と同様に、諸国を遍歴して地方の学問好きの名主や富豪商人やらに世話になりながら、生活している和算家が少なからずいたからである。あの有名な俳諧師の小林一茶でさえも、自分では書籍一冊買うことができなくて、金がある時に買った書籍も、金がなくなると売り払って生活の足しにしていたのである。一茶は、いつも三か月くらいは家を空けて、現在の東京都葛飾区や千葉県の房総半島の各地で俳句の会を催して、そこで講師料をとったり、会員の作品の添削をして資金を得ては次の地へと移動していた。この生活スタイルは、旅芸人のそれと何も変わりがない。だから小林一茶は江戸にいた末期の頃には、みずから「乞食首領」を名乗ったほどである。和算家の生活も一茶と何も変わらなかったのである。 このような社会的地位の低い和算家の行う学問が、社会的に名声を得るのはきわめて難しい、といわざるを得ない。和算は、近世社会では藩や幕府の公認の学問としては、ついに認められることはなかった。和算は近世の出版目録を見てみると、茶の湯や生け花と同じ芸能のひとつとして扱われている。
それにもかかわらず、民間では和算研究者は少なからず存在した。和算には遺題という習慣があった。和算は、最初から答のわかっている学問ではない。そのために、ある人が和算の書を刊行すると、その巻末に自分で考えた何種類か、あるいは何十種の問題を出しておく。するとその書籍を見た別の人はそれを解いて書籍を刊行する。その時に自分で考えた問題を付しておく、という形で「友達の輪」が広がっていくのである。今日に遺されている和算書には、このような問題がよく掲載されている。
それだけではなく、関孝和の地元である上野国(現在の群馬県)を中心として武蔵国や東北地方にかけては神社に奉納された和算の絵馬としてもよく見かけられる。これらの絵馬は、かなり大型なのが特徴となっている。このような絵馬によく見られるのは、三角形の中に大小の円をはめ込んだ絵が描かれているものである。
検地図をみても、土地を測量する時に三角形に土地を区分して面積を求めている図がよくある。和算が測量によく利用されていた様子を物語る絵図である。だがしかし、和算は測量にはそれほど高い精度は要求されていなかったらしい。三角測量は、正方形や長方形や台形といった、土地が四角になっていて三角で割り切れる形になっている所の測量は正確にできるが、自然地形の丸い形や瓢箪型などの土地は、ある程度の所までの測量はできるが、面積を正確に測量することは不可能である。
したがって、和算を土地の測量に利用した場合、おおよその広さがわかれば良かった、と見られるのである。それに、村絵図や町絵図に測量線の入っているものは、絵図製作者が個人的に、ないしは個人の覚え書きとして製作したものである可能性もある。
近世の絵図地図製作者としては森謹斎がよく知られている。この人は官許の絵図地図製作者であるが、森謹斎製作の絵図地図をみると、和算の知識である測量線の入っているものはまずない。森は、和算の知識を排除していた、とみて間違いないであろう。伊能忠敬製作にかかる絵図地図では、初期の頃の製作にかかる絵図地図には至るところに測量線が書き込まれているものがある。これは伊能忠敬が和算を学んでいた証拠である。
関孝和が「算聖」といわれる根拠は、円や円錐形といった図形を数値として解く、というように、問いの方法と答え方という基本的問題についてのレ-ルを引いたことによる。その関孝和は、『算学啓蒙』とか『天文大成管窺輯要』といった中国の算学や天文学の文献によって勉強したとみられる。しかし近世後期の和算家だけでなく、数学史の研究者までもが、関流の和算はすべて関孝和の独創的な考案である、として、中国書には敬意を払っている様子がないといわれる(『中国の数学』藪内清 岩波新書 1974)。そのためかどうかはわからないが、関流和算は、「数学上で意味ある発展は以外にとぼしい」(中山茂 前掲論文)。
「和算家にはそもそも基本が重要であるという意識があまりなかったのではないか。むしろ末梢的で複雑に手のこんだものの方が高級で高尚だと思っていたのではないか。ユ-クリッドの『エレメンタ』が日本に伝えられた時、図を見ただけでこんなエレメンタリ-でかんたんなことは判り切っている、西洋の数学は程度が低い、と過小評価し和算の方がすぐれていると信じた、というのは有名な話である。だから和算は基本を問う学問ではなく、瑣末を洗練させることを旨とする芸だと云われるのである」(中山、前掲論文)。
