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ISBN978-4-7603-0161-5 C3325 \250000E
近世絵図地図資料集成 第12巻(対馬・壱岐・肥前・長崎)
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250,000円 (税込:275,000円)
[第12巻]対馬・壱岐・肥前・長崎
(2003/平成15年5月刊行)[第8回配本]
近世絵図地図資料集成/肥前・長崎編についての考察
1、はじめに
近世の肥前国長崎を中心にした絵図地図集成をお届けする。近世の長崎に関する絵図地図は、他の都市に比較しても、それほど少ないとは言えない。本絵図地図集成は、近世から近代に至る長崎を中心とした景観や発展の足跡を辿る資料として、貴重な素材を提供する、と考える。様々な方面での活用をお願いしたい。
長崎に関する絵図地図が大量に書かれた背景は、近世の長崎が鎖国体制下において、海外に開かれた唯一の窓口だったからである、と考えられる。三大話めいた記述になるが、近世の長崎といえば出島・丸山遊廓・大浦天主堂に代表されようか。これに近代以降には三菱造船所、グラバ-邸が加わるが、これらはいずれも長崎という都市の性格をよく象徴している、といえよう。祭りでは、中国情緒豊かな長崎くんちが大変に有名である。最近では、ハウステンボスがこれに加わる。近世長崎においては、出島のオランダ人の影に隠れるかたちになっているが、中国人もたくさん住んでいたが、長崎くんちはその影響が残る祭りである。
長崎における中国人の来航は、かなり古い時代からのことらしい。たとえば、興福寺という寺があるが、この寺は1620(元和6)年に唐僧真円が、長崎在留の唐人達の援助によって、寺町の一角に一寺を建立したのが始まり、といわれる。長崎では、町の東側一帯が寺町となっている。本絵図地図集にも書き込まれてあり、はっきり読み取れる。
唐寺と呼ばれる寺は、興福寺以外にもあり、そのひとつが福済寺である。福済寺は1628(寛永5)年、長崎に来航してきた唐人達によって、建立された寺である。この寺には雄大な山門や、1655(明歴元)年に創建された大雄宝殿などがあつたが、いずれも1945(昭和20)年の原爆によって焼失した。
もうひとつ、長崎にとって忘れてならないのは崇福寺である。崇福寺には龍宮門といわれる山門があるが、この門をはじめ崇福寺のすべての建物は、原爆被爆後に修理復元されて、現在は国宝や重要文化財に指定されている建物ばかりである。創建年代は、大雄宝殿が1646(正保3)年に建てられているから、少なくともそれ以前であることは間違いない。
この崇福寺の二代住職の時の1681(天和元)年、長崎は大飢饉に見舞われるのだがこの時に住職は、四石二斗の米を一時に炊くことができる大釜を作り、飢饉に苦しむ人々に対して炊き出しを行った。釜では、一度に3,000人分のお粥がつくれたといわれる。一石が2俵だから、およそ8俵と1/2俵を一度に炊いたわけである。大変な量である。
この他に有名な唐寺としては、聖福寺がある。聖福寺は他の唐寺とは異なり、中国人の父親と日本人の母親との間に生まれた住職が、1677(延宝5)年に創建したものである。この寺の鐘は、幕末の外国船襲来のときに、警報としてつかれたことがある。
歌舞伎の「国姓爺合戦」には「和籐内」が登場する。何故に和藤内というかといえば、中国人と日本人の混血で、和(日本人)でも唐(中国人)でもない、というシャレから来ている。当時から、国を越えた結婚の事例はかなり多かったとみられる。
2、鎖国と長崎
高校日本史教科書では、江戸時代のオランダやイギリスなどのヨ-ロッパの国や、キリスト教については詳しく触れているが、戦後処理などの微妙な問題を抱える中国や朝鮮の記述は、意外とあっさりとしている感がある。
例えば1995(平成7)年度用の高校日本史教科書のひとつは、近世の長崎に関して次のように触れている。やや長いが引用する。
「『鎖国と禁教』 (徳川)家康は初期には貿易を奨励し、キリスト教の布教を認めていたが、貿易と布教を結合させない新教国のオランダ・イギリスが平戸に商館を設置すると、キリスト教を禁止するようになった。1612(慶長17)年、幕府直轄地での禁教令を出し、翌年には全国に適用して、宣教師を追放し、江戸・京都をはじめとして教会を破壊し、信者を摘発して転宗を迫った。
