本書刊行の意義
(1)日本帝国の跛行的発展を記す一級の資料
―明治元年9月8日以来、藩籍奉還の公表(明治2年1月23日)、新紙幣の発行と旧紙幣交換の布告(明治4年12月27日)、東京府下への地券発行及び地祖課税の布告(明治4年12月27日)、戸籍法の実施(明治5年2月1日)、徴兵令の布告(明治6年1月10日)、そして、地祖改正条例の布告(明治6年7月28日)と続く一連の政治過程は、明治新政府の国内統治政策の基本方針の具体化であり、国際的にも、巨大な生産力を有する一等国家へ飛躍するための礎を築くことになった。イギリス、フランス、オランダなど、西洋の諸国が、市民革命を経験して数百年かかってなしとげた、工業を主要な産業とする近代国家への成長を、その何分の一かの時間で成し遂げようとしたことに、大きな矛盾をはらんでいたことは事実である。日清戦争(明治27年8月1日宣戦布告)、日露戦争(明治37年2月10日宣戦布告)を体験しながら、工業化を促進し、原材料の確保、商品市場の新規開拓、日本人移民者の土地確保などのための中国大陸侵略は、日本帝国の跛行的な発展を示してあまりあろう。この時代の中で製作された『大日本改正東京全圖』は、当時の地理学の成果を集大成した一等の資料であり、日本帝国の国内統治政策の質の高さをも示していよう。
(2)明治初期の日水帝国の地図学・地理学の高水準を証明する資料
―江戸幕府が、明治新政府よりも後進的な政権であると言うのは、大きな誤りを言んだ考え方である。勝海舟や小栗上野介に見られる如く、西洋の文化や思想を摂取して、日本の工業化を促進し、軍事力を強大にして、生産力を高め、近代的な国家に変貌することを目指していた開明派は、幕臣に多く存在していたと推測される。留学生を多数ヨーロッパに派遣して、西洋の科学技術の習得に熱心であったのは幕府であり、西洋の文化や思想そのものを拒否していた尊皇攘夷派こそが反開明派と言えよう。この時代は、地図の製作も、軍事面と同様に、フランスの地図学の影響下に、内務省地理局の主導のもとに行われていた。国土地理院の前身である陸地測量部が活躍するのは、日清戦争の頃からである。縮尺も二千四百分の一と変則的であるのは、この辺の事情を物語っていると推測される。他の府県でも、同様の地図が製作されたことは、想像に難くない。陸地測量部製作の地図とこれらの地図群の地図の表現形式などの比較研究が、学問研究のための新たな問題提起となることを信ずるものである。また、明治初期以降、現在までの東京の都市形成も実に跛行的である。海や河川は埋め立てられ、農地は宅地に転換され、道路は縦横無尽に建設され、当時の面影を探すのは非常に困難である。約百年間を経ての東京の都市発展の有様を確認し、これからの都市建設に活かしていくことは、非常に重要なことである。とまれ、この貴重な資料は、都市建設学、建築学、地図学、地理学、日本史学など、他分野の貴重な研究成果を取り入れることによって、その存在意義をますます深くしていくと考えられる。