近世社会においては、和算は官の世界だけではなく、一般的な学問の世界においても、社会的評価がきわめて低かったのはまず間違いない。このように評価の低かった和算の知識を使って測量を行っても、それは精度的にも厳密ではなく、世間の信頼を勝ち得る絵図地図にはなりようもなかった、であろう。
越中国においては、関孝和の和算が盛んであった。特に有名なのは中田高寛(なかたこうかん)である。中田は富山藩士の生まれであるが、藩主の利与(としとも)に見出されて江戸に学問の修業に出た。その中田は、江戸での勉学の後に富山へ帰り、関孝和流の和算を広めたのである。その範囲は越中に限らず加越能全域に及んだ。中田の弟子の一人が射水郡高木村の石黒信由である。
石黒は中田から和算を学び、天文学も学んだ。富山藩の新田開発の縄張り役として活躍し、加越能三州の正確な絵図地図を製作したことで知られている。1803(享和3)年に伊能忠敬が越中国の放生津に泊まった時、石黒信由は伊能忠敬に会って、算学や測量術について語り明かしている。
石黒信由の弟子となり、数々の書物を著したのが五十嵐篤好である。五十嵐は礪波郡内島村に生まれ、農政学者としても活躍した。五十嵐は本居宣長などの著書を読み、国学にも通じていたという。
和算は近世には江戸ではなく、文化的に辺縁の地であった地域で生き残り、明治以降は都市部では西洋数学が支配的となり、和算は地方へ駆逐されてしまった。今日、地方都市で和算書や和算の巨大絵馬がよく見つかるのは、以上のような理由によるのである。
③.城下町図
本絵図地図集には、城下町絵図といわれる絵図地図は、富山城下図と高岡城下図くらいしか収録していない。魚津町絵図も城下町絵図といえなくはないが、近世の越中国には都市そのものがあまり発達していなかったから、遺されている絵図地図そのものがあまりないのである。この他、越中国においては中世の寺内町が近世においても寺内町として栄えており、都市的な機能を持った所もあった。
越中国の場合には、これらの都市はみな浄土真宗の関係の都市である。城端町・井波町・福光町はみな真宗の寺内町にその起源がある。真宗の寺内町として発達した都市としては、他に和泉の貝塚、大和の今井、尾張の聖徳寺、河内の久法寺などがある。寺内町に関しては、本絵図地図集の礪波郡図などの関係図を御覧願いたい。越中国では、現在のJR伏木駅の近くにある勝興寺を中心とした地域も寺内町のひとつである。同寺はかつての国衙の址である古国府の地にある。近くを射水川が富山湾に流れ込んでいて、台地上である要衝地にある。同寺は寺と云うよりは、城郭と云って良い構えである。同じ事は井波の瑞泉寺、城端の善徳寺についても云えよう。
勝興寺の寺内町は、1729(享保14)年には84軒、1813(文化10)年には118軒に増加している。天保期の町人の職業としては、商人と職人がおよそ25%を占め、日雇い人口が30%もあった。日雇いでも生きていけるだけの仕事があった、ということである。職人の内訳をみると家大工・船大工・大鋸・木挽・桶屋・壁屋であり、商人としては干鰯・茶・酒・塩・みそ・醤油・染め物・綿・蝋燭・質屋・宿屋・風呂場などであった。このような職業構成をみていると、単なる寺内町ではなく立派な都市、といって差し支えない。日雇い仕事は主に「船稼キ猟業等」(「近世の門前町」 原田伴彦 『都市形態史研究』所収 1985)であった。 このような大工や左官、桶屋などの職人を組織したことにより、北陸一帯は「真宗王国」となったのである。越中国だけでなく、越前や若狭、加賀、能登は現在でも真宗王国として有名な地域である。真宗を信仰していた職人衆が地域に土着して信仰を広めていったのである。そのために、職人が信仰していた「聖徳太子信仰」も、広く根付いたのであつた。北陸の各地に聖徳太子像と呼ばれる木像が残っているのはこのためである。