1616(元和2)年、禁教の強化を命じ、中国船を除く外国船の寄港地を平戸と長崎に限定し、1624(寛永元)年にはスペイン船の来航を禁じた。朱印船貿易の統制も強め、1631年、朱印状以外に老中の奉書を必要とする奉書船制度をはじめ、中国船・オランダ船にも糸割符制度を適用した。
1633年にはじめて鎖国令を出し、奉書船以外の日本人の海外渡航と海外在住日本人の帰国を禁止し、違反者は死罪とし、キリシタン取り締まり、貿易統制の強化も命じた。1635年には外国船の入港を長崎に限り、奉書船も禁止して、日本人の海外渡航の道は絶たれた。さらに、1636年、長崎に出島を築き、ポルトガル人を住まわせた。
こうして日本は、大航海時代の世界へ広げていた窓口を長崎・対馬・琉球・蝦夷地の4か所に限定し、オランダ・中国・朝鮮とだけ幕府の統制のもとに貿易を行うこととなった 1637年、肥前国島原と肥後国天草の領民が、領主松倉勝家、寺沢堅高に対して島原・天草一揆をおこした。この一揆で島原・天草地方が荒廃したので、幕府は各地から農民を移入して復興をはかった。また、以後、禁教を徹底させ、1639年、ポルトガル船の来航を禁じ、1641(寛永18)年にはオランダ商館を平戸から出島に移し、鎖国体制を完成させた。
『鎖国の影響』 鎖国後、キリスト教禁教を徹底するため、九州地方では聖遺物を踏ませて、信者摘発と転宗のあかしとする絵踏を実施した。また、幕府に宗門改役を設けて、宗門改めと寺請檀家制をはじめ、宗門改帳(宗門人別帳)を全国で作成させた。しかし、九州地方をはじめ、全国でひそかに信仰を守った隠れキリシタンも少なからずいた。
鎖国体制のなか、オランダ商館長は毎年江戸に参府して将軍に面会し、『オランダ風雪書』を提出して、幕府へ貴重な海外情報を提供した」(『詳解日本史B 清水書院、168-170ページ)。この辺の記述は、後に触れる部落問題との関わりにとっても重要なので、あえて引用した。
この引用にもあるように、鎖国体制と言ってもそれはすぐに完成したものではなく、かなり長い時間がかかっていたことなのであった。そして、出島がわざわざ作られて、外国人はそこへ押し込められた様子も簡潔に記述されている。本絵図地図集は、こうした長崎港の様子が詳しいのである。しかし、出島にはオランダ人が押し込められたとあるが、教科書には、中国人は「唐人屋舗」に囲い込まれたとの記述はない。唐人屋舗は海と山に囲まれた地域にあったことが絵図地図に見えている。
「肥前国長崎之図」を見ると、「唐人屋舗」の隣には、「遠見番人」と「唐人番人」の屋敷が書き込まれている。遠見番人は港の監視であろうし、唐人番人はその名前の通り、唐人の監視にあたっていたとみて間違いない。その番人の屋敷は、小屋程度の建物ではなくて、かなり大きかった様子もわかる。唐人番人と唐人屋舗の間には、十善寺村が記載されているが、この村は唐人監視のための村だったのであろう。日常は百姓か漁師をしながら、それとなく唐人の監視を行っていた、とみてよい。近世には、地域における危険分子や不満分子を監視している人達があちこちに存在した。その一部の人々や地域が、現在「同和地区」とか被差別部落と呼ばれているのである。しかし、お断りしておくが、この十善寺村が同和地区というわけではない。念の為。
その唐人屋舗の海側の所には、「唐人荷物入」との記載がある島が描かれている。出島の半分ほどのこの島は、やはり人工的に作られたようである。「新蔵地」との書き込みもあるから、盗みなどを警戒して海に作られた島と考えられる。その島にもかなり大きな建物があった様子が、絵図地図から伝わってくる。 こうした建物があったのであるから、中国人の往来はかなり烈しい数だったのではないか。大陸から中国人や朝鮮人が渡来してきたのは、何も古代の一時期に限られていた訳ではなくて、鎖国の前後であってもかなりの数の人達が、長崎を中心にやつてきていたとみてよい。先にみたように、唐寺といわれる寺が長崎にはいくつも残っているのである。歌舞伎の「国姓爺合戦」は1715(正徳5)年、近松門左衛門が大坂・竹本座のために書いた浄瑠璃で、翌年に歌舞伎に移された。清に滅ぼされた明の再興にかけた実在の英雄をモデルにした時代物である。