先に、越中国は河川国である、と書いた。河川国であるならば、自然災害である洪水や地震の被害なども避けられない。それらの災害復旧関係の絵図地図も多数収録したので、御覧願いたいが、問題は、災害復旧にあたっての河川の堤防の土嚢積みや田畑の復旧といった土木工事を誰がやったのか、という点である。近世には藩が主体であった。真宗門徒は、近世以前にはこのような土木工事の復旧工事に携わり、農民の間に真宗の信仰を広め、かつ、確実な工事を行うことによって、真宗に対する信頼を高めて行っているのである。このような背景があったからこそ、100年にわたる「百姓の持たる国」が支えられたのである。
3、被差別部落関係地名についての配慮
ところで、都市や城下町図には、必ずといって良いほどに、近世の被差別者の住む村々や町が記載されている。近世の加賀藩や富山藩には「藤内」という特異な名称で呼ばれていた賤民の一団が存在した。本絵図地図集では富山城下及び高岡城下図に記載があった。 特に目を引いたのは、両城下図ともに「藤内共」と記載されていた点にある。このような記載のされ方は加賀藩の絵図地図にもまったく見当たらなかった。この表現をそのまま読めば「とうないども」であろう。この表現からは藤内に対して、特に著しい差別観を見てとれる。お世辞にも藩を構成する民衆に対して、他の職人や商人と変わらずに、普通に扱っているとは言い難い。
それだけではなく、富山藩では近世には皮多系部落(藩の用語にしたがえば穢多である)を、「無人」と呼んでいた。つまり人間ではない、というのである。このような表現が藩の公文書にちゃんと載っている。富山藩というところは、何という差別意識の強い藩であることか。寺の門前に居住した人々に対して「掃除人共」という記載も見られる。 しかし、これらの被差別部落関係の地名に関しては、本絵図地図集からはすべて削除した。金沢市立図書館の要請である。近世の藤内村は、富山県内の一部の地域では村そのものが、近代に至り解体している所もみられるが、まだまだ現実には厳しい差別が残っている。その最たる差別意識は、「藤内はあばら骨が一本足らない」という俗説であろう。
また、今日でも富山県を初め北陸の各県では、結婚や就職にあたって、必ず身元調査を行うことが一般的になっている。よほど人間が、他人様が信頼出来ない地域なのである。それに、意外と人の移動も激しいようだ。それだけではなく、藤内村は近世の場合には各村々に一軒か二軒、多くても数軒しか住んでいない、といった所が一般的であった。そのために、藤内と言われた人達が、明治以降になり一度移動をすると、誰が藤内出身であるのかを確認することが大変に難しくなった。そのために綿密に身元調査が行われるようになったのだ、というのである。富山では引っ越してきた人を「旅の人」という。 このような現実がある限り、被差別部落関係の地名は、明らかにできないのは当然である。学術書だから、ひとつくらいは歴史の証拠として原史料を後世に残したい、という思いが筆者にもないわけではないが、現実には無理である。人権の重みの方が重要である。 富山だけではなく、北陸に行くと現在でも、県民性を現す言葉として「越前詐欺・加賀乞食・越中強盗」といわれることがある。これは差別というわけではなく、人間がどん底に落ちた時にどういう態度をとるか、を示した言葉である。富山人堅気は、水との闘いの中で忍耐力と積極性が築き上げられた、というべきなのである。
本絵図地図集に収録した村絵図や郡絵図をよく見ると、かつてあつた村が洪水で流されて、そこから移転したと見られる書き込みがいくつもある。藤内村もいくつか流されている。その時に人間は下を向いていたのでは生きられない。富山人堅気としての「質実剛健・堅忍不抜」の精神は、このような水との闘いの中から生まれたのである。
そのために人間の機微を理解することとか、文学・文化に対する理解には縁がない県民性となった。生活にゆとりがなかったともいえるが、もうひとつの理由は善かれ悪しかれ真宗の影響であろう。自分達は毎日漬物だけで質素な食事をしていても、実に豪華な仏壇だけはどこの家に行っても見られる物である。文化には金を使わないが真宗には喜んで献金するのである。「本願寺のドル箱」という地位はいっこうに揺るぐ気配がない。文学では未だに大伴家持だけが有名である。
なお最後になったが、本稿をなすにあたり、前年の絵図地図集に引き続き金沢市立玉川図書館近世史料館の宇佐見館長には大変にお世話になった。また参考文献や史料の調査では角田律子さんにお世話になった。記して感謝の意を表する次第である。