こうした歌舞伎の演目が見るものに支持されたということは、唐人(中国人)や中国人と日本人との混血という人達も、かなり一般的だったのではないか。そうでなければ、竹本座で17ケ月ものロングランにはならなかつたであろう。大陸の人達との交流は、鎖国体制下にあっても意外と広範囲な交流がなされていたのではないか。お互いの国や言葉に対する知識や理解が一定程度にあった証拠である。
3、長崎地図に関する考察
さて、本資料集成について各図の検討に入りたい。所載図の特徴を明らかにしたいためである。長崎は周知のように近世初期から港であった。また、長崎をふくむ肥前国は壱岐・対馬や五島列島など、いくつもの島々から成つているが、ここにはそうした島々の絵図地図も収録している。したがって、本資料集成は、近世の肥前国全域を網羅した内容となっている。また、所載図からは、そうした島々における村々の変遷もわかるはずである。 長崎に関する絵図地図の研究については、<中村質「初期長崎地図に関する書誌的考察」『日本歴史』第235号、1967年>がある。中村論文は、『長崎県史』編纂の過程で接することができた長崎古地図について整理し、絵図地図の制作年次を明らかにしようとしたものである。
近世の絵図地図は、近代以降の現況図と違って、時間を無視してかなり長期間にわたる見取り図となっている図が多いから、絵図地図の題箋に「○○年作図」とあつても、必ずしもそれがそのまま当年の制作年次とは言い難い、という問題があるからである。とうの昔に移転してしまった寺や神社が、かなり後の絵図地図にそのまま記載されている、などということは、近世の絵図地図では珍しいことではない。あるいはその逆に、あるべきはずの町や建物が書き込まれていなかったりもするのである。
したがって、他の文献や誌・資料によって、ひとつひとつの絵図地図の制作年次を確認する作業は、地域史にとっては極めて重要な課題なのである。中村論文は、この点に挑戦したものである。
ところで、長崎は近代以降には歴史の荒波にもまれて、町や村の姿も大きく変わった所がいくつもある。長崎といえば1945年の原爆の被害をまず思い浮かべる人も多いであろう。戦艦武蔵が三菱長崎造船所で建造されたことに見られるように、近代の長崎は軍事都市としての一面も持っていた。明治以降にはロシア東洋艦隊が冬の間、長崎を避寒港として指定、毎年ロシア艦隊はウラジオストックより来航していた。そのために、稲左にはロシア人相手の巨大遊廓もできたほどである。
しかし、日露戦争が開始されると、長崎からロシア艦隊は撤退していく。すると、ロシア艦隊相手の商売は成立しなくなるから、町の構造にも変化が現れる。加えて、明治の中期以後になると、長崎の町の主要産業であった貿易が、横浜や神戸、門司といった新興の港湾都市にその座を奪われてしまった。すると、それまでは長崎に居住していた中国人も次第に長崎の町から去って、横浜や神戸などの都市へと移っていった。ヨ-ロッパから来日していた外国人も、次第に本国へと帰っていき、長崎からは外国人の姿が減っていくのであった。今日、横浜や神戸に大きな中華街があるのは、こうした明治以降の長崎の地位の低下と深い関係があるのである。
あまり知られていないが、長崎にはロシア革命の時に本国を脱出して、空き家が目立っていた大浦の外国人居留地の洋館へと移り住んだ人達がかなりいた。そのためにユダヤ人も多く、ユダヤ教会やロシア正教会もあったが、現在はすべて無くなっている。
このように長崎やその周辺は、近代以降も歴史の荒波にもまれて、町や村の姿が大きく変わった所が珍しくないのである。本資料集成は、そうした地域社会の変遷も絵図地図によって明らかにしたいと考え、敢えて一部については昭和期の物も収録した。近世からの変遷を一望できると考えるからである。 肥前国長崎は、大小様々な島をたくさん抱えている。そうした島々が、どのように領有されていたのか、を示したのが「五島領図」である。この図を見ると、島々がほとんど五島か平戸領のいずれかに領有されていた様子が一望できる。この図の前後には、五島列島に関する絵図地図を何枚か収録しているから、領有関係や港の盛衰もわかるのである。
島では忘れてならないのが「対馬」である。対馬に関しては、もう少し詳しく地名が書き込まれていると、朝鮮半島との比較も可能なのだが、本資料集成収録の絵図地図では、残念ながら見取り図しか収録していない。
「石田郡十一ケ村図」は、近代の地図であるが「触れ境」が記入されていたり、学校や郡役所も記載されている。「触れ境」の記入例は珍しいと見られる。また「北松浦郡各村図」を見ると、「川玉社」、「松山社」、「祝詞社」、「矢保佐社」などの神社が記載されている。こうした神社名も地域性を顕していて、地域研究には欠かせない。神社の分布は、その神を信仰していた人々の勢力範囲を示しているから、どのような集団が存在していたのかを探る、有力な手がかりとなる。
「南松浦郡村図十七か村分附女島男島之図」は近代の絵図地図であるが、港の発達する地域や人家が集中するのはどういう場所か、などがわかって興味深い。海が迫っている地域では、特に少しの土地も貴重だから、人家は生活には少し不便でも高台へ作られる。土地利用に関しては地域性がある。この地図からはそうした土地利用の様子が読み取れる。 大区小区制の実施されていた様子がわかるのは、「三根郡村図」である。大区小区制が実施されていたのは、明治時代初期のほんの一時期であるから、この地図は大変に貴重である。大区小区制は、それまでの郡や村に代わる行政区画として実施されたのであるが、人々の暮らしの実情に合わず、すぐに有名無実となり廃止された制度である。「諫早図及付属書類」も明治初期にみられた「戸長役場」が記載されており、きわめて貴重な地図である。この地図には「明治3年」作図の記載がある。「肥後国天草明細図」にも戸長役場の記載がある。こちらは「明治15年」作図との記載がある。
島原については「島原郡村図」がある。「明治13年」作図とあるから、近世の島原の様子を伝えているとみてほぼ間違いないであろう。ここには「社人屋敷」、「御使者屋敷」などの書き込みがある。こうした記載をみると、島原の町の性格がわかってくるのである。また島原の町の詳細図も収録した。
島原といえば、1637(寛永14)年に起きた「島原の乱」が有名である。先に日本史教科書を引用したが、鎖国とキリシタン禁教とは密接不可分の政策であり、同時平行して行われた。島原の乱後、キリシタン弾圧は全国各地で強められたが、天草や島原では「隠れキリシタン」としてさまざまな隠れの方法を採り、明治以降まで信仰を持ち続けた者が多かった。その隠れの方法は、各家ごとに違っていたといわれる。例えば正月飾りを一年中片付けないことが、隠れの方法であった場合もある。だから他人にはわからなかったのだ。しかし、その隠れの方法が全国で共通しているわけではない。地域によって、各家によって違っていたのであった。したがって、島原で、天草で隠れの証拠があつたからといって、それが全国に通用するとは限らない。逆に言うと、何でも「隠れの証拠」となってしまう、という危険性もある、といえるのである。隠れキリシタンの調査や研究は、慎重に進められる必要がある。牽強付会は厳に慎まねばならない。キリシタンと部落問題の関係については後述する。
4、長崎港と出島
近世の長崎は、そのほとんどが佐賀の鍋島氏の所領であった。現在の長崎県に属する肥前国西部地域は、松浦、大村、五島、松平等の小藩に分割支配されていた。肥前国・島原藩の松平氏は、近世になり当地へ移封されたものだが、他の諸侯は地方豪族として近世以前より当地で勢力があった。
特に松浦、五島二氏は島嶼に割拠して、海上を活躍の舞台とした。松浦氏は嵯峨源氏の出であるといい、八世公久の時に検非違使として肥前松浦御厨検校として当地へ下った。そして松浦を姓名として、元寇の役や南北朝の内乱の時にも、歴史に名を残した。その後平戸島や北松浦半島を中心にして周辺の島々を領有、壱岐一国も支配下に収めた。戦国時代には徴王を名乗り、当時の明国とさかんに貿易を行ったのだった。
歴史上に有名なフランシスコ・ザビエルを招いてキリスト教の布教を許し、25代の隆信の時代には、家臣の主だった者たちを入信させてもいる。その見返として鉄砲や火薬の製法を教えてもらい、松浦氏は海外貿易で富を蓄えると共に、武器製造も怠らず、「富国強兵」の道を突き進み、半ば独立国の感さえ呈した。
しかし、キリスト教はまたたくまに松浦、五島の島々を席巻、在来の仏教徒との抗争が頻発したため、キリスト教徒の平戸追放という事態に至った。そのため南蛮船は平戸に入らず、大村領内の横瀬裏に入ることとなり、平戸の繁栄は大村領に移ることとなった。そして長崎港も開かれたから、南蛮船は長崎へ入るようになり、平戸の繁栄はすべて長崎へと移ったのだった。こうして近世の長崎の基礎が築かれたのである。
長崎は、天正時代に領主・長崎甚左衛門が軍資金に困り、オランダ人などから巨額の軍資金を借りたことがある。そのため長崎は、一時彼らの抵当地となりキリシタン領となつたことがある。その時に市内三か所に教会が建てられ、オランダ人は市民に積極的にキリスト教の布教を始めた。
これを九州統一のために博多にいた豊臣秀吉が聞き激怒。長崎を没収してキリスト教を禁止した。オランダ人達は、それまであった神社や寺を破壊して焼却、「天火」と称していた。秀吉の行為はその反動であった。徳川の世になるとすぐに、現在も残っている杉森神社、伊勢神宮、諏訪神社、八坂神社、稲荷神社などが創られ、長崎市民にキリスト教からの転宗を迫った。寺も次々と建立されて、キリスト教からの転宗を勧めた。
しかし、キリスト教を根絶することはできず、浦上では集団としてキリスト教を信仰、幕末には天主堂を建てたことは有名である。幕府としては、こうしたオランダ人を自由に市内を通行させないために、1634(寛永11)年、市内の25人の豪商に出資させて長崎湾を埋め立て、出島を造った。そして平戸にいたオランダ人も、すべて出島へ収容したのであった。
出島へは、出島を造るときに出資した25人の商人以外は、誰も出入りできなかった。オランダ人も、年間に3回、原則として市中散歩が認められたが、それ意外には出島からは出られなかったのである。この出島から大浦にいたる間を「新地」という。本絵図地図集には、この出島の図は何枚も収録している。 こうして長崎の町は、寛文期(1661-1673年)には町数47、戸数12,000、人口65,000を数えたという。当時としてはわが国のなかでも有数の都市であった。ここが、近世における世界との窓口となったことはよく知られている通りである。
「長崎諸官公衙図」は、出島や唐人屋敷、牢屋敷の詳細図である。これによると、出島は3,969坪余、唐人屋敷は9,363坪余、牢屋敷は744坪余であった。出島の3,969坪というから1反=300坪、一町で3,000坪と計算して、およそ一町3反歩余となる。中世の地方豪族の屋敷がだいたい一町歩であつたから、出島はそれらの豪族屋敷よりも、やや広いくらいであつた。方一町というと、一辺が100メ-トル四方と考えれば良い。図には出島は横に広がった扇形に描かれている。したがって横の長さの方が、奥行きよりも長かったのであった。
唐人屋敷は9,363坪余というから、出島のおよそ三倍弱の広さであった。収録した絵図地図では、必ずしも唐人屋敷の方が大きくは描かれていないが、これは絵図地図制作技術上の問題である。それでもそれぞれの屋敷の位置関係はよくわかる。
牢屋式は、見取り図によると744坪余であった。他に184坪の溜まり牢が付属していた。744坪というと現在の表記に従えば25ア-ルほどの広さであるから、それほど広くはない。溜まり牢は囚人のうち、重病の者や重傷の囚人を一時的に収容して、治療などを行っていた所である。本絵図地図集成には、詳細図を数点収録した。同様の施設は江戸の町では吉原遊廓の南側に設けられていた。
ところで、九州には全国の石橋の9割以上が集中している。長崎県諫早市の「諫早眼鏡橋」は二連式の石橋としてよく知られている。その石橋を造った技術はどこから来たのだろうか。 これまでも少し触れてきたが、九州は中国と関係が深い。交流もかなり以前から盛んであった。当然、人や技術もいろいろと入ってきたと考えなくてはならない。石橋を造った技術は、室町期に中国大陸よりわが国へ渡ってきた人達によって、伝えられたといわれる。城や土手の石積みの技術、墓石などの石切りの技術は、中国人の伝えた技術であったらしい。そうした人達が、わが国へ入ってきてから自分達の出自を忘れないために、「藤」のつく名字を名乗った。「藤」は「唐」と同音である。「唐」からきた人であるから、「唐」と同音である「藤」のつく名字を名乗ったのである(石井進氏の研究による)。東日本におけるそうした石工集団のひとつの根拠地が、現在の長野県高遠町である。中国からきた石工であるからなのだろうが伊藤姓が多いのが、高遠の石工の特徴である。
九州に石橋が多いのは、そうした石工集団が、主に九州以外に出ていかなかった証拠とも見られるが、領主の側が技術の流出を止めていた、とも考えられないわけではない。
さて、近世の出島は3,869坪余とかなり狭かった。しかし、出島や唐人屋敷へは「傾城の外女入る事」の禁札があった。ようするに一般の女性は出入りが出来なかったが、娼婦は出入りが自由だったらしい。
こんな資料がある「長崎に青餅、ト-ピ-、羅紗めん、黒縮緬、よもや縮緬の語あり、此等の語意義異なり」とある(『長崎県紀要』)。これらはみな娼婦の別名である。つまりそういう別称がうまれるほどに、娼婦の数は多かったのである。娼婦は奥州の仙台周辺では「草餅」といい、鳥羽では「走り鐘」などと呼ばれていた。
絵図地図には、唐人屋敷の近くに「傾城丁」「丸山丁」が描かれている。ここの傾城が唐人屋敷や出島へ出入りしていたのは、前に触れた。「丸山の遊廓は漂客に吉原の張りを持たせて、島原の衣裳を着せ、丸山の揚屋で遊びたい」といわれた(同前)。ここに見られる様に、丸山遊廓は京都の島原、江戸の吉原と並び称されるほどであった。
丸山遊廓は、文禄年間(1592-1595年)に博多の遊女屋である恵比寿屋が、自分の所の遊女数人を連れて娼家を創ったのに始まる(『花柳沿革史』)。そして、近世長崎の繁栄と共に九州第一の遊廓となったのであった。
丸山遊廓の西隣が寄合町であるが、この町は1642(寛永19)年に創られたといわれる。ここは丸山遊廓と共に、長崎遊廓の発祥地といわれている。この寄合町に「青餅屋」があった。丸山遊廓には石畳が敷かれていた。長崎の人々は、丸山遊廓の入口を「山の口」と呼んでいた。本絵図地図集成にもこの「寄合町」は書き込まれている。
5、長崎の部落問題
長崎は、キリスト教徒の大反乱としての島原・天草の乱や、鎖国下の海外貿易の拠点としての出島などがあったから、幕府としては治安問題に腐心したことは疑いない。
部落問題は、長く近世幕藩体制下における「士農工商穢多非人」という身分制度に起因する、と説明されてきた。しかし、近世社会に「士農工商」という身分制度は存在しなかったことが、明らかにされている。士は武士のことで、これは身分だが、農工商は職業名であって身分ではない。身分問題と職業名が混同されて説明されてきたのだが、なぜにこんな事態が生まれたのか。
それに、全国各地で「穢多非人」といわれていたかのごとくに説明されてきたが、こうした言葉が通用する地域は、実はそれほど多くはない。その点とも関係するが、一体に誰が「穢多」や「非人」とされたのか、実際にはほとんどわかっていない。大雑把なのを承知で分類すれば、西日本は「かわた」呼称、東日本は「長吏」呼称が近世社会でも一般的であつた。そして、近世でもかわた・長吏共に主な職業としては農業であったことは、各地での研究で明らかになっている。必ずしも「皮革」関係ではなかったのである。
長崎のとなりの熊本県では、1921年調査によると「57部落」、1935年調査でも「45部落」と記録されているが、天草地方を中心にして、かなり調査漏れの地域がある。それらの地域は、小戸数のうえに、かっての隠れキリシタンの類族が多く、調査が不可能なのである。熊本県の場合には、熊本城下や菊池郡に大きな戸数の部落が存在している。熊本は、島原・天草の大一揆にあたっては、討ち死に318人、手負いの負傷者1,996人を数えたほか、戦功者の加増、戦功浪人の召し抱え、長崎湾警護などの出費で、財政負担が膨らみ続け、借金財政に陥ったのであった。島原・天草の大一揆は、全国の諸藩にも大なり小なり財政上の影響を与えた。
長崎の場合、1921年調査では「23部落」、1930年4月現在の数字では「62部落」と記録されている。しかし、その内訳をみてみると、長崎市や佐世保市、多比良村島原町や西有家町、対馬郡久田村などには、20戸を越える大きな部落が存在するが、他の所はたいていが10戸以下である。
ひとつの部落が10戸を越える所は、長崎県下では17ケ所であった(1930年調査)。あとの7割の部落は、10戸以下の極めて小さな部落ばかりであったのだが、この点は、長崎の部落の社会的な性格を浮き彫りにする、と考える。1930年調査では、県下の部落の職業は農業と記録されていて、生活程度も「中」の所が7割で、残りが「下」と記録されている。貧困問題だけでは部落問題が語れない現実がある。ちなみに1930年調査には、「副業」欄には何の記載もない。
島原・天草の大一揆(1637-1638年=寛永14-15年)は、原城に立て籠った農民軍、老若男女37,000人が処刑されて終結した。しかし、原城を包囲した幕府軍は総大将板倉重昌をはじめ、戦死者1,700、負傷者1万人を出した。
この一揆の結果、1639(寛永16)年7月、幕府の鎖国政策は完成した。一揆の時に鎮圧に手を焼いた幕府は、長崎の管理の徹底、キリスト教宣教師の取り締まりと処刑、婚姻、居住の禁止などの細則も設けた。これより先、1630(寛永7)年にはキリスト教関係書が摘発されたり、輸入書の検閲も行われる様になった。
長崎県下における部落は、10戸以下の少戸数の所が圧倒的に多い、と前に触れた。この少戸数の部落は、島原・天草大一揆に参加はしなかったが、教えを捨てなかったキリスト教徒の監視を主な任務にしていたのではないか。
近世の部落は、よく言われている様な「皮革」関係の仕事をしていたから、近代になって差別を受ける様になったわけではない。近世における部落は、農業のかたわら「役人村」として村々の警備や犯罪人の探索、百姓一揆の際の情報収集などが主な役割であった。長崎県下の部落の場合は、俗に「隠れキリシタン」といわれる、キリスト教徒に対する監視と情報収集が重要な任務としてあった、とみて間違いないであろう。情報収集なら少戸数でも充分に任務は遂行できる。むしろ大規模部落の方が、任務遂行には不向きである。 37,000人が処刑されて終わったとしても、一度信仰生活に入った人々が、人間の精神生活の中心であるキリスト教の信仰を、そう簡単に捨てはしなかったであろう。むしろ弾圧が強まれば強まるほど、信仰は強まるのである。大坂では、「四か所非人」といわれた非人部落が近世の大坂に創られた。四か所で合計2,000人の非人がいたが、そのうち902人が転びキリシタンだった。四か所非人の主な役割のひとつに、キリシタンの摘発が含まれていたのである。「毒をもって毒を制する」やり方である。権力をもつ者は、転びキリシタンとして転向したとしても、完全には信用していなかった、ということなのである(『摂津役人村文書』)。
ところで、近世長崎図をみていると、「穢多町」とか「非人」と書き込まれたものがいくつか散見される。本絵図地図集成では、その地域や地名については配慮を加えたが、時間を追って検討してみると、その位置が変化していることに気がつく。ようするに、何度か部落は移転させられている、とみられるのである。
『ふるさとは一瞬に消えた』(長崎県部落史研究所編)によると、まず1648(慶安元)年に戦国期から居住していた所から、移転させられたことに始まり、1698(元禄11)年には大火によって焼失し、その場所からの移転を強制されている。この時の火災は「焼き打ち」であつたらしい。移転は1718(享保3)年に行われた。こうした部落の移転は、長崎の町の拡大やキリスト教徒の存在と、密接に関係しているとみられる。
なお、本絵図地図集成には「寛永15年島原耶蘇教徒攻囲陣形図」や「肥前島原之城図」「島原市街大変前及後の図」など、島原・天草の乱関係の物を何点か収録した。こうした絵図地図によって、島原・天草の乱の影響が読み取れると考える。「攻囲陣形図」は雑誌『太陽』12巻第8号、196ページにも訳出されているものと同一の図だが、島原・天草の乱の陣形や作戦を見る時に、大変に重要である。こうした絵図地図によって、文字史料からだけでは窺い知れない、事実を汲み取る努力をしていきたいと考える。多くの人達の活用をお願いしたい。
なお、本稿執筆にあたり、以下の文献を参照した。
『長崎市史』『長崎市郷土誌』『長崎県の文化財』『長崎県教育史』『長崎開港四百年史』『長崎県の百年』『岩波講座日本歴史・近世2』『ふるさとは一瞬に消えた』。この他にも何冊かの文献を参照した。